2009年7月21日火曜日

EVERYDAY LIFE と 写真

毎日の生活のなかのふとした美しさの発見をスナップショット(実際には違うものもある)というプライベートな手法で作品にしたWolfgang Tilmans。時折ファッショナブルでさえある彼の自然な写真のなかにあっても、同性愛者という彼自身の視点は見過ごしてはならない。彼の写真にはゲイの持つ繊細さとマイノリティが持つはかなさが機能しているからだ。Hiromixは、過ぎていくはかない日々を、彼女の出来る方法でとどめようとした。写真は日記となり、写真のシーケンスは等身大の女子校生が、自分や周囲を被写体にして自分を見つけようとしたことの記録でもある。Tillmansがプロのコマーシャルフォトグラファーとして確信犯的に見慣れた広告写真を日常という新しいリアルへと捉え直したのと違って、Hiromixは故意にコントロールしたイメージではなくアマチュアとしての自然さが新鮮である。カメラは誕生したときに、現実の鏡像としてだけではなく、人の物の見方と異なった「カメラ的な物の見方」という発明でもあった。そして第三の目として役割を果たしてきた。しかも、肉眼とちがって冷徹に記録できるので、写真に写る対象を限りなく客観的なイメージとして定着させ何度でも分析させえる。川内倫子は、家族の生と死をゆるやかに記録した。川内は、引き伸ばし作業へのコダワリを通して、その「記録」より「記憶」としてのイメージに近づけている。バルトが言うように、写真は常に過去であり写真は過去を反復して再現する。現実にあったことの記録である以上は、写るものは真実の重みの分よりリアルに強化される。そのなかでも「特別」な写真とは我々にある記憶を呼び起こさせる。シチューエーションフォトやコンセプチャルフォトと呼ばれる欧米の写真家による写真は、計算尽くされたかっちりした強さがある、それに比べたらウエットで息遣いが聞こえて来そうなほどに対象と溶け込んだスナップフォトは、観客に身近であり自然だ。プライベートの断片を記録したこうした写真が観客にもたらすものは、観客の記憶の中にある似た風景であり、二度と戻らない日々への郷愁をかきたてる。ロラン=バルトが「明るい部屋」の締めくくりに述べた、彼にとっての特別な写真とは、母の子供の頃の写真であった。