2009年7月25日土曜日

アートとリアリティ Santiago Sierra

世の中はうわべだけでもちゃんとしなきゃいけない、ため息。そうだよ家に帰ったら、こんなに汚くって薄汚れていて暗くて苦しくて絶望しても誰も助けてくれないし、貧乏から這い上がることなんて想像もつかないし、自分の生活もままならないのに結婚とか家庭とか子供とか、誰かを幸せにしたいだとかそんなこと考えること出来なくって、は?アート?。アートはなんか社会に貢献してくれてんのか!はあ?仕事で忙しいのに完成度の低いゴミみたいな作品!こんなもん見せやがってふざけんな。なにがいいたいかわかんねえよ、社会経験もないしバイトもしたこと無いくせにな、世の中について語ってんじゃねえよお!
と思ってる人に、知ってほしい。見つけて欲しい、あなたと同じハートを持ったアーティストもいて、少しは気持ちを代弁してくれているかもしれないことを。しかも評価もされている。

はい。そういうわけで、今回は、Santiago Sierraを紹介します。スペイン人のスーパーアーティストです。ヴェネチアビエンナーレや国際的なエキシビジョンでも常連の巨匠です。



お金で乞食や売春婦を買って刺青いれたり、黒人の髪を金髪にしたり、インドのうんこ処理カーストの労働者にうんこで作品をつくらせて有名ギャラリーで高額で売ったりやりたい放題。しかもアーティストとして有名な自分は労働者が得るものより多くのお金を得ることが出来るわけです。金持ちや権力が、弱者から搾取するという資本主義の現実を端的に見せつけます。

僕が個人的に好きなのは、アイドリング中の車をギャラリーの中に用意して排気ガスを外に放出させる作品。つまり、環境汚染とかそういう点ではありますが、アートが「影響」を社会に与えているわけです。あとは、ヴェネチアビエンナーレのスペイン館でやったスペインのパスポート所持者以外への入場規制。もしくは展示スペースがレンガでブロックしてあって作品が見れないなど。きれいごとで差別は良くないだのなんだの言うけれど、国籍の問題だけではなく、他者へ閉鎖的にすることや人を区別して優遇したり冷遇したりなんてのは起きている。という「現実」をつきつけてきます。

Sierraは人を安易に楽しませるような作品は作ってない。彼の作品を見たら考えさせられたりムカついたり嫌な思いをするんじゃないかと。そうやって自分を悪者にして、アートでリアリティを追求してるヒューマニスト。あんまり偽善者ぽくもないのもエライですね。作品の見た目は汚くて猥褻なこともあるけれど、きれいなアートだと思いませんか?

2009年7月24日金曜日

Installation Art by Claire Bishop

この本はインスタレーションの入門書とも言えますが、掲載作品の写真の割合が多いので専門書的な文章量を期待する方には物足りないと思います。基本的にインスタレーションを使ったアーティストの写真入りの紹介本といった感じです。参加型作品に関しての論文などのために購入を考えている方はホワイトチャペルギャラリーから出版されているParticipationというタイトルのクレアが書いた本を読んだ方がいいでしょう。

インスタレーション(installation)という展示方法もしくは作品形態は、90年代以降のアートの主流になりました。この本では、著名な批評家であるクレア・ビショップ(Claire Bishop)がアーティストやその作品について、インスターレーションという観点からの解説を試みています。

例えば、自然現象を再現した作品で知られるオラファー・エリアッソン(Olafur Eliasson)はTATE tubine hallでの太陽を模した作品を紹介。表紙は草間 彌生(草間弥生)のNYでの伝説のパフォーマンス。

展示方法を工夫した絵画や映像含めれば、全ての作品がインスタレーションとして扱われるようになっていますが、 敢えてインスタレーションという形態的な分類からの語り口でClaire自身が解説を試みています。なぜ現代アートにおいて「作品」が「製品」であることを止めて、その「場」でより雄弁に観客に語ろうとしているのか?という観点からこの本を読むと作品ある空間への認識が変わってくるのではないかと思います。

本の最後は、「Relational Aesthetics」とクレア自身の「Antagonism in Relational Aesthetics」で閉め。このパートは文章も短くされているので、October誌に書かれた原著を読んだほうがいいかもしれません。

