2010年10月8日金曜日

めだか


玄関のビオトープ。父が、姪の為にめだかを買って来たのでプラ舟で作ってみた。水量が足りないので、かっこいい木枠もつけた。管理はたまに水を足すくらいだけど、水はずっときれい。残念なのはミニ睡蓮が咲いてくれなかったこと。(ミニ睡蓮、他に、ブルーイグサ、ウォーターマッシュルーム、ウォータークローバー)
 

このメダカ達は最初に父が買ってきたメダカから数えて3世にあたる。たまごを採取して親に食べられないように隔離すればどんどん増える。動きが速いのでうまく撮れない。PLフィルターつけてシャッタースピードを上げて連射すればちゃんと撮れるのは分かるけど、その方法がわからない(笑)

カメラに慣れる為にいろいろ撮ってみる

2010年10月7日木曜日

芸術と労働

キュレーターの遠藤水城さんのARTitの日記で紹介されていたプロジェクトとその掲示板

藤井光「アワーストライキ」
http://silentlinkage.com/archives/180

アート従事者が、こうした形で社会参加することよりも
こうした運動が珍しい気がするし、
掲示板の内容が真剣で濃すぎて私は驚いてしまった。
こういった、コントロバーシャルな作品は、反応が面白い。
議論することがおもしろい。
イギリスのターナープライズ(Turner Prize)なんか、
受賞者に関しては、毎回世論が盛り上がる。
議論することはおもしろい。

アートの関係者は、
世界的に見てもマイノリティ出身者が多いと思う。
日本の不思議系とか言われるようなアート関係者とはちょと意味が違う。
(ヨーロッパでは、日本ほど、金がなくても大学に行けることも影響か?)
もっと物理的に社会的環境的に問題があった人。
アウトサイダーアートそうだけど、アカデミックの領域でもそれは同じ。
むしろほとんどがゲイ、レズビアン、HIV、身体障害者、
サディスト、マゾヒストだった気がする。
彼らとは、とても人間らしい付き合いができた気がする。
強烈な個性を発揮しつつも、他人の個性を同じくらい認めてくれる、
傷みの分かる繊細でデリケートな彼らだった。

同じ学校に、日本人で10年サラリーマンだったペインターもいた。
サラリーマンってすごいんだなと、彼の作品への情熱を見て思った。
実際に学校のコンペで見事に優勝?した。

アートへの敷居が低くなれば、
アートの教育方法がイギリスのように論理的なカリキュラムになれば
(まじで、あのカリキュラムなら誰でもアーティストになれる)、
日本のアート、日本の社会も変わって行くと思う。

アートが、各人の思っていること、考えている事を伝える手段として機能して、
アーティストのことを僻まない社会は健全な気がする。
アートの為のアートもぼくは好きだけど、いろんなアートがあって
それが普通な社会に、日本にしていきたいなあと、
生産者である農家の方がつくったおいしいみかんを
消費者として食べながら思った。

芸術運動が社会問題への反動として起こる事って(Arte Povera?とか)、
アート作品が実社会に対して「リアル」になっていくってことだから
いいなあ!

2010年10月5日火曜日

おじゃるさま


(Youtubeでしか再生できないようになっています、反転が残念)


あの雲は かたつむり

のろのろと 空を歩く

急いだって しょうがないんだ

自分のペースで 風のままに

なぜ 人は誰かと

比較をしたり 競争するの?

なぜ 人はみんなと

同じゴールを めざしているの?

雲だって いろいろある

人だって いろいろいる


顔やかたちが 違えば 別の道

生まれて生きて 死んでく 遠まわり


これ、おじゃる丸のED曲の歌詞なんですけど、
秋本康の作詞なんだってさ
現代人のなぐさめソングはほんと得意なんだなあ、あの人は。
こういう分かりきったような、改めて歌う必要がないようなことでも、
心にしみる時がある。

そういうときは、心が秋空のように謙虚で澄み渡っている。
そんなこともないか。ないな。
でもおじゃる丸はいいよね。

サザエさんがリアルじゃない世代の大人も、見ていて安心な番組だ。


コミュニケーションに関する新しいプロジェクトを始める準備をしている。
個人情報を公開して自由にアクセスしてもらうような試みです。
アーティストというのは、公人みたいな面がある。
SNSのFacebookは実名での付き合いが行われているし、
アーティストとそのファンという関係でもフレンド登録してくれることも多い。
プライバシーの設定も出来るが電話番号すら公開もされている。
一方で日本の代表的SNSのmixiは匿名性が高い。
バイト先でいたずらしたことや未成年の飲酒、情報漏洩とかの事件があった。
匿名であることで、情報に対する責任は希薄になってしまうらしい。
その点、Facebookは実名前提だから下手な事はしないメリットがあるらしい。

