2009年10月7日水曜日

くらしの豊かさ

液晶テレビからは延々とバラエティ番組、パソコンではネットショッピング、蛍光灯が眩しく部屋の隅まで照らしている日本。家電製品、調理器具は基本的に新しい。駅のエスカレーターも常に動いている、止まるのは省エネタイプの最新型くらいだ。ホームには障害者用のエレベーターもかならずある。電車は決まって規則正しく動くし、ゆりかもめの無人運転のように山手線も滞りなく動く、止まるのは人身事故が起こったときくらいでしょ。ロボットに支えられているかのようにすべてが緻密に噛み合っていく。暗黙のコミュニケーションがまかり通っていて、何も言葉を発せずとも生きていける気がする。

僕がイギリスで経験した暮らしを思い出してみよう。
万年不況だし、女王いるし、首相いるし市民革命無かったし、アメリカの属国(失礼)だし、島国根性で人見知りなので結構似てる部分もある。ロンドンは、日本はこれからこうなって行くんだろうなっていうような他民族都市だ。だけど暮らせばやっぱり違う。紳士の国なのに(本当の紳士は穴が開くことが誇りだから)シャツの袖には穴は開いてるし、袖には鼻水だってついている。すべての「新品」は高いから、古いものを長い間大事に使うからすべての家電が古いし、日本ほど新製品は気軽なものではない。そりゃハイビジョンでデジタル放送対応の大画面TVもあるけど物価から考えると日本の2~3倍の値段だ。パソコンは型落ちだし、携帯電話は、2000円くらいで買えるプリペイド方式で、通話自体も短めでショートメール中心。最近は、ようやくE-mailを受信したりインターネット見れたり,Skypeを使う無料携帯も普及している。部屋には、14インチないブラウン管のテレビが微弱な電波で通信状況も悪い(デジタル放送はきれいだけど)。天井には60Wの白熱電球か、スタンドライトだけで暖色系で薄暗い。新聞はオレンジ色に見える。エアコンはないから扇風機。冬はドライヤー以下の性能の電気ファンヒーター、ケチケチつかうセントラルヒーティング(就寝時は消す)。だから、なんら変化も進歩まない昔ながらの「湯たんぽ」は、かわいいカバーに包まれてはいるが、いまだに冬場は人気がある。家具は、良くてアンティークの戸棚や机でどこか壊れている。普通は、IKEAやARGOSの家具だ。ベッドマットはスプリングが弱っていて真ん中が凹むから逆への字になる。それでも、インテリアは素敵でDIYして自分色にリフォームしてあるから大家のセンスが良くって昔の家を改装したような物件ならとっても素敵な雰囲気だ。中産階級以上なら本物の絵画や版画が壁には飾ってあったりする。もっと上の階級なら、現代アートの立体作品が飾ってある。暮らしの中の「文化」の割合が多いってことだ。通学でTUBE(地下鉄)が動いていたら今日はいいことあるんじゃないかと思うくらいうれしい。バスも故障するし、運転手の都合で「降りろ」なんてことはざらだし。ストライキもあるし。いつも壊れている駅の上りのエスカレーターが動いているとびっくりする。でも、ホームへは階段しかない。障害者?それ以前にエレベーターはどこの駅にも無い。日本が社会的インフラの面でborderlessならイギリスはborderful社会だ。だけど(だから?)、老人がトランクを持って階段を上っていく、若い男が我こそはと手伝う。この国では、自分で自分の身を守る、体が弱ったら死を意味する。死のうと思えばいつでも死ねる。だからこそ、当たり前のように周囲が、困っている人を手伝う。妊婦が乗ってくれば、サーっと男たちが立ち上がって声をどうぞどうぞと声を掛ける。ちゃんと暮らすためには困ったら声を出すし、文句を言うし、権利を主張するし、人にも頼む、人と話すしかない。人間同士の接触が多い分コミュニケーションがある。そうせざるを得ない。「くらし」っていうと漠然としてるけど、晴れれば機嫌が良くなって公園でごろごろしたりする。幸せだ。

友達に会いにスウェーデンに行った。街が日本よりきれいだ。ごみが落ちてない。教育にお金がかからない、紙とノート、学校のコーヒーマシンもおいしいのに無料だ。インテリアも居心地がよくってリラックスできる。税金は高いから、すべてが高いけど。最低限の人間らしいくらしのレベルが世界でも高いと思う。

日本人の暮らしに対する欲望は、ロボットやロボットのように働く人々に支えられているみたいで、個人が見えにくい。みんな常識を共有している。B型は嫌われる(僕はA型だけど)。最新の家電とカッシーナの家具、流行っているからと並んで買ったIKEAの家具に囲まれるのをぼくはいいとは思えない。IKEAは北欧家具の劣化コピーであって代替品だ。イギリスには流行が無いといってもいいぐらいだ。流行だっていつだってマイノリティの所業だった。それぐらい変えがたい「自分」のセンスがみなにあるからだ。日本の観光地は飽きられるまでいっぱいだ。それよりも、晴れたら会社や学校を休んで公園でボーっとするのは結構幸せだ。イギリスでは、公園は常に流行っている。僕は人間って同じだと思ってたけど。イギリス人はみんな違う人間だと思う。イギリスには「個人」と「個人」が存在してコミュニケーションという名の議論が介在しているのだ。そして、イギリス人に「常識」なし、あるのはマナー。大事にしてる事がみんな違うから主張せざるを得ない。だからぶつかり合うし、すべてのアクシデントや遅延はイギリス人の「人間力」によるヒューマンエラーのせい。だからとーっても経済効率も悪いけど、イギリス人も不満を言いながらもけっこうあれでみんな幸せなんだってことに気づいた。文句を言う隙間の無いような社会は嫌だ。たくさんの問題があるからなのか、「生きてる」って自覚は常にした。常に1%は緊張してるのだけれども。対立があるから、返って自分の存在とか見えてくる。
そういえば、ロンドンの最初の一年は、誰も干渉してこない、構ってくれないことの開放感を味わった。自分で耳を澄まさないと入ってこない情報。常に自分が何をしたいか、それだけなのだ。まあ、長くすんでいると、そういう自由にもなれてしまうのだが。日本に帰ってきて、まず感じたのは、他人に対する視線。ロンドン時代も、「外人」としての視線は受けていたけれども、久しぶりに東京を歩いていて、日本人ってこんなに見るの?って肩身が狭いような感じがした。彼らにとって異質な「自分」を見ているのかなと思ってたけど。よくよく考えてみると、日本人は無意識的に空間にいるすべての人を把握するのだ、その場の「空気」を読むために。僕も日本にいた時は、あまりにも無意識に同じことをしていたので気づかなかっただけだ。イギリス人(違うけど)として日本に生活すると、干渉を受けている気がするし自分が溶け込めていないことの恐怖を感じてしまう(僕だけかな)。昔、British Councilで英会話を習っていたときに、スコットランド人の先生が日本はストレスフルだ。ストレスフルだ。と日々ぼやいていて疲れきっていてかわいそうだったのを思い出した。今思えば、いつも見られている感覚はキツイかったのだろう。でも、僕は帰国から3ヶ月経ってみて、またそういう視線を気にしなくなってきたようで外でもストレスを感じなくなってきつつあるし、身の回りの異質なものへ視線を飛ばしてはじめているのかもしれない。

