2009年9月28日月曜日

パクリ

アートにはパクリは無い。
積極的な意味でのappropriation(盗用)はある。批判的な意味で行われる。

極端な話、見た目もサイズもまったく一緒の作品が存在しても
コンテクストが違うなら、別の作品。パクリでもなんでもない。
まったく違う文化圏にいても、自分らしさを突き詰めた作品であっても他人の作品に結果的に似てしまうこともある。ほとんどのアイディアには先駆者がいるし、やりつくされた感はある。
もうすでに当然似たものが存在すると思ったほうがいい、だから事前に似た作品について調べる必要はあるし、referenceとして、その作品との自分の作品との違いや類似点について考える必要がある。

ぼくが、言いたいのは、デザインやクラフト(工芸)にはパクリがある。
真似できないような超絶技巧出でない限りは、同じものや似たコピーをつくることが出来てしまう。
それは、製品であり、物だからだ。

でもアートにはパクりは無い。なぜならアート=コンテクストだからだ。コンテクストは真似できない。作品の「見た目」がアートなのではない。だから、見た目をパクラレタ!俺のアイディアだ!と言っている奴は、アートを分かっていない。単純なアイディアなら、先駆者が世界中にいる。でも、まったく同じことはしていないはずだ。他人の作品のコンテクストは誰にも真似できないのだから。コンセプト以前に、作家の性別、年齢、国籍、学歴などもコンテクストである。作家の背景で作品の意味が変わってくる。そういった読み解き方をされないように作家の存在を表に出さないようなコンセプトの作品もあるくらいだ。最近では、作品とは観客の経験だ、その場で生成された人同士つながりだという作品も多い。まあ、そういうコンテクストなのだが。サイトスペシフィックやインタラクティブな経験など、作品の意味を流動させるシステムなのである、もはや模倣とは無縁である。

じゃあ、仮に見た目だけじゃなくて、コンテクストをパクられたらどうしよう?
では、パクられた同じコンテクストで同じ作品がつくれるだろうか?
必ず違う結論(作品)に到達するはずだ、その違いこそ「作家性」だといえるかもしれない。そしてコンテクストは作家の「自分性」から逃れられない。コンテクストを盗んだところで結局自分の作品に生かせるならいいけど、最高のほめ言葉「自分らしい作品」へとコンテクストを整形することは出来ないのではないだろうか。

そういうわけで、どんどん自分らしい作品をつくるがいいし、見た目をぱくられたくらいで目くじら立てる必要はないってことを言いたい。だって、そのぱくったアイディアでつくっても、君には勝てない。え?上手にぱくられたら困る?それは、その人より先にいい作品をつくるしかないんじゃないかなあ。

まあ、同じ先生の生徒が、同じような絵を描くとか、エゴン・シーレの画集を見せたらクラス中がエゴン・シーレだらけになった。芸大に合格した生徒の絵を予備校生が真似るなんてことはよく聞くけれど、自信を持って自分らしいものを作っていきたいものですね。