The Art of Participation 1950 to Now published by Thames & Hudson

SFMOMA(San Francisco Museum of Modern Art)でNov 08,2008 - Feb 08,2009に開催された「The Art of Participation 1950 to Now」展のエキシビジョンのカタログです。カタログというと薄そうですが大型本で211pもあります。(参考リンクSFMOMA "The Art of Participation 1950 to Now"

このカタログでは、1800年代からはじまって、50年代に大きく発展を遂げたフルクサスのハプニングアート、そしてCGやWeb2.0を使ったオンラインアートまで紹介されています。

参加型アートというのは、今日ではもっとも自然らしいアートの形としてアカデミックであれアウトサイダーであれ広く普及しているように思います。作家が作品へ観客を参加させること、観客がどのように作品と接していくかについては、特に「参加型アート」とジャンル分けしなくとも、アートと向き合う時には作家と観客の双方が考えなくてはいけなくなっています。小説に読み手が必要であるように、アート作品が「見られる存在」である以上、観客を無視して作品は成立し得ないからです。

この本で特筆すべきは豊富な掲載作家及び作品です、ジョン・ケージ、オノ・ヨーコ、ウォーホール、ナム・ジュン・パイク、アラン・カプロウ、ヨーゼブ・ボイス、マリーナ・アラモヴィック、フェリックス・ゴンザレス・トレース、フランシス・アリス、アーウィン・ワーム、CGやWebで作品を作っている若手の作家などなど全部書きませんが、作品と紹介文付きで大勢の作家が紹介されています。超有名なスーパーアーティストを含みますが、かれらの作品の中から「参加型の作品」を選んで紹介されているので、あのアーティストこんな作品も作っていたんだ!的な発見もあるかもしれませんよ。現代アートに興味がある方にはもちろん、生徒に参加型アートに関して突っ込まれるけど実は良く解らないんだという教育者の方にも良いと思います。志の高い生徒の為にも、今すぐに大学の図書館に収蔵してあげて下さい。写真も多いし、オススメです。

あと、参加型アート(Participatory Art)の作品の紹介ではなく、文献や論文が読みたい方には、Participation edited by Claire Bishopもおすすめです。

Participation edited by Claire Bishop

Whitechapel Gallery発行のシリーズの1冊。参加型アート(Participatory Art)を考える上で参考になる論文やExhibition Catalogueなどの文献を、批評家のClaire Bishop(クレア=ビショップ)が重要箇所を抜粋して紹介したずるい本である。有名所だとEcoの「Open Work」や、Bourriaudの「Relational Aesthtics」やClaire Bishop自身の「Antagonism in Relational Aesthetics」などなどの要約が紹介されており学生にはありがたい本。Félix Guattari(フェリックス=ガタリ)のChapsmosis:An Ethico-Aesthetic Paradigm (1992)や、Jacques Rancière(ジャッカス=ランシエール)のProblems and Transformations in Critical Art (2004)といったアートセオリーもしっかり紹介してあります。

<文献が抜粋されているアーティスト、哲学者、批評家>
Roland Barthes, Joseph Beuys, Nicolas Bourriaud, Peter Bürger, Graciela Carnevale, Lygia Clark, Collective Actions, Eda Cufer, Guy Debord, Jeremy Deller, Umberto Eco, Hal Foster, Édouard Glissant, Group Material, Félix Guattari, Thomas Hirschhorn, Carsten Höller, Allan Kaprow, Lars Bang Larsen, Jean-Luc Nancy, Molly Nesbit, Hans Ulrich Obrist, Hélio Oiticica, Adrian Piper, Jacques Rancière, Dirk Schwarze, Rirkrit Tiravanija

論文ではなく参加型アート(Participatory Art)の歴史や作品が知りたい方には、SFMOMAで開催されたExhibitionのカタログであるThe Art of Participation 1950 to Now published by Thames & Hudsonをおすすめします。