ありきたりだけど。他人の「自分」も尊重しながら「自分」らしく暮らしていくことが出来るならば、幸せな暮らしだということなのではないだろうか。それを守るための社会であり、政治でありさえすればさぞ暮らしやすいことだろう。日本人の若者には「主張」が求められているそうだ。それは変化の予兆であってチャンスかもしれないのだけど、日本に育つ限り無いはずの「自分」なんて主張させられてかわいそうだなと思う。自分のやりたいことを見つけて、自分の判断で生活することの責任を負わせてくれるほど、日本社会は円熟していないからだ。イギリス人は自分の存在を周囲に認めさせる為に「主張」する。子供の頃から、「個人」として尊重されて教育されるようなベースがある。日本人がその場に合わせて「主張」する姿よりも、中国人が自分の利益の為だけに「主張」をしている姿のほうが国際的だと思う。協調性のある「自分」なんて存在しないのだから。日本の本格的な変化は最底辺の人々が権利を主張を始めることでしか起こりえないと思う。それは、主張しなければ生きていけない世の中へ変わるということかもしれないが。

だから、といっても、まとまってないけど。。。
日本人って技術も能力もあって、あんなに働いてるのにどうして貧しいんだろうか、そこがおかしい。イギリスは格差社会だ、日本よりそのクラスから抜け出せない。がんばれば幸せになれるという幻想を消し去って、イギリス人のように仕事を適当にがんばって余暇を旅行なり趣味なりに費やして仕事から離れることで救われる部分もあるだろう。
問題なんて世界中に溢れているし、自分の幸せに自信が持てる人なんていないとは思うけれど、これからの日本ではどうしたら豊かになれるのであろうか。僕には、日本人に突き放されたメディア(=アート)で変えていくことしか、今更いい年になってしまったから考えられない。ぼくは、日本人とってアートて楽しくもないし意味もないと思う。これは事実だと思う。だからより一層、制作者は社会との接点を求めていかねばならない。これは社会に迎合しろと言っているのではない、世界に認めさせるようなすごいもんを日本国内ででもつくってほしい。日本というアート後進国にレベルに合わせたアートもある。Arte Povera, Flux, 反芸術といった60年代のムーブメントは、恥ずかしい事だけど今の日本で完全に機能しそうであるから、それらに制作の軸を求めるのもいいと思う。まあ、急がなくとも、底辺のくらしが豊かになれば、状況も変わってくると思うのだが。

2009年9月28日月曜日

パクリ

アートにはパクリは無い。
積極的な意味でのappropriation(盗用)はある。批判的な意味で行われる。

極端な話、見た目もサイズもまったく一緒の作品が存在しても
コンテクストが違うなら、別の作品。パクリでもなんでもない。
まったく違う文化圏にいても、自分らしさを突き詰めた作品であっても他人の作品に結果的に似てしまうこともある。ほとんどのアイディアには先駆者がいるし、やりつくされた感はある。
もうすでに当然似たものが存在すると思ったほうがいい、だから事前に似た作品について調べる必要はあるし、referenceとして、その作品との自分の作品との違いや類似点について考える必要がある。

ぼくが、言いたいのは、デザインやクラフト(工芸)にはパクリがある。
真似できないような超絶技巧出でない限りは、同じものや似たコピーをつくることが出来てしまう。
それは、製品であり、物だからだ。

でもアートにはパクりは無い。なぜならアート=コンテクストだからだ。コンテクストは真似できない。作品の「見た目」がアートなのではない。だから、見た目をパクラレタ!俺のアイディアだ!と言っている奴は、アートを分かっていない。単純なアイディアなら、先駆者が世界中にいる。でも、まったく同じことはしていないはずだ。他人の作品のコンテクストは誰にも真似できないのだから。コンセプト以前に、作家の性別、年齢、国籍、学歴などもコンテクストである。作家の背景で作品の意味が変わってくる。そういった読み解き方をされないように作家の存在を表に出さないようなコンセプトの作品もあるくらいだ。最近では、作品とは観客の経験だ、その場で生成された人同士つながりだという作品も多い。まあ、そういうコンテクストなのだが。サイトスペシフィックやインタラクティブな経験など、作品の意味を流動させるシステムなのである、もはや模倣とは無縁である。

じゃあ、仮に見た目だけじゃなくて、コンテクストをパクられたらどうしよう?
では、パクられた同じコンテクストで同じ作品がつくれるだろうか?
必ず違う結論(作品)に到達するはずだ、その違いこそ「作家性」だといえるかもしれない。そしてコンテクストは作家の「自分性」から逃れられない。コンテクストを盗んだところで結局自分の作品に生かせるならいいけど、最高のほめ言葉「自分らしい作品」へとコンテクストを整形することは出来ないのではないだろうか。

そういうわけで、どんどん自分らしい作品をつくるがいいし、見た目をぱくられたくらいで目くじら立てる必要はないってことを言いたい。だって、そのぱくったアイディアでつくっても、君には勝てない。え?上手にぱくられたら困る?それは、その人より先にいい作品をつくるしかないんじゃないかなあ。

まあ、同じ先生の生徒が、同じような絵を描くとか、エゴン・シーレの画集を見せたらクラス中がエゴン・シーレだらけになった。芸大に合格した生徒の絵を予備校生が真似るなんてことはよく聞くけれど、自信を持って自分らしいものを作っていきたいものですね。

Artがない話

今回は日本育ちのアーティストへけんかをふっかけるような内容です。 うんと、言いにくいですが、 日本にはアートはありません。歴史上も (この辺は、文明開化、殖産興業、フェノロサ、岡倉天心とかを調べて見てください)。 技術重視の古典的で自律的なアートでも、哲学がないと、Artじゃない。黎明期の日本洋画壇の苦悩の根源には、ヨーロッパのアート哲学を一朝一夕には会得できなかったことがあるわけですが、どれほど改善されたのでしょうか。そして、時代は移ろい、現代アートは観客(意味を分かってくれる人または対立する人)がいて成立するようになりました。存在理由として社会との関わりも必要になりました。アートは一回死んで、社会と人々と交わり始めたのです。 アートってかっこいいことでもオシャレなことでもない。 日本の若い人にとって、アートっておしゃれみたいな捉え方もあると思います。 イギリスも、そういう側面もあるよでもでもアーティストは冷静に糞まみれさ。そういう意味で高尚さ。おしゃれな人もいていいけど、ホームレスと間違われるような人でもいい。 おかまでも、ゲイでも、レズビアンでも、差別主義者でも、犯罪者でもいい。 Artをちゃんとやってるならば、いつだって Coolさ。 あと作家がだれかなんてどうでもいい。 作品が気に入れば、もしくは作品がとても気に入らなくても忘れられなければ、 あなたにとっていい作品だ。作家なんてカンケーないぜ。だって、本人でも嫌いな絵も作品もあるんだぜ。自分の好きな一枚を見つけよう。 好きなアーティストなんて見つけるな。作家の個人情報なんて気にしないで、作品をちゃんと見よう。作家で作品を見ているようでは、やっとモダニズムの気配です。 50年遅れてる。 日本のアートが認知されたのは事実だけど、 日本由来の固有種として発見された新種のシカみたいなもんだ。 東南アジアの田舎で少数民族が作っている民芸みたいなもんだ。文化人類学的には。 万博のジャポニズムブームなみの内容の無さだし表層、まさにスーパーフラット。。。 言いたいことなんてない!という開き直りさえ感じる。 はっきりいって、コンテクストの開発は海外経験組が引っ張っている。 指摘されるプレゼン力の弱さだけど、どう説明すれば外人が納得するのか理解するかを理解することが必要なので、海外で個人主義ベースの論理的思考を学ぶ必要があるのだと思う。だからといって、凱旋帰国した日本人アーティストを巡回してもなあ。 ヨーロッパと日本の一番の違いは、観客だとよく言われる。一方的なコミュニケーションにさらされても「そういうものとして」受け入れてしまう日本人気質に問題がありそう。これが、馬鹿アーティストをのさばらせる原因になっていると思う。あなたがおかしいと思ったら、おかしい。専門的な知識やアートの歴史を知らなくっても、自分目線の鑑賞は出来るはず。 あ、そうだ日本人がみんな外人みたいにわからずやで個人的になればいいんじゃないでしょうか。とりあえず他人を見るの止めてみよう、空気読むのやめよう。自分はどう思うのかを追求しよう。どんどん自分勝手になっていけば、「個人」が見えてくるはずだ。何をやってもいいんだって空気が必要だ。だからって、理由無く人を傷つけたり自由は履き違えないで欲しい。 自分を大切にアートと向かい合ってみる。そうすれば、身の回りのアートに気づくのではないでしょうか。こういう観客には、半端な作品では通用しないはず。