Artがない話

今回は日本育ちのアーティストへけんかをふっかけるような内容です。 うんと、言いにくいですが、 日本にはアートはありません。歴史上も (この辺は、文明開化、殖産興業、フェノロサ、岡倉天心とかを調べて見てください)。 技術重視の古典的で自律的なアートでも、哲学がないと、Artじゃない。黎明期の日本洋画壇の苦悩の根源には、ヨーロッパのアート哲学を一朝一夕には会得できなかったことがあるわけですが、どれほど改善されたのでしょうか。そして、時代は移ろい、現代アートは観客(意味を分かってくれる人または対立する人)がいて成立するようになりました。存在理由として社会との関わりも必要になりました。アートは一回死んで、社会と人々と交わり始めたのです。 アートってかっこいいことでもオシャレなことでもない。 日本の若い人にとって、アートっておしゃれみたいな捉え方もあると思います。 イギリスも、そういう側面もあるよでもでもアーティストは冷静に糞まみれさ。そういう意味で高尚さ。おしゃれな人もいていいけど、ホームレスと間違われるような人でもいい。 おかまでも、ゲイでも、レズビアンでも、差別主義者でも、犯罪者でもいい。 Artをちゃんとやってるならば、いつだって Coolさ。 あと作家がだれかなんてどうでもいい。 作品が気に入れば、もしくは作品がとても気に入らなくても忘れられなければ、 あなたにとっていい作品だ。作家なんてカンケーないぜ。だって、本人でも嫌いな絵も作品もあるんだぜ。自分の好きな一枚を見つけよう。 好きなアーティストなんて見つけるな。作家の個人情報なんて気にしないで、作品をちゃんと見よう。作家で作品を見ているようでは、やっとモダニズムの気配です。 50年遅れてる。 日本のアートが認知されたのは事実だけど、 日本由来の固有種として発見された新種のシカみたいなもんだ。 東南アジアの田舎で少数民族が作っている民芸みたいなもんだ。文化人類学的には。 万博のジャポニズムブームなみの内容の無さだし表層、まさにスーパーフラット。。。 言いたいことなんてない!という開き直りさえ感じる。 はっきりいって、コンテクストの開発は海外経験組が引っ張っている。 指摘されるプレゼン力の弱さだけど、どう説明すれば外人が納得するのか理解するかを理解することが必要なので、海外で個人主義ベースの論理的思考を学ぶ必要があるのだと思う。だからといって、凱旋帰国した日本人アーティストを巡回してもなあ。 ヨーロッパと日本の一番の違いは、観客だとよく言われる。一方的なコミュニケーションにさらされても「そういうものとして」受け入れてしまう日本人気質に問題がありそう。これが、馬鹿アーティストをのさばらせる原因になっていると思う。あなたがおかしいと思ったら、おかしい。専門的な知識やアートの歴史を知らなくっても、自分目線の鑑賞は出来るはず。 あ、そうだ日本人がみんな外人みたいにわからずやで個人的になればいいんじゃないでしょうか。とりあえず他人を見るの止めてみよう、空気読むのやめよう。自分はどう思うのかを追求しよう。どんどん自分勝手になっていけば、「個人」が見えてくるはずだ。何をやってもいいんだって空気が必要だ。だからって、理由無く人を傷つけたり自由は履き違えないで欲しい。 自分を大切にアートと向かい合ってみる。そうすれば、身の回りのアートに気づくのではないでしょうか。こういう観客には、半端な作品では通用しないはず。

2009年9月19日土曜日

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.5 大巻伸嗣 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。

蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.4 蜷川実花 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.4として蜷川実花の今回の展示について。
写真を周囲の壁に配置。センターにある「部屋」の床にちらばる(没)スライドフィルムを貼付けられたアクリルの断片。全体としてそれっぽい感じにしてあるが、関連も薄いし。空間を頂いたのでなんとか埋めた感があります。アートとしてのコンテクストは解読不能でした。花がいっぱいです。Carl Zweissレンズの発色とかVIVID系のフィルムが好きな人って、ヒョウ柄が似合う気がした。
但し、世界でもこの世代の女性作家(ヴァーホーベンとか)は、「毒」のある作品をつくる傾向がある。それらをグロテスクや「おぞましいもの」などとアート界では言われている。観客をやや不快にすることによって、きれいでうつくしい「女性」という殻から脱却を計るフェミニズム的な抵抗がそこにはあると私は理解している。蜷川氏の色彩感覚は男性を寄せ付けない強さがある。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.3 名知聡子 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.3として名知聡子の今回の展示について。
巨大な女性のポートレイトに花が描いてありました。エアブラシで彩色してあってレースが貼付けてあります。コンテクストは読めませんが奇麗でした。
ミュシャの絵かタロットカードみたいなタッチのシリーズはスタイルが違うので一緒に展示しない方が良かったと思います。はい次

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち  - vol.2 石元泰博 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.2として。モネのペィンティングと、石元康博撮影のモネ晩年の「睡蓮」の写真について。