Beyond Recognition by Craig Owens

オーウェンスの批評集。Smithonの「Earth Words」への批評が有名です。

On Photography by Susan Sontag

バルトの「明るい部屋」(Camera Lucida)と並んで称されるゾンタークの「写真論」です。



One Place After Another by Miwon Kwon

One Place After Another: Site-specific Art and Locational Identity

Site-Specificとは、作品の所在(location)に関するアート用語で、60年代にランドアートとともに発展した重要な考えのひとつです。作品がギャラリーというホワイトキューブに存在して、作品の自律性や商品価値(commodity)偏重で空間を無視して鑑賞される傾向にあった。しかし、作品は所在で意味が変わることがある。それならば一番適した場所に最高の形で作品を置くべきだと。という考え方です。Robert SmithonのSpiral Jettyは、塩湖の塩が結晶化し風化・浸食を経ることで時間の経過のプロセスを印象付けますし、文明から遠く離れた荒野という場所がかえって人間の存在、文明について考えさせる効果があります。つまり、作品の所在が作品の意味を強化しなおかつ構成要素にもなっています。また、こうしたランドアートとして屋外に展示する作品だけではなく、Installation型の作品もその場に応じて空間を作るので考えるべき部分です。最近のアートは、壁に飾られたペインティング以外は、広く括ればインスタレーションなのです。Site-Specificは考慮するのが常識みたいなもんです。アートにとっては場所とか、国境とかもおもしろいテーマになります。

Against Interpretation by Susan Sontag

日本語版があったとは!タイトル「反解釈」しかも、直訳過ぎるうう。
この手の言葉ってなんかダサい日本語しかない。日本語であることで損をしてる気がするので英語版を読んでください。

2009年7月21日火曜日

EVERYDAY LIFE と 写真

毎日の生活のなかのふとした美しさの発見をスナップショット(実際には違うものもある)というプライベートな手法で作品にしたWolfgang Tilmans。時折ファッショナブルでさえある彼の自然な写真のなかにあっても、同性愛者という彼自身の視点は見過ごしてはならない。彼の写真にはゲイの持つ繊細さとマイノリティが持つはかなさが機能しているからだ。Hiromixは、過ぎていくはかない日々を、彼女の出来る方法でとどめようとした。写真は日記となり、写真のシーケンスは等身大の女子校生が、自分や周囲を被写体にして自分を見つけようとしたことの記録でもある。Tillmansがプロのコマーシャルフォトグラファーとして確信犯的に見慣れた広告写真を日常という新しいリアルへと捉え直したのと違って、Hiromixは故意にコントロールしたイメージではなくアマチュアとしての自然さが新鮮である。カメラは誕生したときに、現実の鏡像としてだけではなく、人の物の見方と異なった「カメラ的な物の見方」という発明でもあった。そして第三の目として役割を果たしてきた。しかも、肉眼とちがって冷徹に記録できるので、写真に写る対象を限りなく客観的なイメージとして定着させ何度でも分析させえる。川内倫子は、家族の生と死をゆるやかに記録した。川内は、引き伸ばし作業へのコダワリを通して、その「記録」より「記憶」としてのイメージに近づけている。バルトが言うように、写真は常に過去であり写真は過去を反復して再現する。現実にあったことの記録である以上は、写るものは真実の重みの分よりリアルに強化される。そのなかでも「特別」な写真とは我々にある記憶を呼び起こさせる。シチューエーションフォトやコンセプチャルフォトと呼ばれる欧米の写真家による写真は、計算尽くされたかっちりした強さがある、それに比べたらウエットで息遣いが聞こえて来そうなほどに対象と溶け込んだスナップフォトは、観客に身近であり自然だ。プライベートの断片を記録したこうした写真が観客にもたらすものは、観客の記憶の中にある似た風景であり、二度と戻らない日々への郷愁をかきたてる。ロラン=バルトが「明るい部屋」の締めくくりに述べた、彼にとっての特別な写真とは、母の子供の頃の写真であった。



Artは学問≠技術

日本ではアートは学問だとは思われてない。美術で学問といったら、美術史っぽい気がするけど、美術史は歴史学の一分野であり、ぼくが学んだアートとは本質が違う。
ヨーロッパではずーっと学問だったのに、鎖国を解いてFine Art(ファインアート)が美術と翻訳されて以来の失態だ。殖産興業のなかで、模倣すべき進歩した科学技術のようなものの一つとして西洋美術は翻訳され導入されてしまったのだ。ファインアートにおける哲学の重要性は日本人の美術関係者の間で認識されていたが、「大人」を短期間留学させたところで本格的な哲学を理解できるわけが無かった(言語の問題もあるだろう、言葉なくして哲学をどう理解するのだ)。