2009年9月19日土曜日

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.5 大巻伸嗣 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。

蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.4 蜷川実花 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.4として蜷川実花の今回の展示について。
写真を周囲の壁に配置。センターにある「部屋」の床にちらばる(没)スライドフィルムを貼付けられたアクリルの断片。全体としてそれっぽい感じにしてあるが、関連も薄いし。空間を頂いたのでなんとか埋めた感があります。アートとしてのコンテクストは解読不能でした。花がいっぱいです。Carl Zweissレンズの発色とかVIVID系のフィルムが好きな人って、ヒョウ柄が似合う気がした。
但し、世界でもこの世代の女性作家(ヴァーホーベンとか)は、「毒」のある作品をつくる傾向がある。それらをグロテスクや「おぞましいもの」などとアート界では言われている。観客をやや不快にすることによって、きれいでうつくしい「女性」という殻から脱却を計るフェミニズム的な抵抗がそこにはあると私は理解している。蜷川氏の色彩感覚は男性を寄せ付けない強さがある。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.3 名知聡子 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.3として名知聡子の今回の展示について。
巨大な女性のポートレイトに花が描いてありました。エアブラシで彩色してあってレースが貼付けてあります。コンテクストは読めませんが奇麗でした。
ミュシャの絵かタロットカードみたいなタッチのシリーズはスタイルが違うので一緒に展示しない方が良かったと思います。はい次

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち  - vol.2 石元泰博 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.2として。モネのペィンティングと、石元康博撮影のモネ晩年の「睡蓮」の写真について。

入ってすぐのコーナにモネの若いころの風景画が飾られています。隣の小空間にモネの中くらいの「睡蓮」と、「風景画」が展示されています。地方の美術館がこれだけのモネを揃えるのは奇跡だそうです。緑の風景だけではなく、崖の絵もあったりして。。。せっかくの企画展のなのに、企画側の苦労が見えるようで悲しいし、選ばずに展示したようで下品なので、展示は緑の風景画と睡蓮に絞るべきだったのではないでしょうか。名知聡子のスペースでも感じたことですが、数が多ければいい訳ではありません。

さて、モネの油絵の展示の次は、石本泰博の撮影によるモネ晩年の睡蓮のカラー写真である。石元泰博の名前は、企画展のタイトルには無いことで他の作家との差別化は図られてはいるが、展示の扱いは同格以上であるので私としては批評させていただくことにした。3点一組縦2メートル、幅12メートルの巨大な写真は、ニューヨーク近代美術館が所蔵する睡蓮の原寸大の大きさで、国立国際美術館が1980年に「教育展示」目的で撮影を依頼したものだそうだ。そして残りの壁3面に、クローズアップされた細部の写真が配置されてる。モネの筆遣いと、色の重なり具合がまるで抽象絵画のように見える。

展示の表向きの意図としては、本物のモネの睡蓮を見たことがない方に、実物の大きさ感じてもらい。クローズアップされたディティールを見ることで、睡蓮の配置や配色から現代アートにも通じるような構成の美を見てほしいということだろう。また、モネの作品数を補い、今回の企画の導入として、モネの本物から、現代アートへの繋がりを見せるという狙いであろうか。次の名知聡子の作品との100年近い差、つまり「美術の死」以前の作品と、現代アートとの断絶を嫌味に見せているように見えないこともない。

残念な点としては、
長い間議論されていて、今日も多くの画家にとっての命題である「絵画と写真の違い」の説明責任は、作品の中にもキュレーションにおいても言及されていない。もともと石本の写真は教育展示用の「資料」なのであって、アート作品ではないのだとしてもだ。実寸大の代替品としていうこと以外の展示理由が不明瞭だ。確かに石元の名はこの企画展のタイトルから除外されている。それならば、作品として同格の扱いをしてはいけないのではないか。今回、展示スペースは区切られてはいるが、ほかの現代作家の作品と同等に並べたのは不味かったように思う。写真の「睡蓮」は地方の一美術館にとしてはは苦肉の策か、親切心の出来心だったかもしれないが。

自分にとってのモネとは、
上京してすぐに、国立西洋美術館で「睡蓮」に感動して、半日ずーっと眺めていたことがある。なぜなら、自分が子供の時にずっとあこがれていた「本物」の絵画だったからだ。自分が絵画を楽しんで描いている時に「本物」を見たかった。後にも先にも、このときほど東京の人が羨ましかったことはない。
そして、「睡蓮」は留学先のロンドンのTATEにもあるし、ほんとに世界の美術館はモネの巨大な睡蓮だらけである。モナリザは一点しかないが、睡蓮はたくさんある。睡蓮は、熊本では国宝級の扱いかもしれないが、大量生産絵画なのだ。画家は、同じような作品を同時に描くものだ。ゴッホのヒマワリですら7点あったらしい(6点現存)。自分でも油絵を描けば、あらためてセザンヌに学ぶことはたくさんあるがモネには無い。

ただし、本物に触れる機会は必要だとは思うし、自分が好きな作家ではなくとも、かつてモネの本物に感動したことは忘れない。この写真によるプアマンズモネは(他の作品との同格の扱いから見ても)代替品になってしまっているので、モネの睡蓮との「違い」を自己主張をして欲しかったし、キュレーション側にはもっと明確に展示意図を作り出してほしかったように思う。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣

2009年9月18日金曜日

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち  大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 - vol.1 展評 -


現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

最初に、vol.1として、この企画展の総評から書こうと思います。

展覧会の主旨は、「モネと同時に現代美術を展示することで、現代美術が実は歴史と結びついていて刺激的で美しく、親しみやすいものであることを示し、さらに若い日本の作家と組み合わせることにより、モネの世界にも現代的な光を当て、新たな視点でみることを試みています。(フライヤーより抜粋)」とあるように、熊本という地方都市で、現代アートを楽しんでもらうために、「花」で知られる作家の中でも、よく知られた巨匠画家モネを手始めに、若手アーティストを紹介してアートを身近に感じてもらおうということのようです。

まず問題は「花・風景」というテーマです。花というのは固有名詞であり、文節の中に置かない限り意味も主張もありません。また、「風景」というのはアートでは大きなくくりでの主題であり、絵画の形式でもあります。つまり、この企画展は視覚的な「花」「風景」に重点を置いていて、花や風景の物性で繋がっただけでコンテクスト上の繋がりはないということです。現代アートをコンテクスト無しで楽しませることは、アートを身近に感じてもらうという意図をいくら尊重したとしても、軽視して良い問題ではありません。現代アートからコンテクストを取れば、話題性やファッション性以外には何も残らないと言っても過言ではありません。

モネの印象派絵画から、心象風景としての置き換えがなされています。。。。

なぜならば、アートを身近に感じるというのは、コンテクストの読み解き方を「教える」ことによって、現代アートを楽しんだり考えるきかけとすることが出来るようになるのです。コンテクストを見る習慣の無い日本での、企画展の良し悪しは「いかに現代アート普及させていくか」へどのようにアプローチしたか、達成できたかどうかにかかっているということです。