入ってすぐのコーナにモネの若いころの風景画が飾られています。隣の小空間にモネの中くらいの「睡蓮」と、「風景画」が展示されています。地方の美術館がこれだけのモネを揃えるのは奇跡だそうです。緑の風景だけではなく、崖の絵もあったりして。。。せっかくの企画展のなのに、企画側の苦労が見えるようで悲しいし、選ばずに展示したようで下品なので、展示は緑の風景画と睡蓮に絞るべきだったのではないでしょうか。名知聡子のスペースでも感じたことですが、数が多ければいい訳ではありません。

さて、モネの油絵の展示の次は、石本泰博の撮影によるモネ晩年の睡蓮のカラー写真である。石元泰博の名前は、企画展のタイトルには無いことで他の作家との差別化は図られてはいるが、展示の扱いは同格以上であるので私としては批評させていただくことにした。3点一組縦2メートル、幅12メートルの巨大な写真は、ニューヨーク近代美術館が所蔵する睡蓮の原寸大の大きさで、国立国際美術館が1980年に「教育展示」目的で撮影を依頼したものだそうだ。そして残りの壁3面に、クローズアップされた細部の写真が配置されてる。モネの筆遣いと、色の重なり具合がまるで抽象絵画のように見える。

展示の表向きの意図としては、本物のモネの睡蓮を見たことがない方に、実物の大きさ感じてもらい。クローズアップされたディティールを見ることで、睡蓮の配置や配色から現代アートにも通じるような構成の美を見てほしいということだろう。また、モネの作品数を補い、今回の企画の導入として、モネの本物から、現代アートへの繋がりを見せるという狙いであろうか。次の名知聡子の作品との100年近い差、つまり「美術の死」以前の作品と、現代アートとの断絶を嫌味に見せているように見えないこともない。

残念な点としては、
長い間議論されていて、今日も多くの画家にとっての命題である「絵画と写真の違い」の説明責任は、作品の中にもキュレーションにおいても言及されていない。もともと石本の写真は教育展示用の「資料」なのであって、アート作品ではないのだとしてもだ。実寸大の代替品としていうこと以外の展示理由が不明瞭だ。確かに石元の名はこの企画展のタイトルから除外されている。それならば、作品として同格の扱いをしてはいけないのではないか。今回、展示スペースは区切られてはいるが、ほかの現代作家の作品と同等に並べたのは不味かったように思う。写真の「睡蓮」は地方の一美術館にとしてはは苦肉の策か、親切心の出来心だったかもしれないが。

自分にとってのモネとは、
上京してすぐに、国立西洋美術館で「睡蓮」に感動して、半日ずーっと眺めていたことがある。なぜなら、自分が子供の時にずっとあこがれていた「本物」の絵画だったからだ。自分が絵画を楽しんで描いている時に「本物」を見たかった。後にも先にも、このときほど東京の人が羨ましかったことはない。
そして、「睡蓮」は留学先のロンドンのTATEにもあるし、ほんとに世界の美術館はモネの巨大な睡蓮だらけである。モナリザは一点しかないが、睡蓮はたくさんある。睡蓮は、熊本では国宝級の扱いかもしれないが、大量生産絵画なのだ。画家は、同じような作品を同時に描くものだ。ゴッホのヒマワリですら7点あったらしい(6点現存)。自分でも油絵を描けば、あらためてセザンヌに学ぶことはたくさんあるがモネには無い。

ただし、本物に触れる機会は必要だとは思うし、自分が好きな作家ではなくとも、かつてモネの本物に感動したことは忘れない。この写真によるプアマンズモネは(他の作品との同格の扱いから見ても)代替品になってしまっているので、モネの睡蓮との「違い」を自己主張をして欲しかったし、キュレーション側にはもっと明確に展示意図を作り出してほしかったように思う。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣

2009年9月18日金曜日

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち  大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 - vol.1 展評 -


