行ってもいないのに批評することは、ご批判を受けることと覚悟していますが、
このExhibitionの開催当時、東京にいなかったので行けませんでした。
ARTiTでの山本基へのインタービューや写真を見て思うことが多々あったので、
整理しつつ批評してみようと思います。
http://www.art-it.asia/u/admin_news/3sJeF7ElvRXAf0xtuVC9
(山本氏へのインタビュー動画なくなっちゃった。。。)
今回の「MOTアニュアル2010:装飾」展(2月6日(土)~4月11日(日))
「装飾」という造形形式を、時代の美意識を越えて個人の精神性を反映するものであるとして作家を幅広く集め、「装飾」された空間や作品によるexhibitionのようです。
作家それぞれが装飾的な作品によって表現していることは多種多様であるが、全体として社会を反映しているのではないか?ということなんでしょう。私も装飾とか文様はある種の世俗を反映しているのは確かだと思います。例えば、マティスなんて、当時のテキスタイルを正確に絵に描いているので彼の絵には資料的な価値もありますよね。ま、ここは今回はこれ以上はこのExhibitionのテーマには突っ込みません(見てないし)。
ただ、メディアとか表現手法の類似性で作品を括るのは止めて欲しいとは思う。個人的には、「装飾というのは飾りであって本体ではない」という点で、装飾それ自体にも「意味」があるのだとしたらどう読み解くべきか、そして装飾を施された実体の持つ意味はどれぐらい社会を反映する「のりしろ」として機能してきたのか、当時の「のりしろ」の実体と比較検討してみたらよっぽどテーマに沿った内容になるのではないかと思っている。そりゃ博物館の出番かなあ。。。。
山本基は、塩を用いて、死をテーマにインスタレーションを行っている作家です。今回は、「迷宮」というタイトルで、塩200kgを使ってホールの床に日本の伝統的な波模様か枯山水の庭園を彷彿とさせるような広大な塩の迷宮が広がり、川(本人談)のような装飾されていない貫入がところどころに入っていて、単純な紋様としては見てほしくないようであるが、イスラム教の都市の上から見下ろしたような複雑性と規則性に連続が見られる。一見すると、白の純白と床の木材とのシンプルなハーモニーであるがゆえにどういった意味があるのかと深読みすることを要求されているようで、コンセプチャルアート的な体裁ではある。
紋様の賑やか以外は、禁欲的な感じだ。それは、混みいった人生の「道」のようにも見える。
私は、この作品のキーワードである「死」、「持ち帰る(消失)」について似たキーワードの作品で知られるFélix González-Torresの作品と比較してみようと思う。
トレースと山本に共通するのは、commodity(商品価値)の無い作品を作り、インスタレーションで場をつくる作家であるという点である。そして特別な材料とスキルは使っていない。
しかし、トレースの作品における「死」には、彼のゲイとしてのアイデンティティや死に至る病=HIV、ボーフレンドの死の悲しみが色濃く表れている。観客はゲイでなくとも悲しみを追体験させられる。
「死」というテーマ
死というテーマの壮大さ、
ぼくは、死というテーマに懐疑的だ。
すべての人にとって「死」はテーマとなりえるからだ。
轢死とか水死とか憤死とか感電死とかにジャンルに拘るのなら別だけど。
すべての人間にとって、どう生きるか、そしてどう死ぬかは人生のテーマじゃないか。親も死ねば、友も死ねば、恋人も死ぬだろう。死は身近であり究極であり普遍的すぎるのでわざわざテーマにしてもらわなくても「意識」していることだ。
原始人も未来人も死を前に去来する思いは変わらないだろうと思う。
YBAのダミアン=ハーストの作品に流れる「死」の軽さ、軽快さ、がファッション的に見えてしまうのは、彼本人に何のイデオロギーも無い一流のコンセプチャリストだからだと思う。薬棚も、解剖台もダイアの髑髏も、鮫も、牛も(クーンズの作品の置き換えだし)。死の仮面を被った、「死」とは対極の存在とも言えるかもしれない。
死というのは、宗教観や死生観を反映したものなので、多様であいまいで絶対的。
しかし、個人的経験ほど、記憶を呼び覚まされて共感させられるものはないだろう。
ハーストが表現する死は、生物としての「死」であり、ちっぽけな「生」を意識させられる。
トレースの表現する死は、個人の悲しみが宇宙よりも広くて深いことを感じさせる。
いずれにしろ、山本の作品の「死」に対して、距離の取り方が私にはわからない。
最終日(終了後)に、生演奏を奏でつつ、作品を撤去するそうだ。。。。
塩を持ち帰りたいかどうか。BGMは葬送曲なのか、運動会のマーチなのか、おしゃれアンビエントなのか、ノイズなのか、意図的に行う以上は、この作業も作品の一部なのだろうか。
