2016年11月20日日曜日

不幸な時に作品が見れること

育児ノイローゼでわが子の首を絞めそうになっているおかあさんとか、要領のいい部下の代わりにリストラされたサラリーマンとか、いじめられて自殺しようと思って家出した子とか、人生からもう一歩踏み外しそうな寸前、典型的な不幸の例しか思い浮かばなくて申し訳ないが、アート作品とはそういう人との出会いを待っている。多くのアーティストたちがあんまり幸せとは言えない人生を送ったこともあり、ほとんどのアート作品は本質的に作家の不幸を背負っている。観客も勉強するべきだと、このブログでは言ってきたが、本人が不幸であれば知識も必要なく、ストーンと作品の「主題」が腑に落ちるはず。自分だけに特別に嵌まる作品があるはず。幸せな人は幸せな作家の作った作品でも楽しめばいいし、幸せなのに美術館に来てしまう人はどっか病気であると失礼ながら思う。太宰みたいなのの小説読んで、自分と同じ考え方の人がいるうれしいとか、自己犠牲の末に世界を救ってくれるような映画見て泣いてみるとかいうのと同じといえば同じだけど、アート作品というのは、もっと無計画で、瞬発的で、形にならないような不幸を拾ってきたようなところがある。シェルターのような物理的なインフラも必要だけど、精神的な受け皿としてアート作品のご利用をお待ちしております。TATEでやっているような夜間無料開放とか、日本でも増えてきた。すれ違いざまに人を救える可能性のある街中のアート作品も増えるべきだ。ただ、変な女の子の銅像は機能してないから街中にちょっとした展示スペースなんかもテコ入れが必要だと思う。妖怪とかアンパンマンは不幸な人を拾える性能は低いと思う。むしろイラッとしていたずらされているような気がする。必要としてる人が嵌まる作品を選ぶべき。話を戻そう。日本の美術館には幸せな人しか行ってはいけないような雰囲気がある。なぜあんなにクリーンで明るすぎはしないか、おじいちゃんおばあちゃんとカップルと子供連れしかいない。今にも自殺しそうな人は見たことがない。入館者数を増やすために必要なのは、大手の美術館で成功した有名人の企画展ではなくって、アートのニーズが本質的には不幸であるということを日本の主催者側が理解した上での場の雰囲気だと思う。一人で来る人は無料とか、主催者側も社会の情勢を見て雰囲気づくりをしていってほしいと思う。贅沢な話だし、当時は私はありがたみを全く感じていなかったが、大学の隣にTATE Britainがあったし、常設展示は無料なのでいつでもオフィーリアを見ることが出来た。昼が仕事で忙しくても金曜は夜間も開放されているから労働者も大歓迎である。僕は違うけど、オフィーリアを見たら「もっと生きれる」という人もいるわけだから。オープンであることのメリットは計り知れない。