現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

最初に、vol.1として、この企画展の総評から書こうと思います。

展覧会の主旨は、「モネと同時に現代美術を展示することで、現代美術が実は歴史と結びついていて刺激的で美しく、親しみやすいものであることを示し、さらに若い日本の作家と組み合わせることにより、モネの世界にも現代的な光を当て、新たな視点でみることを試みています。(フライヤーより抜粋)」とあるように、熊本という地方都市で、現代アートを楽しんでもらうために、「花」で知られる作家の中でも、よく知られた巨匠画家モネを手始めに、若手アーティストを紹介してアートを身近に感じてもらおうということのようです。

まず問題は「花・風景」というテーマです。花というのは固有名詞であり、文節の中に置かない限り意味も主張もありません。また、「風景」というのはアートでは大きなくくりでの主題であり、絵画の形式でもあります。つまり、この企画展は視覚的な「花」「風景」に重点を置いていて、花や風景の物性で繋がっただけでコンテクスト上の繋がりはないということです。現代アートをコンテクスト無しで楽しませることは、アートを身近に感じてもらうという意図をいくら尊重したとしても、軽視して良い問題ではありません。現代アートからコンテクストを取れば、話題性やファッション性以外には何も残らないと言っても過言ではありません。

モネの印象派絵画から、心象風景としての置き換えがなされています。。。。

なぜならば、アートを身近に感じるというのは、コンテクストの読み解き方を「教える」ことによって、現代アートを楽しんだり考えるきかけとすることが出来るようになるのです。コンテクストを見る習慣の無い日本での、企画展の良し悪しは「いかに現代アート普及させていくか」へどのようにアプローチしたか、達成できたかどうかにかかっているということです。

また、このおおざっぱな企画展の目的である、「新旧同時展示」を田舎で展示するためには、歴史も専門知識も必要しない視覚的快楽のある「美しい」アートを見せる必要があった。そのために「花」という括りが必要だということになったのでしょう、きっと。一見、野心的で熊本のレベルに合わせた安心できる企画のようですが、「アートの視覚性」という技術論以外では語るすべも無い甘皮へ執着してしまった点で、「アートを身近へと感じてもらう」という意義が灰燼に帰してしまったといえます。厳しいようですが、アートの歴史上も教育上でも価値のある企画ではないということです。企画展でコンテクストを考えるきっかけとしては、07年の森村泰昌の企画展「美の教室」での革新性が際立ってくるのではないのでしょうか。

次に、どうしてもモネを選んだ必然が見えてこなかった点。確かに、モネの風景画と水蓮には、「花」と「風景」があった。この企画展の英題は「Flowers and Landscape」なので、Inscape(内景)ではないのだろう。(名知の絵はInscapeだったけども。)だからといって、大巻のインスタレーションの色使いが阿蘇の自然からインスピレーションされているとしても、大巻のフィルターを通した主観的風景であって風景(Landscape)ではない。蜷川の写真は静物画に近い。彼女のインスタレーションもInscapeだ。あくまでモネは、風景画家である。招聘されたアーティストの作品はコンテクストでもモネと繋がっていない。3人の現代作家は、風景を再構成する目的のために作品を作っているわけではないからだ。モネの水面に写っているのは、庭に生える柳であって世界ではない。写っていたとしても、1900年初頭の風景である。それに比べたらセザンヌやマティスの絵画には、今見ても革新的な要素がある。それは、彼らが当時の伝統的な絵画の形式のなかで多様な挑戦を行っていたからだ。それに比べたらモネの革新は、心象的でドラマティックな風景を一見抽象絵画のように見えるようなコンポジションで表現したことにつきるが、抽象絵画ではない。知名度の点でモネを越える画家はいないかもしれないが、「花」というテーマにモネの水蓮は適さない。私は、「花」を意識してモネを見たことは無いし、見たとしても「風景」としてだった。「花」で考えるならば、ゴッホのひまわりは借りれないのかもしれないが、静物画で「花」へ挑んだ画家を選んだほうが、まとまりがあったのではないだろうか。また、名知の作品のレースようなディテールは、テキスタイルを多用したマティスの絵画を横に置くことによって、絵画の歴史の連続性を見せることが出来たかもしれない。