とにかく、国が国民に番号を付ける前に、
個人がカウントIDとしてインターネットには存在している。
アートでもインターネットの利用は盛んだ。
情報の告知、閲覧だけではなく、インタラクティブな作品も多い。

Relational Aestheticsのようなこと(アートを介してその場で人々が直接交流する)
インターネット上ではごく自然に「間接的な交流」は発生している。
アバターを操ることも出来るし、ヴァーチャルな空間でのアートイベントも開催されている。
ネットでの会話のマナーをわきまえている世代にとっては、
実社会よりも都合が良い世界なのかもしれないと思う。

留学して、実物(本物)を間近に見ることを学んだ。
全体ではなくひとつの作品の一部を凝視してポイントをメモすることを勉強した。
だから、本物をじっくり見る事の意義はよくわかる。
実際、はっきりと細部を記憶もしている。

インターネットを通して発信することを前提にしたアート作品に対して、
接することに対してどう距離を取っていくか。
身体を感覚にどう追従させるか。
観客に想像させるような手法で作品を作って来た私に取っては、
インターネットを導入することによって、
より多くの人に、垣根が低いインフラとしてインターネットはとても魅力的だ。

ま、難しいなあ。
このプロジェクトを実行するのにあたって、
社会心理学を勉強始めたのは、いいタイミングだったと思う。
おたのしみに



2010年10月1日金曜日

山本基: MOTアニュアル2010

行ってもいないのに批評することは、ご批判を受けることと覚悟していますが、
このExhibitionの開催当時、東京にいなかったので行けませんでした。
ARTiTでの山本基へのインタービューや写真を見て思うことが多々あったので、
整理しつつ批評してみようと思います。

http://www.art-it.asia/u/admin_news/3sJeF7ElvRXAf0xtuVC9
(山本氏へのインタビュー動画なくなっちゃった。。。)

今回の「MOTアニュアル2010:装飾」展(2月6日(土)~4月11日(日))
「装飾」という造形形式を、時代の美意識を越えて個人の精神性を反映するものであるとして作家を幅広く集め、「装飾」された空間や作品によるexhibitionのようです。

作家それぞれが装飾的な作品によって表現していることは多種多様であるが、全体として社会を反映しているのではないか?ということなんでしょう。私も装飾とか文様はある種の世俗を反映しているのは確かだと思います。例えば、マティスなんて、当時のテキスタイルを正確に絵に描いているので彼の絵には資料的な価値もありますよね。ま、ここは今回はこれ以上はこのExhibitionのテーマには突っ込みません(見てないし)。
ただ、メディアとか表現手法の類似性で作品を括るのは止めて欲しいとは思う。個人的には、「装飾というのは飾りであって本体ではない」という点で、装飾それ自体にも「意味」があるのだとしたらどう読み解くべきか、そして装飾を施された実体の持つ意味はどれぐらい社会を反映する「のりしろ」として機能してきたのか、当時の「のりしろ」の実体と比較検討してみたらよっぽどテーマに沿った内容になるのではないかと思っている。そりゃ博物館の出番かなあ。。。。

山本基は、塩を用いて、死をテーマにインスタレーションを行っている作家です。今回は、「迷宮」というタイトルで、塩200kgを使ってホールの床に日本の伝統的な波模様か枯山水の庭園を彷彿とさせるような広大な塩の迷宮が広がり、川(本人談)のような装飾されていない貫入がところどころに入っていて、単純な紋様としては見てほしくないようであるが、イスラム教の都市の上から見下ろしたような複雑性と規則性に連続が見られる。一見すると、白の純白と床の木材とのシンプルなハーモニーであるがゆえにどういった意味があるのかと深読みすることを要求されているようで、コンセプチャルアート的な体裁ではある。
紋様の賑やか以外は、禁欲的な感じだ。それは、混みいった人生の「道」のようにも見える。

私は、この作品のキーワードである「死」、「持ち帰る(消失)」について似たキーワードの作品で知られるFélix González-Torresの作品と比較してみようと思う。

トレースと山本に共通するのは、commodity(商品価値)の無い作品を作り、インスタレーションで場をつくる作家であるという点である。そして特別な材料とスキルは使っていない。

