2009年9月15日火曜日

言葉にならない

記号論では、記号化(言語化)されていないものは存在しないし、認識できないとされている。大雑把に言って、作品がなにかしらを視覚化した、もしくは何かしらを観客に引き起こす作用があるということは、作品そのものが「記号」のようなものであるといっても差し支えないだろう。つまりアート制作とは、非言語的な存在を視覚化するための新しい記号をつくる作業なのではないだろうか。安易にすべての作品が記号と決め付けているのではなく、アート作品が記号だという仮定で、制作における言語の機能について考えたい。

「言葉にはならないことを表現するのはアート」。
「私は口で説明したくないからアート作品を作っている」。
という人の多くが、言葉でまったく説明しない。気がする。

そこに見え隠れするのは、「言葉に出来ないことを作品として視覚化した」→「作品が表現したことは言葉では言い表せない」。という短絡的なロジックだ。どうせ、言語化できない、どうせ、作品の意味は観客が考えることだと。しかし、ここで議論をせずに「結論」を急ぎすぎてはアートは永遠に見えないなにかになってしまう。

日本的な議論のなかには、こうした極端に結論を求めるような公式が氾濫している。
結局、「それって何とかだよね」と、話を終わらせようとする。
しかしながらアートに終わりはないし、そんなに適当な結論であってはならない。
永遠の苦悩だし、悶絶だし葛藤だし、有機的で流動する生命の水のようなものであり、
絶対的でもないし感想まで一緒に想定され製品化された、物質ではない。

口で説明するのは無駄なことのようにおざなりになって、
言語的で論理的な思考は停止して、作品は非言語的て不確定な領域に飛んでいってしまう。
極めて批評が難しい領域だ。
口下手の言い訳として、この論理は使われる。
言葉では説明できないアーティストはプレゼンが下手だ。自分が何をつくったのか分かっていないからプレゼンできないのだ。

どうせ死ぬから今死んでも同じだなどと思って生きているのではない。
そこに何が再現されたのか、虚飾なのか実体なのか、ディティールによって具体されたことは何なのか。「何なのか」と疑問に思うことは、「新しい記号」を解読する作業であり、本質的な意味での「アートの鑑賞」だといえると思う。

アートは言葉ではいい表せないという事実と、
言葉そのものは「アート」を越えないというのは真実だとしても、
作り手の用意した「言葉」は記号となって、観客によって解読される。


作り手にとっての「言葉」の役割はなんであろうか。
アート制作に際しての言語的機能としてコンセプトやコンテクストがある。
コンセプトを組み立てるのにはアイディアを言語化する必要があり、
コンセプトは純然たる言葉で、その結果として生まれるのが作品だ。
視覚的な部分から掘り下げて行くのではなく、
コンセプトの論理的発展から作品が展開していくのだ。
コンセプチャルに作品を考える事は、論理的思考という新しい窓をひらく行為だ。
「AはBである。なのでBはCである、そこで私はAをCだとしたのだ」といったようなのが基本的なコンセプトのロジックだ。外国人は、これを作品から理解しようとする。

よくある、作品の横のポエムめいた散文か、呪文のように難解な説明。
タイトルや隠喩的な説明も後付されているかのようで、
重みがない。また、評論家による作品の評論も、ぼくはこうボケてみました的な解釈能力を生かした解釈論であって、プロフェッショナルな批評を見たことが無い。
ペテン師の戯言を聞いているかのようで作品を曇りガラスで囲ってしまう。
そもそも作品によって、なにが起こったかなんて
副次的でアーティストにはコントロールできない領域だから、
作り手や評論家が後で語る必要はないし、無い物を高らかに吹聴するような
装飾のための言葉は添付するべきではないだろう。
自分の目で、そこにある作品をみることの邪魔になる。

アーティストは言葉で考えて作品をつくり、
観客は自分が思ったことを論理的な文章に変換してみることで、
双方がアートらしくなる。

作家は、そういう視線を後ろに感じながら制作せざるをえない。

アーティストにとって、言葉で言えるだけ語って、考えられるだけ悩んででた「言葉」が作品の実体なのではなかろうか。

ようやく、コンテクストのある作品が用意される。観客は「?」を解読する。

そうして作品は語りはじめる。