2009年7月13日月曜日

「批評」ってなんだ

そもそも「批評」ってなんでしょう。英語だと、アートの批評をcriticism、批評家をcriticと呼びます。評論は、解釈という意味の interpretation、そして評論家はinterpreter。皮肉に言えば、勝手に作品を解釈することということになります。

美術評論家は聞きなじみが少しはあるけれど、美術批評家ってすごくマイナーな存在ではないでしょうか(そもそも「アーティスト」がミュージシャンを指す国だ。岡本太郎の明日への神話の式典でゲストアーティストとして呼ばれたのがすべてミュージシャン!)。日本では、アートを学問的に学ぶには、美術史を学ぶ事になりますが、最新のアート理論は教える側が追いつかなくって学べていないのです。しかも美術史家でも学芸員でもなくコンテンポラリーアートの批評をするにはさらなる勉強と知識が必要ですが、日本では個人主義に深く根ざした欧米のアート哲学は学べません。欧米ではアートは技術ではなく学問なのです、形態としては哲学に近いが異なる。そういうわけで、日本には自分を批評家と名乗れる専門教育を受けたプロが少ないのです。
まず、私がこ のblogを執筆していくにあたってまず否定したいのは、評論が作品の意味を補完する日本の体質です。アート以外の知識と縦横無尽な引用と勝手な解釈を売 り物にした文章が多すぎる。例えるならば、日本のアートと評論の関係はバカップルのようなものだと言えるでしょうか。端から見ていて寒い、ふたりの世界の特殊言語は理解不能、しかも実はそれほど分かり合えてはいない。そういう感じ。。。
確かに、不幸なかたちの西洋アートとの出会い、全体主義的な風土と日本語という曖昧な言語も、批評を育たなくしてきた理由のひとつだと思います。私は日本固有の良さは否定しませんし、私は根っからの日本人だし日本が好きです。でも無責任な作品も、曖昧な文章も「日本的」だといったん認めつつ本格的なアートの登場を促進したいというのが動機です。参考にしていただければうれしいです。

アートにおける批評は非常に大事なことです。ヨーロッパやアメリカでは批評家だけではなくアーティスト自身も自他問わずに作品について批評を行います。自分が何をつくったのか、アーティストは責任を持つ必要があるからです。つくった理由も言いたい事も必ずあるからです。そんなの観た人の解釈だとうやむやにしないこと、つまり自分に対する批判的な視点もアーティストの条件なのです。そして、美術批評家は何をするのかといえば、簡単にいうと作品(作家ではない)を批判します。常識として、アート作品とは何かを否定する新しいものですし、意見や提案ようなものです。そして反対意見はかならず同時に多数が存在するのです。すべての人が自分の意見を持っていて、それを自由に発言することが、個人主義ベースの欧米では自然で民主的な行為なのです。また、たとえ自分がその作品が好きでも、批判的に読み解く行為は作家に取ってもアート界にとっても有益なのです。批評は批判ではないし、けっして「いちゃもん」をつけているわけではないのです。ディベートを行った事があるかたなら分かると思いますが、yes or no、agree or disagreeを越えて論理的に批評することは身近な問題であればどちら側についても行えるし、より深く考える上で有益な行為だと思われたと思います。批評無くしてアート無しといえるでしょう。

もし日本のアーティストは無責任につくりっぱなし、評論家は解釈のセンスだけでめちゃくちゃな事を言うだけだとしたら見てられない。でも日本にも海外で評価されている芸術家がいるじゃないか!って? 日本のアートは海外では「日本のアート」として認められているのです(そういうアートはその国の固有(文化)のものなのでこれも欧米からは批評の対象にはならない)。この点、欧米在住の日本人アーティストは欧米の文法で作品を発表していますので、批評するに値します。 例えば、欧米では杉本博さんの作品を「日本的」アートだとは誰も見ていません。「日本的 (really japanese)」だと言われたく無いなら杉本さんみたいにコンセプトから作品をつくる方法を用いるべきでしょう。一方、村上さんは自身の作品の文化的背景を欧米で説明するためにスーパーフラットを発表しました。自分の作品が日本独自の伝統的スタイルを継承していることを説明して作品の後ろ盾にしました。だからスーパーフラットへの批評は日本人にしか出来ないのですが。


日本は外向きのアーティストにとっては甘ったれた最悪の環境なのだけど、
アートを良くしていくには、アーティストは閉じこもらないで逃げないで甘えないで勘違いしないで諦めないでつくることを続けなくてはならない。批評家は知識と愛情を持って徹底的に「作品」を批評しなくてはいけません。アートは逃げ込む場所ではなく開かれた場所、開かれた感性との議論の場なのですから。