会期中にやらないと作品の一部にはならんぜよ!と思う。
いわゆる「消失する作品」というのは、
ランドアートの重要なテーマのひとつで、
人間がつくったものが自然の風化作用で形が無くなってゆくことで
時間的スケールや都市と自然の関わり、さらに生と死を意識させられる形態である。
近年の参加型アートの隆盛によって、持ち帰られ人工的に消失するインスタレーションが
ランドアートの進化した形であると私は思っている。
インスタレーションにどう観客を参加させるか
経験させることの重要性が認知され、世界の展示スペースは遊園地化している。
参加型アートの理論を進めるならば、究極的なインタラクティブアートは遊びの場や遊具などの社会の原初的風景ともいうべき場所(site)に降り立つのだ。この話は、私の研究テーマのひとつなので違う記事で書こうと思う。
こうしたアートは、観客との距離を短くするために超絶技巧は使わず、日常にある材料でDIY(Do it yourself)になる。そうすることでcommodityを無くし、unmonumental(非記念碑的?)になる。その空間が体験者にとって創造の場としての意味を持つように。
いかに自然に観客を作品へ取り込むかが参加型アートの必要条件になる。
これは、必ずしも「平和的」な空間の構築を目指している訳ではない。Santiago Sierraのように、嫌悪感をもたらす作品でも構わない。
さて、今回の参加のさせ方としての「持ち帰る」ことについて考えなくてはいけない。
「持ち帰る」ことで消失する作品
海に返すことは自然葬を思い起こさせるが、
海に塩を振るなんて、塩鮭に塩を振るみたいでなんかロマンチックじゃない。
塩=死だと思うのは日本人だけかもしれない。イギリス人にとっては床に蒔かれた塩は融雪剤だ。観客それぞれの文化的な背景をどれだけ意識してつくられたのか分からない。
日本人の死とは静寂なのか。外人アーティストにとっての死はもっと派手でグロテスクなものだ、一部の禅かぶれのアーティスト以外には。
トレースの作品と同じように、「パーソナルな体験の共有」が狙いならば、持ち帰りたくなるようなマテリアルであることと、その「持ち帰る」行為が自然であればあるほど、エスカレーターのように自然に参加させられることによって、より参加型のアートとして、追体験型の作品として輝くはずだ。塩を持ち帰りたい人というのは、常識的に考えれば?今晩の台所で使う人だろう。お塩借りるわよ!ってな具合に。もしくは球児にとっての「甲子園の土」のように思い出の遺品「おみあげ」としてだろう。
いかに自然に観客を巻き込むかという点において、トレースの作品は観客は積極的に持ち帰る。キャンディを持ち帰るのは自然な行為だ。その辺で、トレースの作品は参加型アートのあり方として先駆的だった。
山本氏の作品の「制作過程」を知る事で、作品の意味が変って来る。良い意味で。
もくもくと、座り込んで塩で描く延々としたプロセスにこそ迫力がある。
つまり、パフォーマンス的な要素が働いているということだ。
しかし、作品の持てるコンテクストには限界がある。
いろんな要素に手をださずに、パフォーマンスを上手にみせるべきだと思う。
普遍的な作品として徹底することの難しさ、作家性とどう両立するのか。
あたらしいアートの要素とテクノロジーをどう扱うか。
バランス感覚とセンスがアーティストにも求められている。
主に私が書いたアートに関する「批評」を掲載します。また、コンテンポラリーアートを理解する上で必要なアート理論(ART THEORY)や書籍の紹介をします。現代アートは難しいものではありません。今日から君もアーティスト
2010年10月1日金曜日
2009年9月19日土曜日
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.5 大巻伸嗣 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。
蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。
蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.4 蜷川実花 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.4として蜷川実花の今回の展示について。
写真を周囲の壁に配置。センターにある「部屋」の床にちらばる(没)スライドフィルムを貼付けられたアクリルの断片。全体としてそれっぽい感じにしてあるが、関連も薄いし。空間を頂いたのでなんとか埋めた感があります。アートとしてのコンテクストは解読不能でした。花がいっぱいです。Carl Zweissレンズの発色とかVIVID系のフィルムが好きな人って、ヒョウ柄が似合う気がした。