アカデミックなアート、ファインアートはれっきとした学問だ。勉学だ。知性だ。教養だ。実学ではない。ファインアートを教えているヨーロッパの大学では技術的な授業はない。作って発表したり議論する。自分で美学、哲学をセルフスタディして、論文担当の博士と議論しながら論文を書く。それだけだ。討論はするがグループワークはしない。人手が必要で助けてもらったりクオリティをあげる為にプロを雇ったりはするが、作品のすべてを指揮するのは自分だ。ファインアートの場合は技術を身につけるために大学に行くのではないのである。実質は、自分の興味のある科目を選び知識を増やし論文を書くといったら、通常の文系学部に近いだろう。哲学、文学、文化人類学、社会学は兄弟姉妹ようなもので、それに比べたらデザインやクラフト(工芸)は従兄弟か異母兄弟。従兄弟って見た目は似てるけど、素養は自分と違うっしょ。(デザイナーが哲学的にアプローチしたならば、それはアートに近い。それでもイコールではない)

技術=アートじゃなくってコンテクスト=アート。
かつて、Arthur C Dantoがアンディ=ウォーホールの作品を批評して、「作品(作家ではなく)が持つバックグラウンドやコンテクストがアート」だと言いました。つまり視覚性よりも、目の前の作品の「存在」について観客は考えるようになり、技術は作品を「見える」ようにするための手段となった。

だから、投入された超絶技巧がその作品のコンテクストを超えることはむなしい。
中身の不在な作品の技巧は虚飾であり、理由無き表現や技はまやかしだ。

当たり前だが、コンテクストを読めなくては現代アートは楽しめない。
ぱっと見た目だけで楽しめるものは少ない。極端なフェミニストの女性作家達は男性に居心地の悪い作品をつくっている。最先端のアートは多くがガラクタでありアンモニュメンタルで物質化されていない。観客にとっては「体験」が作品ということになっているからだ。スクラップを前に何だろうと考えることからそれらの鑑賞は始まる。

日本で「受ける」作家と海外で「受ける」作家の違いは、日本人はコンテクストを読めない、もしくは読む習慣がないので、視覚的な快楽や「作家の肩書き」が重視される(権威を見せつけて視覚的に客を騙せばいい)。専門用語やポエティックな言い回しでごまかすことがアートっぽいと思われている。観客から突っ込みも浅い。

海外では、コンテクストを楽しむことが当然なので、作品は表層から離れて「本質的」な存在として用意される(哲学的に観客を騙せばいい、知的ゲーム)。突っ込まれることを想定した論理的コンセプトが必要。仮定した推論したことを作品のなかで実証として見せる。なのでプロセスも重視される。

コンテクストの在り方の話を進めると、作品それ自体も視覚的な「言語」といえる、、
一般的に「言いたいことを自由に言う」手段として、アートは日本でも広く認知されていると思う。しかし、言いたいことの次元は個人的という点で限りなく崇高でなくてはならないし、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。それはコンテクストを観客に伝えるために、虚飾を排した純粋な表現が必要だからだ。だからといって厳格なミニマリストへなるよりは、DIY的で暖かな表現こそ現代の「崇高」だと私は考えるのだが。

りんご一個の作品が持てるコンテクストの量には限界があるけれど、そのりんごから個人へ伝わることに限界はない。欧米のアーティストはよくしゃべるが、作品で全部言うことはできないことを知っている。いいたいことがいっぱいあるのに考えに考えて、選びに選んだ表現の一端が作品だ。だからこそ観客に考えさせること本一冊分の価値があるし、表層を超えて作品を理解できたとき、脳に戦慄が走ったときに初めて感動したり、本当に腹が立ったりする。作品が分かったとき、ホワイトキューブも野外も関係なくなって、アーティストと観客は超現実世界で対峙することが出来る、それが本格的なアートの楽しみだ。

もし、作り手も観客もアートの「アカデミック」な面を無視しているのならコンテクストの愉しみに触れることはできないだろう。学問だから、学ばなくてはならないが。。。。

2009年7月20日月曜日

Hackney

寂れた場所の工場にアーティストはスタジオをかりる。商業ギャラリーは、地価の高い中心部からアーティストの集う場所に移り、未来を担うアーティスト交流する。

2009年7月14日火曜日

「物語の構造分析」 by Roland Barthes

「作者の死」というエッセーが特に重要です。この本の英題は「IMAGE MUSIC TEXT」、そして「作者の死」は「Death of the Author」。個人的には英語訳版がおすすめです。かつては神のように神聖で不可侵で自律した存在であった作品自身が、作者の手から離れて「読者」が誕生する。コンテンポラリーアートにおいてこのエッセーでバルトが論じた「作者」と「読者」の関係を「アーティスト」と「観客」に置き換えてよく引用します。