しかし、トレースの作品における「死」には、彼のゲイとしてのアイデンティティや死に至る病=HIV、ボーフレンドの死の悲しみが色濃く表れている。観客はゲイでなくとも悲しみを追体験させられる。

「死」というテーマ
死というテーマの壮大さ、
ぼくは、死というテーマに懐疑的だ。
すべての人にとって「死」はテーマとなりえるからだ。
轢死とか水死とか憤死とか感電死とかにジャンルに拘るのなら別だけど。
すべての人間にとって、どう生きるか、そしてどう死ぬかは人生のテーマじゃないか。親も死ねば、友も死ねば、恋人も死ぬだろう。死は身近であり究極であり普遍的すぎるのでわざわざテーマにしてもらわなくても「意識」していることだ。
原始人も未来人も死を前に去来する思いは変わらないだろうと思う。

YBAのダミアン=ハーストの作品に流れる「死」の軽さ、軽快さ、がファッション的に見えてしまうのは、彼本人に何のイデオロギーも無い一流のコンセプチャリストだからだと思う。薬棚も、解剖台もダイアの髑髏も、鮫も、牛も(クーンズの作品の置き換えだし)。死の仮面を被った、「死」とは対極の存在とも言えるかもしれない。

死というのは、宗教観や死生観を反映したものなので、多様であいまいで絶対的。 
しかし、個人的経験ほど、記憶を呼び覚まされて共感させられるものはないだろう。
ハーストが表現する死は、生物としての「死」であり、ちっぽけな「生」を意識させられる。
トレースの表現する死は、個人の悲しみが宇宙よりも広くて深いことを感じさせる。
いずれにしろ、山本の作品の「死」に対して、距離の取り方が私にはわからない。

最終日(終了後)に、生演奏を奏でつつ、作品を撤去するそうだ。。。。
塩を持ち帰りたいかどうか。BGMは葬送曲なのか、運動会のマーチなのか、おしゃれアンビエントなのか、ノイズなのか、意図的に行う以上は、この作業も作品の一部なのだろうか。
会期中にやらないと作品の一部にはならんぜよ!と思う。

いわゆる「消失する作品」というのは、
ランドアートの重要なテーマのひとつで、
人間がつくったものが自然の風化作用で形が無くなってゆくことで
時間的スケールや都市と自然の関わり、さらに生と死を意識させられる形態である。
近年の参加型アートの隆盛によって、持ち帰られ人工的に消失するインスタレーションが
ランドアートの進化した形であると私は思っている。

インスタレーションにどう観客を参加させるか
経験させることの重要性が認知され、世界の展示スペースは遊園地化している。
参加型アートの理論を進めるならば、究極的なインタラクティブアートは遊びの場や遊具などの社会の原初的風景ともいうべき場所(site)に降り立つのだ。この話は、私の研究テーマのひとつなので違う記事で書こうと思う。
こうしたアートは、観客との距離を短くするために超絶技巧は使わず、日常にある材料でDIY(Do it yourself)になる。そうすることでcommodityを無くし、unmonumental(非記念碑的?)になる。その空間が体験者にとって創造の場としての意味を持つように。
いかに自然に観客を作品へ取り込むかが参加型アートの必要条件になる。
これは、必ずしも「平和的」な空間の構築を目指している訳ではない。Santiago Sierraのように、嫌悪感をもたらす作品でも構わない。

さて、今回の参加のさせ方としての「持ち帰る」ことについて考えなくてはいけない。
「持ち帰る」ことで消失する作品    
海に返すことは自然葬を思い起こさせるが、
海に塩を振るなんて、塩鮭に塩を振るみたいでなんかロマンチックじゃない。

塩=死だと思うのは日本人だけかもしれない。イギリス人にとっては床に蒔かれた塩は融雪剤だ。観客それぞれの文化的な背景をどれだけ意識してつくられたのか分からない。
日本人の死とは静寂なのか。外人アーティストにとっての死はもっと派手でグロテスクなものだ、一部の禅かぶれのアーティスト以外には。

トレースの作品と同じように、「パーソナルな体験の共有」が狙いならば、持ち帰りたくなるようなマテリアルであることと、その「持ち帰る」行為が自然であればあるほど、エスカレーターのように自然に参加させられることによって、より参加型のアートとして、追体験型の作品として輝くはずだ。塩を持ち帰りたい人というのは、常識的に考えれば?今晩の台所で使う人だろう。お塩借りるわよ!ってな具合に。もしくは球児にとっての「甲子園の土」のように思い出の遺品「おみあげ」としてだろう。