また、このおおざっぱな企画展の目的である、「新旧同時展示」を田舎で展示するためには、歴史も専門知識も必要しない視覚的快楽のある「美しい」アートを見せる必要があった。そのために「花」という括りが必要だということになったのでしょう、きっと。一見、野心的で熊本のレベルに合わせた安心できる企画のようですが、「アートの視覚性」という技術論以外では語るすべも無い甘皮へ執着してしまった点で、「アートを身近へと感じてもらう」という意義が灰燼に帰してしまったといえます。厳しいようですが、アートの歴史上も教育上でも価値のある企画ではないということです。企画展でコンテクストを考えるきっかけとしては、07年の森村泰昌の企画展「美の教室」での革新性が際立ってくるのではないのでしょうか。

次に、どうしてもモネを選んだ必然が見えてこなかった点。確かに、モネの風景画と水蓮には、「花」と「風景」があった。この企画展の英題は「Flowers and Landscape」なので、Inscape(内景)ではないのだろう。(名知の絵はInscapeだったけども。)だからといって、大巻のインスタレーションの色使いが阿蘇の自然からインスピレーションされているとしても、大巻のフィルターを通した主観的風景であって風景(Landscape)ではない。蜷川の写真は静物画に近い。彼女のインスタレーションもInscapeだ。あくまでモネは、風景画家である。招聘されたアーティストの作品はコンテクストでもモネと繋がっていない。3人の現代作家は、風景を再構成する目的のために作品を作っているわけではないからだ。モネの水面に写っているのは、庭に生える柳であって世界ではない。写っていたとしても、1900年初頭の風景である。それに比べたらセザンヌやマティスの絵画には、今見ても革新的な要素がある。それは、彼らが当時の伝統的な絵画の形式のなかで多様な挑戦を行っていたからだ。それに比べたらモネの革新は、心象的でドラマティックな風景を一見抽象絵画のように見えるようなコンポジションで表現したことにつきるが、抽象絵画ではない。知名度の点でモネを越える画家はいないかもしれないが、「花」というテーマにモネの水蓮は適さない。私は、「花」を意識してモネを見たことは無いし、見たとしても「風景」としてだった。「花」で考えるならば、ゴッホのひまわりは借りれないのかもしれないが、静物画で「花」へ挑んだ画家を選んだほうが、まとまりがあったのではないだろうか。また、名知の作品のレースようなディテールは、テキスタイルを多用したマティスの絵画を横に置くことによって、絵画の歴史の連続性を見せることが出来たかもしれない。

しかし、「花」や「風景」というテーマでもコンテクストを考えるようなキュレーションも出来るはずだ。「花」には、元来、人を魅了する美しさや香りがあり、あるときは妖艶でまたあるときは純粋な女性性の象徴でもある。ところが、今回のCAMKの展示室というホワイトキューブには、まったくの艶やかさもなく作品以外には「花」が無いというのはいかがなものか。全体の印象として静かで、地味に感じられた方が多かったのではないだろうか。今回、場所を使い切っていたのは、さすがはインスタのプロの大巻伸嗣でした。(他の作品:ペインティングは、絵画として使ってインスタレーションしないほうが良いですが。アート的には)。 
そこで、「地味、つまんないぜ!」の改善策としては、もっと多くの作家を選んで、それぞれが今回ベストな1点ずつを持ち寄ることと、展示はランダムで動的な配置にしてリズムをつくることが必要。(理路整然とした花園なんて、畑だよ畑!つまんないよ!)。 作品ではなく作家で選んでしまったことで、企画展なのに、それぞれの作家が見せたいものを見せてしまった自分勝手なグループ展みたいになってしまったのではないだろうか。

プロジェクト型アーティストの、ぼくに企画が来ていれば、美術館の外に「巨大な花輪」をエスカレーターからエントランスまで並べていたと思います。パチンコ屋の新装オープンか?というぐらい派手に下品だけど、「デカイ花輪」にすることによって作品としての異質感をかもし出す。吸い寄せられた一般人に見るきっかけを与えて「アートを身近に感じる」ように。
一般人ホイホイ企画なのに、求心力が不足してはいけないと思うのです。

花や風景は、美しいだけじゃない。そういう驚きというインパクトが感動へと連なるし、コンテクストを読み解いたときの感動も味わえるような企画展にしてほしい。


p.s 展示室に入ってすぐに、ボールペンは禁止です鉛筆を使ってくださいといわれ、次の部屋でガム禁止です。吐き出してくださいと続けざまにいわれてだいぶテンションが下がりました。ガムはよくないけど、ペンぐらいいいんじゃないかな。イギリスなんて美術館の床ではガキがごろごろクレヨンもって書きなぐってるけどなあ。ガラスケースも柵もないし、作品より観客が主体なんだよ先進国は!「よりアートを身近にしたい」とかいっておいて、作品を触れられないようにして「崇める」姿勢はイカンよ。東ドイツのライプチヒも似た感じだったなあ。友達が走ったら監視員が走って追っかけてきたもんな。つまり、そういうの田舎ってことだから。作家にとってみたら作品ってさ、壊れたらまた作れるしへっちゃらなんだよー。いかに観客と作品の間に壁をつくらない展示を出来るかで、「本物」に触れられることへの意義が生まれるのです。観客との距離を注視しているアーティストは、故意にクオリティを下げたり、身近な材料からDIY的な普通の技術で作品を作るのです。近づけない「高尚さ」と、身近な「社会性」の葛藤自体は、アーティストだけではなく、アートを支える側にとっての課題でした。しかし、崇めないと自立できない作品の時代は終わりました。現代美術館を標榜するならば、主催者側が守るべきは作品の骨董的価値では無く、観客が「楽しむ」権利なのです。

p.s ここは、批評天国のイギリスではありませんから、ぼくの批評を「文句」とか「批判」だと感じられる方がおられたり気分を害されるかもしれませんが、あくまで「批評」ですのでご理解を頂きたい。「批評」なくしてアート無し、前進なしですから。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

2009年9月15日火曜日

言葉にならない

記号論では、記号化(言語化)されていないものは存在しないし、認識できないとされている。大雑把に言って、作品がなにかしらを視覚化した、もしくは何かしらを観客に引き起こす作用があるということは、作品そのものが「記号」のようなものであるといっても差し支えないだろう。つまりアート制作とは、非言語的な存在を視覚化するための新しい記号をつくる作業なのではないだろうか。安易にすべての作品が記号と決め付けているのではなく、アート作品が記号だという仮定で、制作における言語の機能について考えたい。

「言葉にはならないことを表現するのはアート」。
「私は口で説明したくないからアート作品を作っている」。
という人の多くが、言葉でまったく説明しない。気がする。

そこに見え隠れするのは、「言葉に出来ないことを作品として視覚化した」→「作品が表現したことは言葉では言い表せない」。という短絡的なロジックだ。どうせ、言語化できない、どうせ、作品の意味は観客が考えることだと。しかし、ここで議論をせずに「結論」を急ぎすぎてはアートは永遠に見えないなにかになってしまう。

日本的な議論のなかには、こうした極端に結論を求めるような公式が氾濫している。
結局、「それって何とかだよね」と、話を終わらせようとする。
しかしながらアートに終わりはないし、そんなに適当な結論であってはならない。
永遠の苦悩だし、悶絶だし葛藤だし、有機的で流動する生命の水のようなものであり、
絶対的でもないし感想まで一緒に想定され製品化された、物質ではない。

口で説明するのは無駄なことのようにおざなりになって、
言語的で論理的な思考は停止して、作品は非言語的て不確定な領域に飛んでいってしまう。
極めて批評が難しい領域だ。
口下手の言い訳として、この論理は使われる。
言葉では説明できないアーティストはプレゼンが下手だ。自分が何をつくったのか分かっていないからプレゼンできないのだ。