「日本美術の歴史」 by 辻 惟雄

縄文文化から、「千と千尋の神隠し」まで範囲は広いですが読みやすい。日本の美術の流れを把握する為の本です。個人的には、文明開化後の西洋の美術の広がり方。近代化の為に急速に輸入された工業と並んで「技術」として広まってしまった「美術」という概念。洋画の急速な普及と衰退(ヨーロッパのアート哲学への不理解が原因)による洋画壇の苦悩。同じくして日本画の一時的な衰退と復権。日本美術を守るために美術学校(のちの東京芸大)の設立。といった現代にも連なる日本の美術界が今のような形になった理由が見えてきます。



「The Open Work」 by Umberto Eco

「すべてのアートは、潜在的にずっと開かれていた。」

現在もボローニャ大学で教鞭を振るう哲学者ウンベルト エーコーの難解な博士論文です。現在でもアートと観客の作品への参加(participation)を考える上でつねに引用される論文です。ロラン バルトの「作者の死」と並んでコンテンポラリーアートでは重要な論文です。そういえば「私には難しいです」と論文担当の博士に言ったら、「そうだろう僕にも解らないからね」(苦笑)と言われたこともありました。

要約でよければParticipation edited by Claire Bishopもオススメです

「明るい部屋」 by Roland Barthes

写真とは何か? すばらしい文章と鋭い考察に舌を巻いて下さい。




「Antagonism and relational aesthetics」

イギリスのart critic、Claire BishopによってOctober 2004で発表された、Relational Aesthticsに対する批評です。親切な事に現在でもPDF版がダウンロード出来るので是非一読してください。批評としてもすぐれた文章です。

p.s. GoogleとYahooともに日本語で検索するとこの記事へたどり着いてしまうので、要望があれば要約を日本語で書きましょうかね。。。。。

「Relational Aesthetics」 by Nicolas Bourriaud

Nicolas BourriaudのRelational Aestheticsは、日本語だと「関係性の美学」として知られている90年代を代表するアート本です。残念ながら、日本語訳はまだありません。ブーリオが書いたエッセーをまとめ直した都合で同じ事が何度も言い直されるなどよくまとめられた本ではないので、ART THEORYとしては役不足なのですが世界のアート関係者はみんな知っている、学生は卒論のために読むので卒論提出前に品切れになるという、初版から10年以上経ちますが、アート本では珍しいベストセラーです。私が読んだ英語訳の内容を簡単に説明するならば、直接的じゃないコミュニケーションが横行して、その不足を「補完」する場としてのアートが機能し意味を持つことが90年代のアートの特徴であるということです。ティラヴァーニャの作品が根拠になっております。

しかしながら、Claire Bishopは、その「場」に生じたという観客の関係性について「いったいどんな関係が出来たって言うんじゃい?」、「ピースフルな場って本当に民主的?」とAntagonism in relational aestheticsで突っ込みを入れております。Santiago Sierraのようにセンセーショナルで悪意に満ちた「場」をつくることによって、アートの批評性という重要なテーマを表現しているアーティストもいるじゃあないかと、諸手をあげて理想化されてしまった「関係性の美術」を批判しています。

本人もいろんなインタビューで語っているように、Relational Aestheticsは90年代のアートの分析と彼の理想が入り交じった感じなので、世界中に批判や勘違いがはびこってしまった。今現在は修正した認識を持っていて、TATE ModernのALTER MODERN展や最新の著書「The Radicant」で示したように、グローバリゼーションをアートを通して表現する必要性に関心がシフトしているようです。


2009年7月13日月曜日

「批評」ってなんだ

そもそも「批評」ってなんでしょう。英語だと、アートの批評をcriticism、批評家をcriticと呼びます。評論は、解釈という意味の interpretation、そして評論家はinterpreter。皮肉に言えば、勝手に作品を解釈することということになります。