いかに自然に観客を巻き込むかという点において、トレースの作品は観客は積極的に持ち帰る。キャンディを持ち帰るのは自然な行為だ。その辺で、トレースの作品は参加型アートのあり方として先駆的だった。

山本氏の作品の「制作過程」を知る事で、作品の意味が変って来る。良い意味で。
もくもくと、座り込んで塩で描く延々としたプロセスにこそ迫力がある。
つまり、パフォーマンス的な要素が働いているということだ。
しかし、作品の持てるコンテクストには限界がある。
いろんな要素に手をださずに、パフォーマンスを上手にみせるべきだと思う。

普遍的な作品として徹底することの難しさ、作家性とどう両立するのか。
あたらしいアートの要素とテクノロジーをどう扱うか。
バランス感覚とセンスがアーティストにも求められている。

2010年9月30日木曜日

映像

映像。
そして動画。 動画と書くとアニメみたいだ。。。。
映像も静止画の連続なので、広く捉えればアニメーションかな。
本当のアニメの意味は、アニマが宿ったもの。
動かない物がアニマ(生命)を宿して動くことですよね。

はい

今、映像作品をつくる準備をしています。
もうね、HD化するには 全取っ替えです。
After Effects CS5 , Photoshop CS5, Illustrator CS5 のアカデミックを買います。
(そのために放送大学に籍を置いたのは内緒です)
今だにPowerBook G4なので、 Macも買い替えです。
デジタル一眼でHD動画撮れるのは凄いですよね。
長回しはセンサーが熱でやられるらしいので、ワンシーンワンカットは難しいみたいだけど。

もともと、私は映像で生業を建てていました。
映画の自主制作なんてことを大学の頃は本気でやってしまって、
その流れで某CG会社でテレビのCGをつくっていました。
モーショングラフィックスとか、スーパーとか、スウォッシュとかいう奴です。
スポンサーロゴのパス取りもやったなあ。。。マスクいっぱい切ったなー。。。。

でも、CG嫌い! アンゲロプロスとかカウリスマキが好きな映画青年だったから当然なんですけどね。 で、いろいろ考えたあげく渡英して、 ファインアート(美術)を学びました。
PCとかのデジタル技術は作品制作へはほんとに使いませんでした。
仕事で扱ったようなクオリティのある映像は、アートだと無いんですよ。
ヴェル ビオラ?とか映像美で魅せる作家は稀です。
日本だと高木正勝とか(CG屋に取ってみれば鼻くそみたいな技術だから)。
でもアーティストというのは実はアマチュアなんです。
大事にしているポイントが違うんです。
コンテンポラリーアートにおける映像作品の大体が記録として映像、
ドキュメンテーションなのです。メディアアート的なかっこいいものは、あんまりあんまりです。技術は問題じゃなかったりします。

ま、そういうわけで、イギリスにいる時は映像をつくる気にはまったくならなかったのですが、帰国してから、今なら新たな気持ちで映像をつくれるんじゃないかと思うようになりました。不思議ですね。

私の一つ年上の師匠!の矢後智之さんは映像を作品によく使うアーティストです。
スウェーデンのヨーテボリで活躍中のようです。
なんかいっぱいコンペで賞とかもらってるしー。
映像って出品しやすくていいよね! インスタだったら機材大変だけど。

俺もがんばるどー。

2010年9月6日月曜日

The artist's Joke by Jennifer Higgie

ホワイトチャペルギャラリー出版のシリーズ。今回はジョークについて。

"The Everyday" edited by Stephen Johnstone

例のホワイトチャペルギャラリーから出版されているシリーズです。

今、欧米でアーティスト及びアート関係者が考えていることがよーくわかる
このシリーズ。今回は"Everyday Life"、つまり「日常」に関して考察してあります。
多数のアーティストや批評家の論文をピックアップして編集してあります。

90年代に、各地のビエンナーレなどで「日常」を取り上げた作品が増えました。
素人が撮ったようなスナップショット写真、
アマチュアな作品、DIY的工作スキル
「日常」を展示するということはなんなのでしょうか。

"WHAT HAPPENS WHEN NOTHING HAPPENS?" (Paul Virilio)

