2009年7月21日火曜日

Artは学問≠技術

日本ではアートは学問だとは思われてない。美術で学問といったら、美術史っぽい気がするけど、美術史は歴史学の一分野であり、ぼくが学んだアートとは本質が違う。
ヨーロッパではずーっと学問だったのに、鎖国を解いてFine Art(ファインアート)が美術と翻訳されて以来の失態だ。殖産興業のなかで、模倣すべき進歩した科学技術のようなものの一つとして西洋美術は翻訳され導入されてしまったのだ。ファインアートにおける哲学の重要性は日本人の美術関係者の間で認識されていたが、「大人」を短期間留学させたところで本格的な哲学を理解できるわけが無かった(言語の問題もあるだろう、言葉なくして哲学をどう理解するのだ)。

アカデミックなアート、ファインアートはれっきとした学問だ。勉学だ。知性だ。教養だ。実学ではない。ファインアートを教えているヨーロッパの大学では技術的な授業はない。作って発表したり議論する。自分で美学、哲学をセルフスタディして、論文担当の博士と議論しながら論文を書く。それだけだ。討論はするがグループワークはしない。人手が必要で助けてもらったりクオリティをあげる為にプロを雇ったりはするが、作品のすべてを指揮するのは自分だ。ファインアートの場合は技術を身につけるために大学に行くのではないのである。実質は、自分の興味のある科目を選び知識を増やし論文を書くといったら、通常の文系学部に近いだろう。哲学、文学、文化人類学、社会学は兄弟姉妹ようなもので、それに比べたらデザインやクラフト(工芸)は従兄弟か異母兄弟。従兄弟って見た目は似てるけど、素養は自分と違うっしょ。(デザイナーが哲学的にアプローチしたならば、それはアートに近い。それでもイコールではない)

技術=アートじゃなくってコンテクスト=アート。
かつて、Arthur C Dantoがアンディ=ウォーホールの作品を批評して、「作品(作家ではなく)が持つバックグラウンドやコンテクストがアート」だと言いました。つまり視覚性よりも、目の前の作品の「存在」について観客は考えるようになり、技術は作品を「見える」ようにするための手段となった。

だから、投入された超絶技巧がその作品のコンテクストを超えることはむなしい。
中身の不在な作品の技巧は虚飾であり、理由無き表現や技はまやかしだ。

当たり前だが、コンテクストを読めなくては現代アートは楽しめない。
ぱっと見た目だけで楽しめるものは少ない。極端なフェミニストの女性作家達は男性に居心地の悪い作品をつくっている。最先端のアートは多くがガラクタでありアンモニュメンタルで物質化されていない。観客にとっては「体験」が作品ということになっているからだ。スクラップを前に何だろうと考えることからそれらの鑑賞は始まる。

日本で「受ける」作家と海外で「受ける」作家の違いは、日本人はコンテクストを読めない、もしくは読む習慣がないので、視覚的な快楽や「作家の肩書き」が重視される(権威を見せつけて視覚的に客を騙せばいい)。専門用語やポエティックな言い回しでごまかすことがアートっぽいと思われている。観客から突っ込みも浅い。

海外では、コンテクストを楽しむことが当然なので、作品は表層から離れて「本質的」な存在として用意される(哲学的に観客を騙せばいい、知的ゲーム)。突っ込まれることを想定した論理的コンセプトが必要。仮定した推論したことを作品のなかで実証として見せる。なのでプロセスも重視される。

コンテクストの在り方の話を進めると、作品それ自体も視覚的な「言語」といえる、、
一般的に「言いたいことを自由に言う」手段として、アートは日本でも広く認知されていると思う。しかし、言いたいことの次元は個人的という点で限りなく崇高でなくてはならないし、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。それはコンテクストを観客に伝えるために、虚飾を排した純粋な表現が必要だからだ。だからといって厳格なミニマリストへなるよりは、DIY的で暖かな表現こそ現代の「崇高」だと私は考えるのだが。

りんご一個の作品が持てるコンテクストの量には限界があるけれど、そのりんごから個人へ伝わることに限界はない。欧米のアーティストはよくしゃべるが、作品で全部言うことはできないことを知っている。いいたいことがいっぱいあるのに考えに考えて、選びに選んだ表現の一端が作品だ。だからこそ観客に考えさせること本一冊分の価値があるし、表層を超えて作品を理解できたとき、脳に戦慄が走ったときに初めて感動したり、本当に腹が立ったりする。作品が分かったとき、ホワイトキューブも野外も関係なくなって、アーティストと観客は超現実世界で対峙することが出来る、それが本格的なアートの楽しみだ。

もし、作り手も観客もアートの「アカデミック」な面を無視しているのならコンテクストの愉しみに触れることはできないだろう。学問だから、学ばなくてはならないが。。。。