但し、世界でもこの世代の女性作家(ヴァーホーベンとか)は、「毒」のある作品をつくる傾向がある。それらをグロテスクや「おぞましいもの」などとアート界では言われている。観客をやや不快にすることによって、きれいでうつくしい「女性」という殻から脱却を計るフェミニズム的な抵抗がそこにはあると私は理解している。蜷川氏の色彩感覚は男性を寄せ付けない強さがある。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.4として蜷川実花の今回の展示について。
写真を周囲の壁に配置。センターにある「部屋」の床にちらばる(没)スライドフィルムを貼付けられたアクリルの断片。全体としてそれっぽい感じにしてあるが、関連も薄いし。空間を頂いたのでなんとか埋めた感があります。アートとしてのコンテクストは解読不能でした。花がいっぱいです。Carl Zweissレンズの発色とかVIVID系のフィルムが好きな人って、ヒョウ柄が似合う気がした。
但し、世界でもこの世代の女性作家(ヴァーホーベンとか)は、「毒」のある作品をつくる傾向がある。それらをグロテスクや「おぞましいもの」などとアート界では言われている。観客をやや不快にすることによって、きれいでうつくしい「女性」という殻から脱却を計るフェミニズム的な抵抗がそこにはあると私は理解している。蜷川氏の色彩感覚は男性を寄せ付けない強さがある。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.3 名知聡子 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.3として名知聡子の今回の展示について。
巨大な女性のポートレイトに花が描いてありました。エアブラシで彩色してあってレースが貼付けてあります。コンテクストは読めませんが奇麗でした。
ミュシャの絵かタロットカードみたいなタッチのシリーズはスタイルが違うので一緒に展示しない方が良かったと思います。はい次
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.3として名知聡子の今回の展示について。
巨大な女性のポートレイトに花が描いてありました。エアブラシで彩色してあってレースが貼付けてあります。コンテクストは読めませんが奇麗でした。
ミュシャの絵かタロットカードみたいなタッチのシリーズはスタイルが違うので一緒に展示しない方が良かったと思います。はい次
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.2 石元泰博 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.2として。モネのペィンティングと、石元康博撮影のモネ晩年の「睡蓮」の写真について。
入ってすぐのコーナにモネの若いころの風景画が飾られています。隣の小空間にモネの中くらいの「睡蓮」と、「風景画」が展示されています。地方の美術館がこれだけのモネを揃えるのは奇跡だそうです。緑の風景だけではなく、崖の絵もあったりして。。。せっかくの企画展のなのに、企画側の苦労が見えるようで悲しいし、選ばずに展示したようで下品なので、展示は緑の風景画と睡蓮に絞るべきだったのではないでしょうか。名知聡子のスペースでも感じたことですが、数が多ければいい訳ではありません。
さて、モネの油絵の展示の次は、石本泰博の撮影によるモネ晩年の睡蓮のカラー写真である。石元泰博の名前は、企画展のタイトルには無いことで他の作家との差別化は図られてはいるが、展示の扱いは同格以上であるので私としては批評させていただくことにした。3点一組縦2メートル、幅12メートルの巨大な写真は、ニューヨーク近代美術館が所蔵する睡蓮の原寸大の大きさで、国立国際美術館が1980年に「教育展示」目的で撮影を依頼したものだそうだ。そして残りの壁3面に、クローズアップされた細部の写真が配置されてる。モネの筆遣いと、色の重なり具合がまるで抽象絵画のように見える。
展示の表向きの意図としては、本物のモネの睡蓮を見たことがない方に、実物の大きさ感じてもらい。クローズアップされたディティールを見ることで、睡蓮の配置や配色から現代アートにも通じるような構成の美を見てほしいということだろう。また、モネの作品数を補い、今回の企画の導入として、モネの本物から、現代アートへの繋がりを見せるという狙いであろうか。次の名知聡子の作品との100年近い差、つまり「美術の死」以前の作品と、現代アートとの断絶を嫌味に見せているように見えないこともない。
残念な点としては、