どうせ死ぬから今死んでも同じだなどと思って生きているのではない。
そこに何が再現されたのか、虚飾なのか実体なのか、ディティールによって具体されたことは何なのか。「何なのか」と疑問に思うことは、「新しい記号」を解読する作業であり、本質的な意味での「アートの鑑賞」だといえると思う。

アートは言葉ではいい表せないという事実と、
言葉そのものは「アート」を越えないというのは真実だとしても、
作り手の用意した「言葉」は記号となって、観客によって解読される。


作り手にとっての「言葉」の役割はなんであろうか。
アート制作に際しての言語的機能としてコンセプトやコンテクストがある。
コンセプトを組み立てるのにはアイディアを言語化する必要があり、
コンセプトは純然たる言葉で、その結果として生まれるのが作品だ。
視覚的な部分から掘り下げて行くのではなく、
コンセプトの論理的発展から作品が展開していくのだ。
コンセプチャルに作品を考える事は、論理的思考という新しい窓をひらく行為だ。
「AはBである。なのでBはCである、そこで私はAをCだとしたのだ」といったようなのが基本的なコンセプトのロジックだ。外国人は、これを作品から理解しようとする。

よくある、作品の横のポエムめいた散文か、呪文のように難解な説明。
タイトルや隠喩的な説明も後付されているかのようで、
重みがない。また、評論家による作品の評論も、ぼくはこうボケてみました的な解釈能力を生かした解釈論であって、プロフェッショナルな批評を見たことが無い。
ペテン師の戯言を聞いているかのようで作品を曇りガラスで囲ってしまう。
そもそも作品によって、なにが起こったかなんて
副次的でアーティストにはコントロールできない領域だから、
作り手や評論家が後で語る必要はないし、無い物を高らかに吹聴するような
装飾のための言葉は添付するべきではないだろう。
自分の目で、そこにある作品をみることの邪魔になる。

アーティストは言葉で考えて作品をつくり、
観客は自分が思ったことを論理的な文章に変換してみることで、
双方がアートらしくなる。

作家は、そういう視線を後ろに感じながら制作せざるをえない。

アーティストにとって、言葉で言えるだけ語って、考えられるだけ悩んででた「言葉」が作品の実体なのではなかろうか。

ようやく、コンテクストのある作品が用意される。観客は「?」を解読する。

そうして作品は語りはじめる。

2009年8月31日月曜日

PowerBook G4 のACアダプター

<注>この製品はもう新品では売っていないようです 2011年7月現在

ロンドンから引っ越すときに、PowerBookG4(!)のACアダプターを間違えて船便扱いにしてしまって、PowerBook本体だけ手元にあって困っている。まあ、問題はACアダプターとAirMacExpressってそっくりなんで慌てて梱包したから見間違えたかも。あと1ヶ月で荷物が届くのだけど、現状ではホームページの更新も出来ないし、作品の写真も使えないし、非常に不便です。そこで、FILCOのACアダプターを一時しのぎに購入してみる。

早速、充電。10分くらいでフル充電状態に!なぜ?おいらのバッテリーは、1~2分しか持たない最弱バッテリーなのに。。。うーむなんか気持ち悪い。純正品が65Wなのに比べてこの商品は最高75Wだからかな。
しばらく使ってみて、このACアダプターは実用上は困らないと思います。軽量だし、通電を教えるランプもあるし。ケーブルをまとめられるようにストラップが両側にある。このACアダプターだと、バッテリーなしでは起動できないとかスリープからもどれないとか、そういった話を聞きますが。普通は、バッテリーを外して起動なんてしないものだし、ぜんぜん困らないよなあ。なので、純正品が壊れた方や、僕みたいに船便を待っている(そんな奴おるか!)方にはお勧めです。

2009年8月2日日曜日

これが CG-WLR300GNH

実家の一階から僕の部屋まで、wi-fiが届かない。
旧式のAir Mac Expressでは、木造の和風建築にすら負ける。
そこで、いろいろ調べた結果のポチットしたのはコレガのWLR300GNH。
802.b/g,そしてnにももちろん対応してる。
上位機種のCG-WLR300NNHと違ってaには対応してない。
有線LANがGigaに対応してるのがコレガの前機種と比べてアドバンテージ。
しかも、本体のUSB端子ににメモステやHDを接続してNASとしても使えるので、
スピードでは本格的なNASには負けるらしいけど、簡単なデーターの共有に便利だと思う。
友達へデータ渡したりするときとか、USB経由で充電したりとかとか。
と、ただいま配達まちです。

届きました。設定もマルチAPをOFFにしたくらいで、普通に設置は済みました。結果、10%程度改善しましたので途切れにくくなりました。が、居間から2階の隅の僕の部屋までは届きません。PLCによる接続しかないのだろうか。。。とりあえず、考えられる改善策としては2つ。長いLANケーブルを注文したので、届いたらルーターを出来るだけ僕の部屋へ近づけようと思っています。あと、Macから、ごろごろ生活で大活躍のmsi u100 windbook用に802.11n対応のwi-fi カード(intel wifi link 5300)をebayで注文しました。これでうまくいけばいいなあ。

2009年7月25日土曜日

アートとリアリティ Santiago Sierra

世の中はうわべだけでもちゃんとしなきゃいけない、ため息。そうだよ家に帰ったら、こんなに汚くって薄汚れていて暗くて苦しくて絶望しても誰も助けてくれないし、貧乏から這い上がることなんて想像もつかないし、自分の生活もままならないのに結婚とか家庭とか子供とか、誰かを幸せにしたいだとかそんなこと考えること出来なくって、は?アート?。アートはなんか社会に貢献してくれてんのか!はあ?仕事で忙しいのに完成度の低いゴミみたいな作品!こんなもん見せやがってふざけんな。なにがいいたいかわかんねえよ、社会経験もないしバイトもしたこと無いくせにな、世の中について語ってんじゃねえよお!
と思ってる人に、知ってほしい。見つけて欲しい、あなたと同じハートを持ったアーティストもいて、少しは気持ちを代弁してくれているかもしれないことを。しかも評価もされている。

はい。そういうわけで、今回は、Santiago Sierraを紹介します。スペイン人のスーパーアーティストです。ヴェネチアビエンナーレや国際的なエキシビジョンでも常連の巨匠です。



お金で乞食や売春婦を買って刺青いれたり、黒人の髪を金髪にしたり、インドのうんこ処理カーストの労働者にうんこで作品をつくらせて有名ギャラリーで高額で売ったりやりたい放題。しかもアーティストとして有名な自分は労働者が得るものより多くのお金を得ることが出来るわけです。金持ちや権力が、弱者から搾取するという資本主義の現実を端的に見せつけます。

僕が個人的に好きなのは、アイドリング中の車をギャラリーの中に用意して排気ガスを外に放出させる作品。つまり、環境汚染とかそういう点ではありますが、アートが「影響」を社会に与えているわけです。あとは、ヴェネチアビエンナーレのスペイン館でやったスペインのパスポート所持者以外への入場規制。もしくは展示スペースがレンガでブロックしてあって作品が見れないなど。きれいごとで差別は良くないだのなんだの言うけれど、国籍の問題だけではなく、他者へ閉鎖的にすることや人を区別して優遇したり冷遇したりなんてのは起きている。という「現実」をつきつけてきます。

Sierraは人を安易に楽しませるような作品は作ってない。彼の作品を見たら考えさせられたりムカついたり嫌な思いをするんじゃないかと。そうやって自分を悪者にして、アートでリアリティを追求してるヒューマニスト。あんまり偽善者ぽくもないのもエライですね。作品の見た目は汚くて猥褻なこともあるけれど、きれいなアートだと思いませんか?