しかし、「花」や「風景」というテーマでもコンテクストを考えるようなキュレーションも出来るはずだ。「花」には、元来、人を魅了する美しさや香りがあり、あるときは妖艶でまたあるときは純粋な女性性の象徴でもある。ところが、今回のCAMKの展示室というホワイトキューブには、まったくの艶やかさもなく作品以外には「花」が無いというのはいかがなものか。全体の印象として静かで、地味に感じられた方が多かったのではないだろうか。今回、場所を使い切っていたのは、さすがはインスタのプロの大巻伸嗣でした。(他の作品:ペインティングは、絵画として使ってインスタレーションしないほうが良いですが。アート的には)。 
そこで、「地味、つまんないぜ!」の改善策としては、もっと多くの作家を選んで、それぞれが今回ベストな1点ずつを持ち寄ることと、展示はランダムで動的な配置にしてリズムをつくることが必要。(理路整然とした花園なんて、畑だよ畑!つまんないよ!)。 作品ではなく作家で選んでしまったことで、企画展なのに、それぞれの作家が見せたいものを見せてしまった自分勝手なグループ展みたいになってしまったのではないだろうか。

プロジェクト型アーティストの、ぼくに企画が来ていれば、美術館の外に「巨大な花輪」をエスカレーターからエントランスまで並べていたと思います。パチンコ屋の新装オープンか?というぐらい派手に下品だけど、「デカイ花輪」にすることによって作品としての異質感をかもし出す。吸い寄せられた一般人に見るきっかけを与えて「アートを身近に感じる」ように。
一般人ホイホイ企画なのに、求心力が不足してはいけないと思うのです。

花や風景は、美しいだけじゃない。そういう驚きというインパクトが感動へと連なるし、コンテクストを読み解いたときの感動も味わえるような企画展にしてほしい。


p.s 展示室に入ってすぐに、ボールペンは禁止です鉛筆を使ってくださいといわれ、次の部屋でガム禁止です。吐き出してくださいと続けざまにいわれてだいぶテンションが下がりました。ガムはよくないけど、ペンぐらいいいんじゃないかな。イギリスなんて美術館の床ではガキがごろごろクレヨンもって書きなぐってるけどなあ。ガラスケースも柵もないし、作品より観客が主体なんだよ先進国は!「よりアートを身近にしたい」とかいっておいて、作品を触れられないようにして「崇める」姿勢はイカンよ。東ドイツのライプチヒも似た感じだったなあ。友達が走ったら監視員が走って追っかけてきたもんな。つまり、そういうの田舎ってことだから。作家にとってみたら作品ってさ、壊れたらまた作れるしへっちゃらなんだよー。いかに観客と作品の間に壁をつくらない展示を出来るかで、「本物」に触れられることへの意義が生まれるのです。観客との距離を注視しているアーティストは、故意にクオリティを下げたり、身近な材料からDIY的な普通の技術で作品を作るのです。近づけない「高尚さ」と、身近な「社会性」の葛藤自体は、アーティストだけではなく、アートを支える側にとっての課題でした。しかし、崇めないと自立できない作品の時代は終わりました。現代美術館を標榜するならば、主催者側が守るべきは作品の骨董的価値では無く、観客が「楽しむ」権利なのです。

p.s ここは、批評天国のイギリスではありませんから、ぼくの批評を「文句」とか「批判」だと感じられる方がおられたり気分を害されるかもしれませんが、あくまで「批評」ですのでご理解を頂きたい。「批評」なくしてアート無し、前進なしですから。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