長い間議論されていて、今日も多くの画家にとっての命題である「絵画と写真の違い」の説明責任は、作品の中にもキュレーションにおいても言及されていない。もともと石本の写真は教育展示用の「資料」なのであって、アート作品ではないのだとしてもだ。実寸大の代替品としていうこと以外の展示理由が不明瞭だ。確かに石元の名はこの企画展のタイトルから除外されている。それならば、作品として同格の扱いをしてはいけないのではないか。今回、展示スペースは区切られてはいるが、ほかの現代作家の作品と同等に並べたのは不味かったように思う。写真の「睡蓮」は地方の一美術館にとしてはは苦肉の策か、親切心の出来心だったかもしれないが。
自分にとってのモネとは、
上京してすぐに、国立西洋美術館で「睡蓮」に感動して、半日ずーっと眺めていたことがある。なぜなら、自分が子供の時にずっとあこがれていた「本物」の絵画だったからだ。自分が絵画を楽しんで描いている時に「本物」を見たかった。後にも先にも、このときほど東京の人が羨ましかったことはない。
そして、「睡蓮」は留学先のロンドンのTATEにもあるし、ほんとに世界の美術館はモネの巨大な睡蓮だらけである。モナリザは一点しかないが、睡蓮はたくさんある。睡蓮は、熊本では国宝級の扱いかもしれないが、大量生産絵画なのだ。画家は、同じような作品を同時に描くものだ。ゴッホのヒマワリですら7点あったらしい(6点現存)。自分でも油絵を描けば、あらためてセザンヌに学ぶことはたくさんあるがモネには無い。
ただし、本物に触れる機会は必要だとは思うし、自分が好きな作家ではなくとも、かつてモネの本物に感動したことは忘れない。この写真によるプアマンズモネは(他の作品との同格の扱いから見ても)代替品になってしまっているので、モネの睡蓮との「違い」を自己主張をして欲しかったし、キュレーション側にはもっと明確に展示意図を作り出してほしかったように思う。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.2として。モネのペィンティングと、石元康博撮影のモネ晩年の「睡蓮」の写真について。
入ってすぐのコーナにモネの若いころの風景画が飾られています。隣の小空間にモネの中くらいの「睡蓮」と、「風景画」が展示されています。地方の美術館がこれだけのモネを揃えるのは奇跡だそうです。緑の風景だけではなく、崖の絵もあったりして。。。せっかくの企画展のなのに、企画側の苦労が見えるようで悲しいし、選ばずに展示したようで下品なので、展示は緑の風景画と睡蓮に絞るべきだったのではないでしょうか。名知聡子のスペースでも感じたことですが、数が多ければいい訳ではありません。
さて、モネの油絵の展示の次は、石本泰博の撮影によるモネ晩年の睡蓮のカラー写真である。石元泰博の名前は、企画展のタイトルには無いことで他の作家との差別化は図られてはいるが、展示の扱いは同格以上であるので私としては批評させていただくことにした。3点一組縦2メートル、幅12メートルの巨大な写真は、ニューヨーク近代美術館が所蔵する睡蓮の原寸大の大きさで、国立国際美術館が1980年に「教育展示」目的で撮影を依頼したものだそうだ。そして残りの壁3面に、クローズアップされた細部の写真が配置されてる。モネの筆遣いと、色の重なり具合がまるで抽象絵画のように見える。
展示の表向きの意図としては、本物のモネの睡蓮を見たことがない方に、実物の大きさ感じてもらい。クローズアップされたディティールを見ることで、睡蓮の配置や配色から現代アートにも通じるような構成の美を見てほしいということだろう。また、モネの作品数を補い、今回の企画の導入として、モネの本物から、現代アートへの繋がりを見せるという狙いであろうか。次の名知聡子の作品との100年近い差、つまり「美術の死」以前の作品と、現代アートとの断絶を嫌味に見せているように見えないこともない。
残念な点としては、
長い間議論されていて、今日も多くの画家にとっての命題である「絵画と写真の違い」の説明責任は、作品の中にもキュレーションにおいても言及されていない。もともと石本の写真は教育展示用の「資料」なのであって、アート作品ではないのだとしてもだ。実寸大の代替品としていうこと以外の展示理由が不明瞭だ。確かに石元の名はこの企画展のタイトルから除外されている。それならば、作品として同格の扱いをしてはいけないのではないか。今回、展示スペースは区切られてはいるが、ほかの現代作家の作品と同等に並べたのは不味かったように思う。写真の「睡蓮」は地方の一美術館にとしてはは苦肉の策か、親切心の出来心だったかもしれないが。
自分にとってのモネとは、
上京してすぐに、国立西洋美術館で「睡蓮」に感動して、半日ずーっと眺めていたことがある。なぜなら、自分が子供の時にずっとあこがれていた「本物」の絵画だったからだ。自分が絵画を楽しんで描いている時に「本物」を見たかった。後にも先にも、このときほど東京の人が羨ましかったことはない。