以下の文章は、ソフィー・カルがホテルでメイドをして他人のプライヴェート(日記)を盗み見た作品の一節です。

I clean the room and start to read his diary. His handwriting is poor, heavy, irregular. I re-read his remarks about Venice: 'Sunday 15 February 1981. We arrived in Venice this morning. We took the train. it is really spectacular. No cars, just pretty little streets and small bridges over the canals. We sat outside and had drinks of various strange things. We went back to the hotel. i am in a tiny room by myself. Ran out and bought a kilo of oranges and apples and put them on my windowsill. We went out and had very good walk. I ate a good soup, noodles with tomato sauce, and drank a lot of white wine. Went to piazza San Marco, had a grappa. made me feel not too good. Went back to hotel C. I slept a bit. Rob and I went to strolling. Strayed at a bar and had a beer. Came back. Rob went up. Got a postcard from the desk and went to hotel bar and had a beer + cig. I wrote a long postcard to OI. Up to my room, had a bath, ate some oranges and apples, and will crash. I have told the desk to wake me up at 8:30...' Sounds in the hallway. I close the diary. As I put it down it down, someone enters the room. i pick up my rags, my bucket (where my camera and tape recorder are hidden), lower my gaze and leave.
(Sophie Calle, The Hotel. 1981 )

観客は、日記を他人に見られることの気まずさと、他人の日記(プライヴェートな情報)見ることの新鮮さを同時に味あわされます。


オサレな直島で口当たりのいい作品を見るのも良いでしょうが、欧米のアートシーンにおけるリアルな日常の意義について考えてみませんか。

2010年3月26日金曜日

過去の記事の紹介

去年書いた文章をARTit(http://www.art-it.asia/f/k_miyagawa/)ブログ用に再編集したので、

紹介します。


言葉にならない
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/blog-post_2500.html

Artは学問≠技術
http://weartheworld.blogspot.com/2009/07/art.html

Artがない話
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/art.html

おまけで、紹介文も
「Relational Aesthetics」 by Nicolas Bourriaud
http://weartheworld.blogspot.com/2009/07/relational-aesthetics.html

Santiago Sierra
http://weartheworld.blogspot.com/search/label/Santiago%20Sierra

Relational Aestheticsに関して検索してたどり着く方が多いので、
そのうち詳しく書いて載せようかな。
でも僕を信じないで、自分で実際に本読まないと駄目だよ。
単位落とされても責任取りませんよーだ。

2010年3月13日土曜日

タイトル: WE ART THE WORLD

今更ですが、このブログのタイトル(名前)について説明していませんでした。

‘ 由来 ’ 

あのチャリティーキャンペーン We are the world にちなんだダジャレです。スペルミスでもなくって私が作った造語です。発音すれば同じでしょ? スラングの世界では発音しないアルファベットを省略したりするので、Eを省略。そして、ARTを誤って動詞的に使って、「art the world」 で 「アートをやる!」「世界をアートに!」という新たな意味を込めました。「We are the world(私達が世界)」であり「We art the world (私達が世界をアートにする)」というダブルミーニングです。


‘ IとWE ’

I ART THE WORLD、作家がアートという専門性の高く、超絶スキルで用いて制作された商品価値(commodity)のある「モノ」を作ること。というのがこれまでの一般的なアート制作でした。
そしてオリジナリティに富んだ創造性を持った作家が「I(個人)」を発表する場だったギャラリーなどのアートスペースが、90年代には作家と観客を越えて個人同士が「作品(モノ)」や「作品(場)」を通じて交流する場となりました、そして、作家だけではなく観客も「アートを楽しむこと」「アートに参加すること」「自分のアート体験をすること(モノ以外の価値のあることを自分でつくりだすこと)」が観客の権利として出来る作品に出会うことも多くなってきています。
観客も作家みたいなアート、つまり、みんなアートやってるってことじゃん!というような現代的「アート鑑賞の楽しみの方のひとつ」をこのブログで推進していこうといことです。

言葉は悪いですが、一見ゴミしか見えないかもしれないけど、観客にとって価値のある「ゴミ」の鑑賞の仕方を学ぶ場になればいいと思います。そういう思いです。タイトル負けしないように頑張ります。

2010年2月27日土曜日

ボヤいてすいません

メールでおしかりを受けました。

差出人偽装で送ってこられたのでメールと返事を全文掲載したいと思います。
差出人を偽装?して送られると返事が送れないです。
この国は、差出人を偽装しないと自分の意見を言えないんだろうか。。。
責任を取れとかいいつつ、自分こそどうなんだかと思われちゃいますよ。
自分の一方的な意見を述べつつ、名無しさんでは、議論を否定したことになりますよ。
せっかく、返事書いたのに失礼じゃないですか?
なので返事を載せます。読んでからまたメールを下さい。

あと、この文章「言葉にはならない」を読んでください
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/blog-post_2500.html