2009年7月24日金曜日

Installation Art by Claire Bishop

この本はインスタレーションの入門書とも言えますが、掲載作品の写真の割合が多いので専門書的な文章量を期待する方には物足りないと思います。基本的にインスタレーションを使ったアーティストの写真入りの紹介本といった感じです。参加型作品に関しての論文などのために購入を考えている方はホワイトチャペルギャラリーから出版されているParticipationというタイトルのクレアが書いた本を読んだ方がいいでしょう。

インスタレーション(installation)という展示方法もしくは作品形態は、90年代以降のアートの主流になりました。この本では、著名な批評家であるクレア・ビショップ(Claire Bishop)がアーティストやその作品について、インスターレーションという観点からの解説を試みています。

例えば、自然現象を再現した作品で知られるオラファー・エリアッソン(Olafur Eliasson)はTATE tubine hallでの太陽を模した作品を紹介。表紙は草間 彌生(草間弥生)のNYでの伝説のパフォーマンス。

展示方法を工夫した絵画や映像含めれば、全ての作品がインスタレーションとして扱われるようになっていますが、 敢えてインスタレーションという形態的な分類からの語り口でClaire自身が解説を試みています。なぜ現代アートにおいて「作品」が「製品」であることを止めて、その「場」でより雄弁に観客に語ろうとしているのか?という観点からこの本を読むと作品ある空間への認識が変わってくるのではないかと思います。

本の最後は、「Relational Aesthetics」とクレア自身の「Antagonism in Relational Aesthetics」で閉め。このパートは文章も短くされているので、October誌に書かれた原著を読んだほうがいいかもしれません。

The Art of Participation 1950 to Now published by Thames & Hudson

SFMOMA(San Francisco Museum of Modern Art)でNov 08,2008 - Feb 08,2009に開催された「The Art of Participation 1950 to Now」展のエキシビジョンのカタログです。カタログというと薄そうですが大型本で211pもあります。(参考リンクSFMOMA "The Art of Participation 1950 to Now"

このカタログでは、1800年代からはじまって、50年代に大きく発展を遂げたフルクサスのハプニングアート、そしてCGやWeb2.0を使ったオンラインアートまで紹介されています。

参加型アートというのは、今日ではもっとも自然らしいアートの形としてアカデミックであれアウトサイダーであれ広く普及しているように思います。作家が作品へ観客を参加させること、観客がどのように作品と接していくかについては、特に「参加型アート」とジャンル分けしなくとも、アートと向き合う時には作家と観客の双方が考えなくてはいけなくなっています。小説に読み手が必要であるように、アート作品が「見られる存在」である以上、観客を無視して作品は成立し得ないからです。

この本で特筆すべきは豊富な掲載作家及び作品です、ジョン・ケージ、オノ・ヨーコ、ウォーホール、ナム・ジュン・パイク、アラン・カプロウ、ヨーゼブ・ボイス、マリーナ・アラモヴィック、フェリックス・ゴンザレス・トレース、フランシス・アリス、アーウィン・ワーム、CGやWebで作品を作っている若手の作家などなど全部書きませんが、作品と紹介文付きで大勢の作家が紹介されています。超有名なスーパーアーティストを含みますが、かれらの作品の中から「参加型の作品」を選んで紹介されているので、あのアーティストこんな作品も作っていたんだ!的な発見もあるかもしれませんよ。現代アートに興味がある方にはもちろん、生徒に参加型アートに関して突っ込まれるけど実は良く解らないんだという教育者の方にも良いと思います。志の高い生徒の為にも、今すぐに大学の図書館に収蔵してあげて下さい。写真も多いし、オススメです。

あと、参加型アート(Participatory Art)の作品の紹介ではなく、文献や論文が読みたい方には、Participation edited by Claire Bishopもおすすめです。

Participation edited by Claire Bishop

Whitechapel Gallery発行のシリーズの1冊。参加型アート(Participatory Art)を考える上で参考になる論文やExhibition Catalogueなどの文献を、批評家のClaire Bishop(クレア=ビショップ)が重要箇所を抜粋して紹介したずるい本である。有名所だとEcoの「Open Work」や、Bourriaudの「Relational Aesthtics」やClaire Bishop自身の「Antagonism in Relational Aesthetics」などなどの要約が紹介されており学生にはありがたい本。Félix Guattari(フェリックス=ガタリ)のChapsmosis:An Ethico-Aesthetic Paradigm (1992)や、Jacques Rancière(ジャッカス=ランシエール)のProblems and Transformations in Critical Art (2004)といったアートセオリーもしっかり紹介してあります。

<文献が抜粋されているアーティスト、哲学者、批評家>
Roland Barthes, Joseph Beuys, Nicolas Bourriaud, Peter Bürger, Graciela Carnevale, Lygia Clark, Collective Actions, Eda Cufer, Guy Debord, Jeremy Deller, Umberto Eco, Hal Foster, Édouard Glissant, Group Material, Félix Guattari, Thomas Hirschhorn, Carsten Höller, Allan Kaprow, Lars Bang Larsen, Jean-Luc Nancy, Molly Nesbit, Hans Ulrich Obrist, Hélio Oiticica, Adrian Piper, Jacques Rancière, Dirk Schwarze, Rirkrit Tiravanija

論文ではなく参加型アート(Participatory Art)の歴史や作品が知りたい方には、SFMOMAで開催されたExhibitionのカタログであるThe Art of Participation 1950 to Now published by Thames & Hudsonをおすすめします。

Beyond Recognition by Craig Owens

オーウェンスの批評集。Smithonの「Earth Words」への批評が有名です。

On Photography by Susan Sontag

バルトの「明るい部屋」(Camera Lucida)と並んで称されるゾンタークの「写真論」です。



One Place After Another by Miwon Kwon

One Place After Another: Site-specific Art and Locational Identity

Site-Specificとは、作品の所在(location)に関するアート用語で、60年代にランドアートとともに発展した重要な考えのひとつです。作品がギャラリーというホワイトキューブに存在して、作品の自律性や商品価値(commodity)偏重で空間を無視して鑑賞される傾向にあった。しかし、作品は所在で意味が変わることがある。それならば一番適した場所に最高の形で作品を置くべきだと。という考え方です。Robert SmithonのSpiral Jettyは、塩湖の塩が結晶化し風化・浸食を経ることで時間の経過のプロセスを印象付けますし、文明から遠く離れた荒野という場所がかえって人間の存在、文明について考えさせる効果があります。つまり、作品の所在が作品の意味を強化しなおかつ構成要素にもなっています。また、こうしたランドアートとして屋外に展示する作品だけではなく、Installation型の作品もその場に応じて空間を作るので考えるべき部分です。最近のアートは、壁に飾られたペインティング以外は、広く括ればインスタレーションなのです。Site-Specificは考慮するのが常識みたいなもんです。アートにとっては場所とか、国境とかもおもしろいテーマになります。

Against Interpretation by Susan Sontag

日本語版があったとは!タイトル「反解釈」しかも、直訳過ぎるうう。
この手の言葉ってなんかダサい日本語しかない。日本語であることで損をしてる気がするので英語版を読んでください。

