2009年9月19日土曜日

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち  - vol.2 石元泰博 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.2として。モネのペィンティングと、石元康博撮影のモネ晩年の「睡蓮」の写真について。

入ってすぐのコーナにモネの若いころの風景画が飾られています。隣の小空間にモネの中くらいの「睡蓮」と、「風景画」が展示されています。地方の美術館がこれだけのモネを揃えるのは奇跡だそうです。緑の風景だけではなく、崖の絵もあったりして。。。せっかくの企画展のなのに、企画側の苦労が見えるようで悲しいし、選ばずに展示したようで下品なので、展示は緑の風景画と睡蓮に絞るべきだったのではないでしょうか。名知聡子のスペースでも感じたことですが、数が多ければいい訳ではありません。

さて、モネの油絵の展示の次は、石本泰博の撮影によるモネ晩年の睡蓮のカラー写真である。石元泰博の名前は、企画展のタイトルには無いことで他の作家との差別化は図られてはいるが、展示の扱いは同格以上であるので私としては批評させていただくことにした。3点一組縦2メートル、幅12メートルの巨大な写真は、ニューヨーク近代美術館が所蔵する睡蓮の原寸大の大きさで、国立国際美術館が1980年に「教育展示」目的で撮影を依頼したものだそうだ。そして残りの壁3面に、クローズアップされた細部の写真が配置されてる。モネの筆遣いと、色の重なり具合がまるで抽象絵画のように見える。

展示の表向きの意図としては、本物のモネの睡蓮を見たことがない方に、実物の大きさ感じてもらい。クローズアップされたディティールを見ることで、睡蓮の配置や配色から現代アートにも通じるような構成の美を見てほしいということだろう。また、モネの作品数を補い、今回の企画の導入として、モネの本物から、現代アートへの繋がりを見せるという狙いであろうか。次の名知聡子の作品との100年近い差、つまり「美術の死」以前の作品と、現代アートとの断絶を嫌味に見せているように見えないこともない。

残念な点としては、
長い間議論されていて、今日も多くの画家にとっての命題である「絵画と写真の違い」の説明責任は、作品の中にもキュレーションにおいても言及されていない。もともと石本の写真は教育展示用の「資料」なのであって、アート作品ではないのだとしてもだ。実寸大の代替品としていうこと以外の展示理由が不明瞭だ。確かに石元の名はこの企画展のタイトルから除外されている。それならば、作品として同格の扱いをしてはいけないのではないか。今回、展示スペースは区切られてはいるが、ほかの現代作家の作品と同等に並べたのは不味かったように思う。写真の「睡蓮」は地方の一美術館にとしてはは苦肉の策か、親切心の出来心だったかもしれないが。

自分にとってのモネとは、
上京してすぐに、国立西洋美術館で「睡蓮」に感動して、半日ずーっと眺めていたことがある。なぜなら、自分が子供の時にずっとあこがれていた「本物」の絵画だったからだ。自分が絵画を楽しんで描いている時に「本物」を見たかった。後にも先にも、このときほど東京の人が羨ましかったことはない。
そして、「睡蓮」は留学先のロンドンのTATEにもあるし、ほんとに世界の美術館はモネの巨大な睡蓮だらけである。モナリザは一点しかないが、睡蓮はたくさんある。睡蓮は、熊本では国宝級の扱いかもしれないが、大量生産絵画なのだ。画家は、同じような作品を同時に描くものだ。ゴッホのヒマワリですら7点あったらしい(6点現存)。自分でも油絵を描けば、あらためてセザンヌに学ぶことはたくさんあるがモネには無い。

ただし、本物に触れる機会は必要だとは思うし、自分が好きな作家ではなくとも、かつてモネの本物に感動したことは忘れない。この写真によるプアマンズモネは(他の作品との同格の扱いから見ても)代替品になってしまっているので、モネの睡蓮との「違い」を自己主張をして欲しかったし、キュレーション側にはもっと明確に展示意図を作り出してほしかったように思う。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