-Nさんより------------------------------------------------------

ブログ: WeARTheWorld
投稿: くらしの豊かさ
リンク: http://weartheworld.blogspot.com/2009/10/blog-post.html

これは批評ではなくボヤキですよね。文句言う前に行動で示してみて下さい。一応、作家さんなのですから、ブログであろうが自分の発する言葉には責任を持つべきです。「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?あなたは「アート」を崇高なものだと謳っているが、一方で「アート」を貶めているのでは。悲観主義者は偉いのでしょうか?観客がアホだからダメだなんて、アートの力を信じていないか、負け惜しみを言っているだけですよ。


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以下 ぼくからの返事です

Nさん(差出人不肖なので適当につけさせていただきます)へ

ご意見ありがとうございます。
リンクで送ってこられた文章は、「批評」として書いたのではありません。
タグで分類しています。タグが「批評」のものだけです。まあ、それよりも以下の部分が気に入らなかったということですよね。

>「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?

なぜかと言うと、日本的な批評とか鑑賞のあり方の結果として、
あいまいなドロドロが作品が包んでいて守られていて、議論を拒否していて、
レベルアップする可能性を貶めていると思っているからです。
日本語の曖昧さも原因かもしれません。
たとえば、オバマとか言ってることが分かりやすいでしょ?
日本の政治家は煮え切らないし、うやむやというか。
「はっきり言う」ことは、軋轢もうまれることもあるし責任も生まれます。
でも、それは個人の「意見」ですし「意思」ですよね、英語って基本はYESかNOですし、
当然議論になります。でも、相手と意見がどう違うのかよくわかる過程でもありますよね。
だから、私はアートに関してもすべての気持ちや感覚を言語化する努力を行ってみると、違うレベルに行ける。
「僕はこう思ったからこう考えてこういう風につくったんだ」
「いやぼくは、それならば、こうしたほうがいいと思うな」などという議論が必要だと思っています。「ぼくは、そうは思わないから、この作家は「嫌いだ」」とか、
はっきりわかること  が
これからの日本のアート界に必要だと思っています。
その為の「言語化」の必要性をあの記事でぼくは謳っております。

あと、個人主義ベースのイギリスでは、前提として、すべての人に「自分の意見」というものが必ずあって、それは絶対に隣人とは違うものだとされています。アート教育でもそうです。徹底的に「自分」というものを意識して確立させられます。むしろそれを出来ないと「存在」が認められない社会でもあるということです。難しいかもしれませんが、「自分の意見」=「個人」=最高のもの という公式が成り立つような社会だし、アートでもそうだということです。学生の場合の一番いい評価というのは、distinctionといって自分らしさが格別に優れている。技術は2の次。ということになります。大学院ではクオリティも減価償却を含めたマネージメント能力も評価されますが。
それで、そういった自分の言葉や意見のことを「自分の言語」という風にご指摘の文章では書いています。極端な場合、文章自体が作品のアートも認知されています。古い例だとオノ=ヨーコとか、最近だとフェリックス=ゴンザレス=トレースとか。

他の文章も少しは読んでいただけたようですが、
観客がアホだなんて思っていませんし、書いていません。
あなたが、自分が馬鹿にされているように感じたからですか?
観客が育たない社会だとは思いますが、言わんとすることも、むしろ逆です。
確かに、私はアカデミック寄りの思考をする傾向はありますが、
それが、そういうように受け取られたのかもしれません。
私も作家?ですし観客ですし、市民です。あなたと変わりません。
ぼくは1市民として作品を作っていますし、発言しています。

私の論文の大きなテーマは青臭いけどもアートの民主化でした。
卒論のタイトルは、「An Investigation of the most democratic form of art」
フルクサス、反芸術、ランドアート(ギャラリーから出たアート)、関係性の芸術
留学中に、「アートを楽しむ文化」むしろ生活習慣といってもいい、
ヨーロッパ的な社会におけるアートの存在感を身にしみました。日常にアートがある生活。
貧乏な人も、障害者も、お金持ちも楽しめるアート。
日本では、観客が本格的に楽しんで鑑賞出来ていないことを残念に感じます。
主に主催者側の問題ですが、防護柵とか学芸委員の態度とかメモ禁止とか。
アート=おしゃれ?みたいなのもおかしいです。もっと血とかうんことか汗の世界です。
あとは、作家側の問題としては、観客がアマチュアだからといって舐めた作品つくってるって事です。村上隆も、国内向けと海外向けで違う説明をしていてダブルスタンダードだと批判する人もいますが、それくらい、国内の批評家とギャラリストがクズだということです。
日本だと、芸大は技術しか教えないし、美術史だと歴史(近代中心)しか学べないし、日本では、よくわからない評論家が審査員として幅を利かせています。