2009年7月21日火曜日

EVERYDAY LIFE と 写真

毎日の生活のなかのふとした美しさの発見をスナップショット(実際には違うものもある)というプライベートな手法で作品にしたWolfgang Tilmans。時折ファッショナブルでさえある彼の自然な写真のなかにあっても、同性愛者という彼自身の視点は見過ごしてはならない。彼の写真にはゲイの持つ繊細さとマイノリティが持つはかなさが機能しているからだ。Hiromixは、過ぎていくはかない日々を、彼女の出来る方法でとどめようとした。写真は日記となり、写真のシーケンスは等身大の女子校生が、自分や周囲を被写体にして自分を見つけようとしたことの記録でもある。Tillmansがプロのコマーシャルフォトグラファーとして確信犯的に見慣れた広告写真を日常という新しいリアルへと捉え直したのと違って、Hiromixは故意にコントロールしたイメージではなくアマチュアとしての自然さが新鮮である。カメラは誕生したときに、現実の鏡像としてだけではなく、人の物の見方と異なった「カメラ的な物の見方」という発明でもあった。そして第三の目として役割を果たしてきた。しかも、肉眼とちがって冷徹に記録できるので、写真に写る対象を限りなく客観的なイメージとして定着させ何度でも分析させえる。川内倫子は、家族の生と死をゆるやかに記録した。川内は、引き伸ばし作業へのコダワリを通して、その「記録」より「記憶」としてのイメージに近づけている。バルトが言うように、写真は常に過去であり写真は過去を反復して再現する。現実にあったことの記録である以上は、写るものは真実の重みの分よりリアルに強化される。そのなかでも「特別」な写真とは我々にある記憶を呼び起こさせる。シチューエーションフォトやコンセプチャルフォトと呼ばれる欧米の写真家による写真は、計算尽くされたかっちりした強さがある、それに比べたらウエットで息遣いが聞こえて来そうなほどに対象と溶け込んだスナップフォトは、観客に身近であり自然だ。プライベートの断片を記録したこうした写真が観客にもたらすものは、観客の記憶の中にある似た風景であり、二度と戻らない日々への郷愁をかきたてる。ロラン=バルトが「明るい部屋」の締めくくりに述べた、彼にとっての特別な写真とは、母の子供の頃の写真であった。



Artは学問≠技術

日本ではアートは学問だとは思われてない。美術で学問といったら、美術史っぽい気がするけど、美術史は歴史学の一分野であり、ぼくが学んだアートとは本質が違う。
ヨーロッパではずーっと学問だったのに、鎖国を解いてFine Art(ファインアート)が美術と翻訳されて以来の失態だ。殖産興業のなかで、模倣すべき進歩した科学技術のようなものの一つとして西洋美術は翻訳され導入されてしまったのだ。ファインアートにおける哲学の重要性は日本人の美術関係者の間で認識されていたが、「大人」を短期間留学させたところで本格的な哲学を理解できるわけが無かった(言語の問題もあるだろう、言葉なくして哲学をどう理解するのだ)。

アカデミックなアート、ファインアートはれっきとした学問だ。勉学だ。知性だ。教養だ。実学ではない。ファインアートを教えているヨーロッパの大学では技術的な授業はない。作って発表したり議論する。自分で美学、哲学をセルフスタディして、論文担当の博士と議論しながら論文を書く。それだけだ。討論はするがグループワークはしない。人手が必要で助けてもらったりクオリティをあげる為にプロを雇ったりはするが、作品のすべてを指揮するのは自分だ。ファインアートの場合は技術を身につけるために大学に行くのではないのである。実質は、自分の興味のある科目を選び知識を増やし論文を書くといったら、通常の文系学部に近いだろう。哲学、文学、文化人類学、社会学は兄弟姉妹ようなもので、それに比べたらデザインやクラフト(工芸)は従兄弟か異母兄弟。従兄弟って見た目は似てるけど、素養は自分と違うっしょ。(デザイナーが哲学的にアプローチしたならば、それはアートに近い。それでもイコールではない)

技術=アートじゃなくってコンテクスト=アート。
かつて、Arthur C Dantoがアンディ=ウォーホールの作品を批評して、「作品(作家ではなく)が持つバックグラウンドやコンテクストがアート」だと言いました。つまり視覚性よりも、目の前の作品の「存在」について観客は考えるようになり、技術は作品を「見える」ようにするための手段となった。

だから、投入された超絶技巧がその作品のコンテクストを超えることはむなしい。
中身の不在な作品の技巧は虚飾であり、理由無き表現や技はまやかしだ。

当たり前だが、コンテクストを読めなくては現代アートは楽しめない。
ぱっと見た目だけで楽しめるものは少ない。極端なフェミニストの女性作家達は男性に居心地の悪い作品をつくっている。最先端のアートは多くがガラクタでありアンモニュメンタルで物質化されていない。観客にとっては「体験」が作品ということになっているからだ。スクラップを前に何だろうと考えることからそれらの鑑賞は始まる。

日本で「受ける」作家と海外で「受ける」作家の違いは、日本人はコンテクストを読めない、もしくは読む習慣がないので、視覚的な快楽や「作家の肩書き」が重視される(権威を見せつけて視覚的に客を騙せばいい)。専門用語やポエティックな言い回しでごまかすことがアートっぽいと思われている。観客から突っ込みも浅い。

海外では、コンテクストを楽しむことが当然なので、作品は表層から離れて「本質的」な存在として用意される(哲学的に観客を騙せばいい、知的ゲーム)。突っ込まれることを想定した論理的コンセプトが必要。仮定した推論したことを作品のなかで実証として見せる。なのでプロセスも重視される。

コンテクストの在り方の話を進めると、作品それ自体も視覚的な「言語」といえる、、
一般的に「言いたいことを自由に言う」手段として、アートは日本でも広く認知されていると思う。しかし、言いたいことの次元は個人的という点で限りなく崇高でなくてはならないし、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。それはコンテクストを観客に伝えるために、虚飾を排した純粋な表現が必要だからだ。だからといって厳格なミニマリストへなるよりは、DIY的で暖かな表現こそ現代の「崇高」だと私は考えるのだが。

りんご一個の作品が持てるコンテクストの量には限界があるけれど、そのりんごから個人へ伝わることに限界はない。欧米のアーティストはよくしゃべるが、作品で全部言うことはできないことを知っている。いいたいことがいっぱいあるのに考えに考えて、選びに選んだ表現の一端が作品だ。だからこそ観客に考えさせること本一冊分の価値があるし、表層を超えて作品を理解できたとき、脳に戦慄が走ったときに初めて感動したり、本当に腹が立ったりする。作品が分かったとき、ホワイトキューブも野外も関係なくなって、アーティストと観客は超現実世界で対峙することが出来る、それが本格的なアートの楽しみだ。

もし、作り手も観客もアートの「アカデミック」な面を無視しているのならコンテクストの愉しみに触れることはできないだろう。学問だから、学ばなくてはならないが。。。。

2009年7月20日月曜日

Hackney

寂れた場所の工場にアーティストはスタジオをかりる。商業ギャラリーは、地価の高い中心部からアーティストの集う場所に移り、未来を担うアーティスト交流する。

2009年7月14日火曜日

「物語の構造分析」 by Roland Barthes

「作者の死」というエッセーが特に重要です。この本の英題は「IMAGE MUSIC TEXT」、そして「作者の死」は「Death of the Author」。個人的には英語訳版がおすすめです。かつては神のように神聖で不可侵で自律した存在であった作品自身が、作者の手から離れて「読者」が誕生する。コンテンポラリーアートにおいてこのエッセーでバルトが論じた「作者」と「読者」の関係を「アーティスト」と「観客」に置き換えてよく引用します。



「日本美術の歴史」 by 辻 惟雄

縄文文化から、「千と千尋の神隠し」まで範囲は広いですが読みやすい。日本の美術の流れを把握する為の本です。個人的には、文明開化後の西洋の美術の広がり方。近代化の為に急速に輸入された工業と並んで「技術」として広まってしまった「美術」という概念。洋画の急速な普及と衰退(ヨーロッパのアート哲学への不理解が原因)による洋画壇の苦悩。同じくして日本画の一時的な衰退と復権。日本美術を守るために美術学校(のちの東京芸大)の設立。といった現代にも連なる日本の美術界が今のような形になった理由が見えてきます。