2009年9月15日火曜日

言葉にならない

記号論では、記号化(言語化)されていないものは存在しないし、認識できないとされている。大雑把に言って、作品がなにかしらを視覚化した、もしくは何かしらを観客に引き起こす作用があるということは、作品そのものが「記号」のようなものであるといっても差し支えないだろう。つまりアート制作とは、非言語的な存在を視覚化するための新しい記号をつくる作業なのではないだろうか。安易にすべての作品が記号と決め付けているのではなく、アート作品が記号だという仮定で、制作における言語の機能について考えたい。

「言葉にはならないことを表現するのはアート」。
「私は口で説明したくないからアート作品を作っている」。
という人の多くが、言葉でまったく説明しない。気がする。

そこに見え隠れするのは、「言葉に出来ないことを作品として視覚化した」→「作品が表現したことは言葉では言い表せない」。という短絡的なロジックだ。どうせ、言語化できない、どうせ、作品の意味は観客が考えることだと。しかし、ここで議論をせずに「結論」を急ぎすぎてはアートは永遠に見えないなにかになってしまう。

日本的な議論のなかには、こうした極端に結論を求めるような公式が氾濫している。
結局、「それって何とかだよね」と、話を終わらせようとする。
しかしながらアートに終わりはないし、そんなに適当な結論であってはならない。
永遠の苦悩だし、悶絶だし葛藤だし、有機的で流動する生命の水のようなものであり、
絶対的でもないし感想まで一緒に想定され製品化された、物質ではない。

口で説明するのは無駄なことのようにおざなりになって、
言語的で論理的な思考は停止して、作品は非言語的て不確定な領域に飛んでいってしまう。
極めて批評が難しい領域だ。
口下手の言い訳として、この論理は使われる。
言葉では説明できないアーティストはプレゼンが下手だ。自分が何をつくったのか分かっていないからプレゼンできないのだ。

どうせ死ぬから今死んでも同じだなどと思って生きているのではない。
そこに何が再現されたのか、虚飾なのか実体なのか、ディティールによって具体されたことは何なのか。「何なのか」と疑問に思うことは、「新しい記号」を解読する作業であり、本質的な意味での「アートの鑑賞」だといえると思う。

アートは言葉ではいい表せないという事実と、
言葉そのものは「アート」を越えないというのは真実だとしても、
作り手の用意した「言葉」は記号となって、観客によって解読される。


作り手にとっての「言葉」の役割はなんであろうか。
アート制作に際しての言語的機能としてコンセプトやコンテクストがある。
コンセプトを組み立てるのにはアイディアを言語化する必要があり、
コンセプトは純然たる言葉で、その結果として生まれるのが作品だ。
視覚的な部分から掘り下げて行くのではなく、
コンセプトの論理的発展から作品が展開していくのだ。
コンセプチャルに作品を考える事は、論理的思考という新しい窓をひらく行為だ。
「AはBである。なのでBはCである、そこで私はAをCだとしたのだ」といったようなのが基本的なコンセプトのロジックだ。外国人は、これを作品から理解しようとする。

よくある、作品の横のポエムめいた散文か、呪文のように難解な説明。
タイトルや隠喩的な説明も後付されているかのようで、
重みがない。また、評論家による作品の評論も、ぼくはこうボケてみました的な解釈能力を生かした解釈論であって、プロフェッショナルな批評を見たことが無い。
ペテン師の戯言を聞いているかのようで作品を曇りガラスで囲ってしまう。
そもそも作品によって、なにが起こったかなんて
副次的でアーティストにはコントロールできない領域だから、
作り手や評論家が後で語る必要はないし、無い物を高らかに吹聴するような
装飾のための言葉は添付するべきではないだろう。
自分の目で、そこにある作品をみることの邪魔になる。

アーティストは言葉で考えて作品をつくり、
観客は自分が思ったことを論理的な文章に変換してみることで、
双方がアートらしくなる。

作家は、そういう視線を後ろに感じながら制作せざるをえない。

アーティストにとって、言葉で言えるだけ語って、考えられるだけ悩んででた「言葉」が作品の実体なのではなかろうか。

ようやく、コンテクストのある作品が用意される。観客は「?」を解読する。

そうして作品は語りはじめる。