私は作家としては、作品=モノから脱却して、考えてもらう作品、観客が作る作品を考えてきました。アーティストの作品のクオリティは、観客に合わせてつくってきました。
レベルの問題ではなく文化の違いを把握して、国にあわせて違うバージョンもつくります。
それは、観客が「自分」で理解してもらい楽しんで欲しいからです。
油絵も描くし彫刻もつくります。

ブログには、全文掲載できないので私の論文から抜粋して載せている文章もありますし。
おっしゃられるようにボヤキも多いですが、タグで分類しています。
私の分別としてその場合は「批評」として書いていません。
全文批評として書いているように受け取られそうなサブタイトルなので修正しましょうかね。

正直な話、体を壊したこともあって、今ぼくは日本に帰ってきましたが、
何をするべきか、何からするべきかと悩むだけで、行動出来ていません。
環境を整えることが、ほんとに難しくて。東京なら、まだ友人もいるのですが。
私の海外の日本人の友人もだれも日本へは帰ってきません。
日本に自分の居場所がないんです。そばに議論できる相手もいないんです。
そして批評家として生きて行くか、作家も平行してやっていくかも決められません。
情けない限りです。

ただ、観客を育てていかないと、アートは育ちません。
そのせいで、日本は遅れています。やっと日本はポストモダンくらいのレベルです。
必要ないからアートは育ってこなかったのかもしれません、
でもこれからは必要かもしれません。
戦後「具体」という先進的なグループもありましたが、作家が社会から目をそむけた「高尚」な作品つくって、観客は彼岸だったせいで50年遅れてしまった。
ぼくは、もっと「厳しい姿勢」でアートを見て欲しいのです。
作家としても議論されることは有意義なことですから。
海外で個展をすれば、意見を言ってきてくれる、議論をふっかけてくれる、
良いところを良い、「嫌い」と「はっきり」言ってくれる。それは次へのモチベーションにも繋がるし、それを含めてアートの可能性が日本でも開花すると思うのです。
意味不明な理解不明な作品のままにしないとか、

ぼくは、仕事を辞めて
20代後半から留学して基礎から学びました。
そして、コンテクストを読めるような作品の楽しさを感じました。
芸術って理解できるんだと知りました。
そして、作品と観客は議論も出来るし共感も出来る、対話ですかね。
まるで人間同士のような感覚で向き合えるのだと気づきました。
だから、不満なんです。柵の向こうにある作品も、威張った作品も、
床でごろごろできない美術館。公立の美術館って市民の為にあるのに高いですよね。
イギリスのTATE modern, britain は常設展は無料です。
でも、世界中から人が来ますし書籍の販売や寄付のおかで黒字経営しています(そういう国策なんですが)。
それに比べて、日本はみんなの税金でバブルの時代にばかみたいな値段で作品を買ったのに!
常設展でも有料で展示するのとか あーーー。企画展(エキシビジョン)も1200円くらいでしょ?高いよなあ。 書けば切が無いですが。
私は悲観的ですが、諦めてもいないですよ。
映画「アワーミュージック」のパンフレットのなかで、ジャンリュック=ゴダールに「映画で世界は変えれますか?」という質問で、
「それは聞いてはいけない質問です」とこたえる下りがあります。
同じように、アートで直接的に誰かを救うことが出来るのか、人の為にというなら医者にでもなったほうがいいんじゃないか、目の前で自殺する友人をどう救うことが出来るのかと、
どれだけ自分の作品が社会に貢献できるのか、等々。。
貧乏と引き換えに、自由を選んだ責任として、日々働いている方々(私も派遣社員だったこともあります)にとっても楽しめる作品ってないだろうか。だって、明日のご飯が食べれない人にとってどれだけの価値があるのかと思います。
僕にとってアーティストは、身近で隣の奇人さんであり一般市民です。偉いアーティストなんているんですか?ヨーゼフ=ボイスもおっさんですよ。Jeff Koonsもおっさんですよ。

今自分の思考が、地方交付税交付金で各地につくられた銅像を全部破壊しようかと(すげー嫌いなんですよ)、vandalizeですね。怒りがモチベーションになってしまう。森村泰昌の「美の教室」とかそういう発想しちゃうのがよく分かる。そういった方向にしか考えが向かないから困ったことです。あるいみ、一番アートを愛して日本を愛して、社会に向き合おうとすると、「怒った」作品になってしまう。かつての反芸術とかみたいにね、アートの「他の」いい可能性を生かした作品を作りたいんだけれども。