美術評論家は聞きなじみが少しはあるけれど、美術批評家ってすごくマイナーな存在ではないでしょうか(そもそも「アーティスト」がミュージシャンを指す国だ。岡本太郎の明日への神話の式典でゲストアーティストとして呼ばれたのがすべてミュージシャン!)。日本では、アートを学問的に学ぶには、美術史を学ぶ事になりますが、最新のアート理論は教える側が追いつかなくって学べていないのです。しかも美術史家でも学芸員でもなくコンテンポラリーアートの批評をするにはさらなる勉強と知識が必要ですが、日本では個人主義に深く根ざした欧米のアート哲学は学べません。欧米ではアートは技術ではなく学問なのです、形態としては哲学に近いが異なる。そういうわけで、日本には自分を批評家と名乗れる専門教育を受けたプロが少ないのです。
まず、私がこ のblogを執筆していくにあたってまず否定したいのは、評論が作品の意味を補完する日本の体質です。アート以外の知識と縦横無尽な引用と勝手な解釈を売 り物にした文章が多すぎる。例えるならば、日本のアートと評論の関係はバカップルのようなものだと言えるでしょうか。端から見ていて寒い、ふたりの世界の特殊言語は理解不能、しかも実はそれほど分かり合えてはいない。そういう感じ。。。
確かに、不幸なかたちの西洋アートとの出会い、全体主義的な風土と日本語という曖昧な言語も、批評を育たなくしてきた理由のひとつだと思います。私は日本固有の良さは否定しませんし、私は根っからの日本人だし日本が好きです。でも無責任な作品も、曖昧な文章も「日本的」だといったん認めつつ本格的なアートの登場を促進したいというのが動機です。参考にしていただければうれしいです。

アートにおける批評は非常に大事なことです。ヨーロッパやアメリカでは批評家だけではなくアーティスト自身も自他問わずに作品について批評を行います。自分が何をつくったのか、アーティストは責任を持つ必要があるからです。つくった理由も言いたい事も必ずあるからです。そんなの観た人の解釈だとうやむやにしないこと、つまり自分に対する批判的な視点もアーティストの条件なのです。そして、美術批評家は何をするのかといえば、簡単にいうと作品(作家ではない)を批判します。常識として、アート作品とは何かを否定する新しいものですし、意見や提案ようなものです。そして反対意見はかならず同時に多数が存在するのです。すべての人が自分の意見を持っていて、それを自由に発言することが、個人主義ベースの欧米では自然で民主的な行為なのです。また、たとえ自分がその作品が好きでも、批判的に読み解く行為は作家に取ってもアート界にとっても有益なのです。批評は批判ではないし、けっして「いちゃもん」をつけているわけではないのです。ディベートを行った事があるかたなら分かると思いますが、yes or no、agree or disagreeを越えて論理的に批評することは身近な問題であればどちら側についても行えるし、より深く考える上で有益な行為だと思われたと思います。批評無くしてアート無しといえるでしょう。

もし日本のアーティストは無責任につくりっぱなし、評論家は解釈のセンスだけでめちゃくちゃな事を言うだけだとしたら見てられない。でも日本にも海外で評価されている芸術家がいるじゃないか!って? 日本のアートは海外では「日本のアート」として認められているのです(そういうアートはその国の固有(文化)のものなのでこれも欧米からは批評の対象にはならない)。この点、欧米在住の日本人アーティストは欧米の文法で作品を発表していますので、批評するに値します。 例えば、欧米では杉本博さんの作品を「日本的」アートだとは誰も見ていません。「日本的 (really japanese)」だと言われたく無いなら杉本さんみたいにコンセプトから作品をつくる方法を用いるべきでしょう。一方、村上さんは自身の作品の文化的背景を欧米で説明するためにスーパーフラットを発表しました。自分の作品が日本独自の伝統的スタイルを継承していることを説明して作品の後ろ盾にしました。だからスーパーフラットへの批評は日本人にしか出来ないのですが。


日本は外向きのアーティストにとっては甘ったれた最悪の環境なのだけど、
アートを良くしていくには、アーティストは閉じこもらないで逃げないで甘えないで勘違いしないで諦めないでつくることを続けなくてはならない。批評家は知識と愛情を持って徹底的に「作品」を批評しなくてはいけません。アートは逃げ込む場所ではなく開かれた場所、開かれた感性との議論の場なのですから。