「The Open Work」 by Umberto Eco

「すべてのアートは、潜在的にずっと開かれていた。」

現在もボローニャ大学で教鞭を振るう哲学者ウンベルト エーコーの難解な博士論文です。現在でもアートと観客の作品への参加(participation)を考える上でつねに引用される論文です。ロラン バルトの「作者の死」と並んでコンテンポラリーアートでは重要な論文です。そういえば「私には難しいです」と論文担当の博士に言ったら、「そうだろう僕にも解らないからね」(苦笑)と言われたこともありました。

要約でよければParticipation edited by Claire Bishopもオススメです

「明るい部屋」 by Roland Barthes

写真とは何か? すばらしい文章と鋭い考察に舌を巻いて下さい。




「Antagonism and relational aesthetics」

イギリスのart critic、Claire BishopによってOctober 2004で発表された、Relational Aesthticsに対する批評です。親切な事に現在でもPDF版がダウンロード出来るので是非一読してください。批評としてもすぐれた文章です。

p.s. GoogleとYahooともに日本語で検索するとこの記事へたどり着いてしまうので、要望があれば要約を日本語で書きましょうかね。。。。。

「Relational Aesthetics」 by Nicolas Bourriaud

Nicolas BourriaudのRelational Aestheticsは、日本語だと「関係性の美学」として知られている90年代を代表するアート本です。残念ながら、日本語訳はまだありません。ブーリオが書いたエッセーをまとめ直した都合で同じ事が何度も言い直されるなどよくまとめられた本ではないので、ART THEORYとしては役不足なのですが世界のアート関係者はみんな知っている、学生は卒論のために読むので卒論提出前に品切れになるという、初版から10年以上経ちますが、アート本では珍しいベストセラーです。私が読んだ英語訳の内容を簡単に説明するならば、直接的じゃないコミュニケーションが横行して、その不足を「補完」する場としてのアートが機能し意味を持つことが90年代のアートの特徴であるということです。ティラヴァーニャの作品が根拠になっております。

しかしながら、Claire Bishopは、その「場」に生じたという観客の関係性について「いったいどんな関係が出来たって言うんじゃい?」、「ピースフルな場って本当に民主的?」とAntagonism in relational aestheticsで突っ込みを入れております。Santiago Sierraのようにセンセーショナルで悪意に満ちた「場」をつくることによって、アートの批評性という重要なテーマを表現しているアーティストもいるじゃあないかと、諸手をあげて理想化されてしまった「関係性の美術」を批判しています。

本人もいろんなインタビューで語っているように、Relational Aestheticsは90年代のアートの分析と彼の理想が入り交じった感じなので、世界中に批判や勘違いがはびこってしまった。今現在は修正した認識を持っていて、TATE ModernのALTER MODERN展や最新の著書「The Radicant」で示したように、グローバリゼーションをアートを通して表現する必要性に関心がシフトしているようです。


2009年7月13日月曜日

「批評」ってなんだ

そもそも「批評」ってなんでしょう。英語だと、アートの批評をcriticism、批評家をcriticと呼びます。評論は、解釈という意味の interpretation、そして評論家はinterpreter。皮肉に言えば、勝手に作品を解釈することということになります。

美術評論家は聞きなじみが少しはあるけれど、美術批評家ってすごくマイナーな存在ではないでしょうか(そもそも「アーティスト」がミュージシャンを指す国だ。岡本太郎の明日への神話の式典でゲストアーティストとして呼ばれたのがすべてミュージシャン!)。日本では、アートを学問的に学ぶには、美術史を学ぶ事になりますが、最新のアート理論は教える側が追いつかなくって学べていないのです。しかも美術史家でも学芸員でもなくコンテンポラリーアートの批評をするにはさらなる勉強と知識が必要ですが、日本では個人主義に深く根ざした欧米のアート哲学は学べません。欧米ではアートは技術ではなく学問なのです、形態としては哲学に近いが異なる。そういうわけで、日本には自分を批評家と名乗れる専門教育を受けたプロが少ないのです。
まず、私がこ のblogを執筆していくにあたってまず否定したいのは、評論が作品の意味を補完する日本の体質です。アート以外の知識と縦横無尽な引用と勝手な解釈を売 り物にした文章が多すぎる。例えるならば、日本のアートと評論の関係はバカップルのようなものだと言えるでしょうか。端から見ていて寒い、ふたりの世界の特殊言語は理解不能、しかも実はそれほど分かり合えてはいない。そういう感じ。。。
確かに、不幸なかたちの西洋アートとの出会い、全体主義的な風土と日本語という曖昧な言語も、批評を育たなくしてきた理由のひとつだと思います。私は日本固有の良さは否定しませんし、私は根っからの日本人だし日本が好きです。でも無責任な作品も、曖昧な文章も「日本的」だといったん認めつつ本格的なアートの登場を促進したいというのが動機です。参考にしていただければうれしいです。

アートにおける批評は非常に大事なことです。ヨーロッパやアメリカでは批評家だけではなくアーティスト自身も自他問わずに作品について批評を行います。自分が何をつくったのか、アーティストは責任を持つ必要があるからです。つくった理由も言いたい事も必ずあるからです。そんなの観た人の解釈だとうやむやにしないこと、つまり自分に対する批判的な視点もアーティストの条件なのです。そして、美術批評家は何をするのかといえば、簡単にいうと作品(作家ではない)を批判します。常識として、アート作品とは何かを否定する新しいものですし、意見や提案ようなものです。そして反対意見はかならず同時に多数が存在するのです。すべての人が自分の意見を持っていて、それを自由に発言することが、個人主義ベースの欧米では自然で民主的な行為なのです。また、たとえ自分がその作品が好きでも、批判的に読み解く行為は作家に取ってもアート界にとっても有益なのです。批評は批判ではないし、けっして「いちゃもん」をつけているわけではないのです。ディベートを行った事があるかたなら分かると思いますが、yes or no、agree or disagreeを越えて論理的に批評することは身近な問題であればどちら側についても行えるし、より深く考える上で有益な行為だと思われたと思います。批評無くしてアート無しといえるでしょう。

もし日本のアーティストは無責任につくりっぱなし、評論家は解釈のセンスだけでめちゃくちゃな事を言うだけだとしたら見てられない。でも日本にも海外で評価されている芸術家がいるじゃないか!って? 日本のアートは海外では「日本のアート」として認められているのです(そういうアートはその国の固有(文化)のものなのでこれも欧米からは批評の対象にはならない)。この点、欧米在住の日本人アーティストは欧米の文法で作品を発表していますので、批評するに値します。 例えば、欧米では杉本博さんの作品を「日本的」アートだとは誰も見ていません。「日本的 (really japanese)」だと言われたく無いなら杉本さんみたいにコンセプトから作品をつくる方法を用いるべきでしょう。一方、村上さんは自身の作品の文化的背景を欧米で説明するためにスーパーフラットを発表しました。自分の作品が日本独自の伝統的スタイルを継承していることを説明して作品の後ろ盾にしました。だからスーパーフラットへの批評は日本人にしか出来ないのですが。


日本は外向きのアーティストにとっては甘ったれた最悪の環境なのだけど、
アートを良くしていくには、アーティストは閉じこもらないで逃げないで甘えないで勘違いしないで諦めないでつくることを続けなくてはならない。批評家は知識と愛情を持って徹底的に「作品」を批評しなくてはいけません。アートは逃げ込む場所ではなく開かれた場所、開かれた感性との議論の場なのですから。