そして、「睡蓮」は留学先のロンドンのTATEにもあるし、ほんとに世界の美術館はモネの巨大な睡蓮だらけである。モナリザは一点しかないが、睡蓮はたくさんある。睡蓮は、熊本では国宝級の扱いかもしれないが、大量生産絵画なのだ。画家は、同じような作品を同時に描くものだ。ゴッホのヒマワリですら7点あったらしい(6点現存)。自分でも油絵を描けば、あらためてセザンヌに学ぶことはたくさんあるがモネには無い。
ただし、本物に触れる機会は必要だとは思うし、自分が好きな作家ではなくとも、かつてモネの本物に感動したことは忘れない。この写真によるプアマンズモネは(他の作品との同格の扱いから見ても)代替品になってしまっているので、モネの睡蓮との「違い」を自己主張をして欲しかったし、キュレーション側にはもっと明確に展示意図を作り出してほしかったように思う。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
2009年9月18日金曜日
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち 大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 - vol.1 展評 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
最初に、vol.1として、この企画展の総評から書こうと思います。
展覧会の主旨は、「モネと同時に現代美術を展示することで、現代美術が実は歴史と結びついていて刺激的で美しく、親しみやすいものであることを示し、さらに若い日本の作家と組み合わせることにより、モネの世界にも現代的な光を当て、新たな視点でみることを試みています。(フライヤーより抜粋)」とあるように、熊本という地方都市で、現代アートを楽しんでもらうために、「花」で知られる作家の中でも、よく知られた巨匠画家モネを手始めに、若手アーティストを紹介してアートを身近に感じてもらおうということのようです。
まず問題は「花・風景」というテーマです。花というのは固有名詞であり、文節の中に置かない限り意味も主張もありません。また、「風景」というのはアートでは大きなくくりでの主題であり、絵画の形式でもあります。つまり、この企画展は視覚的な「花」「風景」に重点を置いていて、花や風景の物性で繋がっただけでコンテクスト上の繋がりはないということです。現代アートをコンテクスト無しで楽しませることは、アートを身近に感じてもらうという意図をいくら尊重したとしても、軽視して良い問題ではありません。現代アートからコンテクストを取れば、話題性やファッション性以外には何も残らないと言っても過言ではありません。
モネの印象派絵画から、心象風景としての置き換えがなされています。。。。
なぜならば、アートを身近に感じるというのは、コンテクストの読み解き方を「教える」ことによって、現代アートを楽しんだり考えるきかけとすることが出来るようになるのです。コンテクストを見る習慣の無い日本での、企画展の良し悪しは「いかに現代アート普及させていくか」へどのようにアプローチしたか、達成できたかどうかにかかっているということです。
また、このおおざっぱな企画展の目的である、「新旧同時展示」を田舎で展示するためには、歴史も専門知識も必要しない視覚的快楽のある「美しい」アートを見せる必要があった。そのために「花」という括りが必要だということになったのでしょう、きっと。一見、野心的で熊本のレベルに合わせた安心できる企画のようですが、「アートの視覚性」という技術論以外では語るすべも無い甘皮へ執着してしまった点で、「アートを身近へと感じてもらう」という意義が灰燼に帰してしまったといえます。厳しいようですが、アートの歴史上も教育上でも価値のある企画ではないということです。企画展でコンテクストを考えるきっかけとしては、07年の森村泰昌の企画展「美の教室」での革新性が際立ってくるのではないのでしょうか。
次に、どうしてもモネを選んだ必然が見えてこなかった点。確かに、モネの風景画と水蓮には、「花」と「風景」があった。この企画展の英題は「Flowers and Landscape」なので、Inscape(内景)ではないのだろう。(名知の絵はInscapeだったけども。)だからといって、大巻のインスタレーションの色使いが阿蘇の自然からインスピレーションされているとしても、大巻のフィルターを通した主観的風景であって風景(Landscape)ではない。蜷川の写真は静物画に近い。彼女のインスタレーションもInscapeだ。あくまでモネは、風景画家である。招聘されたアーティストの作品はコンテクストでもモネと繋がっていない。