だらだらと書いてしまいましたが、短いものよりも長文歓迎ですのでどんどん書いてください。意見+理由(なぜなら~だからだ!)としっかり書いて、僕の理屈をコテンパンにしてよ。大学では、そうやって叩かれるんだよ、論文担当のクソ教授に日々叩かれる。それがイギリスの美術大学。論理的に批評されて議論する場だったから。ぼくにとっては、なんか言われることのほうが自然でやる気もわいてくるんだよな。どんどん意見をお送りください。日本で私がどうするべきかのアドバイスも歓迎です(ほんとに)。ほんとに困ってんだよな生活面では、絵のフレームつくるのに業者に頼むとか無理。自分でつくるにしろ、工具が高い!イギリスは画材は高いけど、油絵の具だけは安いグレードがあってプロも大きい絵には使ってるくらいだ。高くていい絵の具ってさ、金持ちの主婦ペインターしか使わないんじゃなかろうか。。
話がそれたけど、もし論理的に批評してくれるならうれしいので、そういうのはほんとうにうれしいですよ。僕の場合。だって技術はやってれば見につくけど、議論しないと考えはまとまらないものだからさ。けっこうながくなってしまったけれど


それでは取り急ぎ 失礼いたします

宮川和久


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おーい メアド送れないぞ!しかもスパム扱いでメール来たんだけど。。。
まあ、すぐに書いたのに返信できなかったので、モヤモヤします!
この方の論調を読み直すと、どうして意見を書くと「決め付けられた」と思うんですかね。
「意見」に絶対もくそもないじゃないすか、絶対の真理みたいのって文系の世界にはないんじゃないすかね。今正しいとされていることも、わかんないですよね。教科書に書いてあることは鵜呑みですか、そうですか。信号機が青だったら自動車が来ても渡るんですか?典型的な日本の島国根性ですね。個人の意見というのは、尊重すべきものです。個人は国の宝ですよ。ぼくも自分の意見と同じくらい他者の意見も尊重します。自分の意見を自分が大事にしなくてほかの人の意見なんて聞けないですよ。。。。 ほんと、成りすましとかで送らないでください自分の意見も大事にしてください。あと、メールでわざわざ送りたいくらい「言いたい!」って思ったのなら、そう思った理由をもっともっと書いてください。あなただって言いたいことがあるなら「作品」にしたらいい。この国では、アーティストじゃないと作品つくれないんですか? もし、出来ることがあるなら協力するし。
でも、こういった形で批判されても意味が無いじゃないですか。リアクションに対しては、ぼくも全身全霊で反応しますし、そうすべきだと思っています。もっともっとしゃべりたいです。卑怯なことしないでぶつかって来てください。
お願いします。少し独善的で悲観的な面はありますが、それは性格の問題なので、「批評」では客観性に気をつけたいと思っています。

こういう考え方をする不特定多数(Nさんは文句を言ってくれるだけマシ)を相手に行動を起こさなくてはいけないということなんですかね。僕みたいなのを、勝手にタイプ分けして「ああいう風に考えるやつだろう」と思ってケチをつけるというか。。。日本語って対象を想定しないと言語化できないからかな。で、「作家さん」なんだからと小ばかにしなががら、行動でしめせ!という正論を言って、僕がアートを貶めている!なんて言うけれど、ぼくのどこが貶めているというの?一方的に勘違いをしたあげく、理由も書かずに正しいっぽい一般論?というかただの文句を言って満足みたいな。まさか、みんなNさんみたいに思って読んでるのかな。でもNさんがほんとにアートの力を信じている?というならばすばらしいと思います。こういうケチだけつけてる模範的市民か?自分こそアートを駄目にしてるって側だって気づきませんか?君にだって出来ることがあるんだよ。おまえなんかに行動しろって言われる筋合いはない。人に行動で示せという前に、小さくてもいいからアートを「高める」行動を起こしてみろよ。頼むぜ。アーティスト作品をつくりっぱなしで、観客は受け入れる(or neglect)したままで「議論」したり「批評」しないままでは、この国のアート文化に成長がないと思っています。
自分が言葉で伝えきれてないのは認めます。すいません。もしNさんに機会があるなら海外行って見ろ、大学院留学とか語学留学とかよりもバックパッカーしてみろ、俺が書いてることよく分かるから。