3人の現代作家は、風景を再構成する目的のために作品を作っているわけではないからだ。モネの水面に写っているのは、庭に生える柳であって世界ではない。写っていたとしても、1900年初頭の風景である。それに比べたらセザンヌやマティスの絵画には、今見ても革新的な要素がある。それは、彼らが当時の伝統的な絵画の形式のなかで多様な挑戦を行っていたからだ。それに比べたらモネの革新は、心象的でドラマティックな風景を一見抽象絵画のように見えるようなコンポジションで表現したことにつきるが、抽象絵画ではない。知名度の点でモネを越える画家はいないかもしれないが、「花」というテーマにモネの水蓮は適さない。私は、「花」を意識してモネを見たことは無いし、見たとしても「風景」としてだった。「花」で考えるならば、ゴッホのひまわりは借りれないのかもしれないが、静物画で「花」へ挑んだ画家を選んだほうが、まとまりがあったのではないだろうか。また、名知の作品のレースようなディテールは、テキスタイルを多用したマティスの絵画を横に置くことによって、絵画の歴史の連続性を見せることが出来たかもしれない。
しかし、「花」や「風景」というテーマでもコンテクストを考えるようなキュレーションも出来るはずだ。「花」には、元来、人を魅了する美しさや香りがあり、あるときは妖艶でまたあるときは純粋な女性性の象徴でもある。ところが、今回のCAMKの展示室というホワイトキューブには、まったくの艶やかさもなく作品以外には「花」が無いというのはいかがなものか。全体の印象として静かで、地味に感じられた方が多かったのではないだろうか。今回、場所を使い切っていたのは、さすがはインスタのプロの大巻伸嗣でした。(他の作品:ペインティングは、絵画として使ってインスタレーションしないほうが良いですが。アート的には)。
そこで、「地味、つまんないぜ!」の改善策としては、もっと多くの作家を選んで、それぞれが今回ベストな1点ずつを持ち寄ることと、展示はランダムで動的な配置にしてリズムをつくることが必要。(理路整然とした花園なんて、畑だよ畑!つまんないよ!)。 作品ではなく作家で選んでしまったことで、企画展なのに、それぞれの作家が見せたいものを見せてしまった自分勝手なグループ展みたいになってしまったのではないだろうか。
プロジェクト型アーティストの、ぼくに企画が来ていれば、美術館の外に「巨大な花輪」をエスカレーターからエントランスまで並べていたと思います。パチンコ屋の新装オープンか?というぐらい派手に下品だけど、「デカイ花輪」にすることによって作品としての異質感をかもし出す。吸い寄せられた一般人に見るきっかけを与えて「アートを身近に感じる」ように。
一般人ホイホイ企画なのに、求心力が不足してはいけないと思うのです。
花や風景は、美しいだけじゃない。そういう驚きというインパクトが感動へと連なるし、コンテクストを読み解いたときの感動も味わえるような企画展にしてほしい。
p.s 展示室に入ってすぐに、ボールペンは禁止です鉛筆を使ってくださいといわれ、次の部屋でガム禁止です。吐き出してくださいと続けざまにいわれてだいぶテンションが下がりました。ガムはよくないけど、ペンぐらいいいんじゃないかな。イギリスなんて美術館の床ではガキがごろごろクレヨンもって書きなぐってるけどなあ。ガラスケースも柵もないし、作品より観客が主体なんだよ先進国は!「よりアートを身近にしたい」とかいっておいて、作品を触れられないようにして「崇める」姿勢はイカンよ。東ドイツのライプチヒも似た感じだったなあ。友達が走ったら監視員が走って追っかけてきたもんな。つまり、そういうの田舎ってことだから。作家にとってみたら作品ってさ、壊れたらまた作れるしへっちゃらなんだよー。いかに観客と作品の間に壁をつくらない展示を出来るかで、「本物」に触れられることへの意義が生まれるのです。観客との距離を注視しているアーティストは、故意にクオリティを下げたり、身近な材料からDIY的な普通の技術で作品を作るのです。近づけない「高尚さ」と、身近な「社会性」の葛藤自体は、アーティストだけではなく、アートを支える側にとっての課題でした。しかし、崇めないと自立できない作品の時代は終わりました。現代美術館を標榜するならば、主催者側が守るべきは作品の骨董的価値では無く、観客が「楽しむ」権利なのです。
p.s ここは、批評天国のイギリスではありませんから、ぼくの批評を「文句」とか「批判」だと感じられる方がおられたり気分を害されるかもしれませんが、あくまで「批評」ですのでご理解を頂きたい。「批評」なくしてアート無し、前進なしですから。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
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