主に私が書いたアートに関する「批評」を掲載します。また、コンテンポラリーアートを理解する上で必要なアート理論(ART THEORY)や書籍の紹介をします。現代アートは難しいものではありません。今日から君もアーティスト
2016年11月20日日曜日
不幸な時に作品が見れること
育児ノイローゼでわが子の首を絞めそうになっているおかあさんとか、要領のいい部下の代わりにリストラされたサラリーマンとか、いじめられて自殺しようと思って家出した子とか、人生からもう一歩踏み外しそうな寸前、典型的な不幸の例しか思い浮かばなくて申し訳ないが、アート作品とはそういう人との出会いを待っている。多くのアーティストたちがあんまり幸せとは言えない人生を送ったこともあり、ほとんどのアート作品は本質的に作家の不幸を背負っている。観客も勉強するべきだと、このブログでは言ってきたが、本人が不幸であれば知識も必要なく、ストーンと作品の「主題」が腑に落ちるはず。自分だけに特別に嵌まる作品があるはず。幸せな人は幸せな作家の作った作品でも楽しめばいいし、幸せなのに美術館に来てしまう人はどっか病気であると失礼ながら思う。太宰みたいなのの小説読んで、自分と同じ考え方の人がいるうれしいとか、自己犠牲の末に世界を救ってくれるような映画見て泣いてみるとかいうのと同じといえば同じだけど、アート作品というのは、もっと無計画で、瞬発的で、形にならないような不幸を拾ってきたようなところがある。シェルターのような物理的なインフラも必要だけど、精神的な受け皿としてアート作品のご利用をお待ちしております。TATEでやっているような夜間無料開放とか、日本でも増えてきた。すれ違いざまに人を救える可能性のある街中のアート作品も増えるべきだ。ただ、変な女の子の銅像は機能してないから街中にちょっとした展示スペースなんかもテコ入れが必要だと思う。妖怪とかアンパンマンは不幸な人を拾える性能は低いと思う。むしろイラッとしていたずらされているような気がする。必要としてる人が嵌まる作品を選ぶべき。話を戻そう。日本の美術館には幸せな人しか行ってはいけないような雰囲気がある。なぜあんなにクリーンで明るすぎはしないか、おじいちゃんおばあちゃんとカップルと子供連れしかいない。今にも自殺しそうな人は見たことがない。入館者数を増やすために必要なのは、大手の美術館で成功した有名人の企画展ではなくって、アートのニーズが本質的には不幸であるということを日本の主催者側が理解した上での場の雰囲気だと思う。一人で来る人は無料とか、主催者側も社会の情勢を見て雰囲気づくりをしていってほしいと思う。贅沢な話だし、当時は私はありがたみを全く感じていなかったが、大学の隣にTATE Britainがあったし、常設展示は無料なのでいつでもオフィーリアを見ることが出来た。昼が仕事で忙しくても金曜は夜間も開放されているから労働者も大歓迎である。僕は違うけど、オフィーリアを見たら「もっと生きれる」という人もいるわけだから。オープンであることのメリットは計り知れない。
2011年7月6日水曜日
♥リッファレンスはしっかり♥ 作品制作においても
アートという魔法を使うには、それと引き換えに背負ってしまうHistory of Artの重みに耐えなくてはいけません。例えば、オノ・ヨーコと今自分がやっているアートがどのように繋がっているのか考えてないといけないのです。畑を広げてきた先駆者や芸術運動があったことで、あなたのアートに意味が生まれているのです。だからといって、理論とコンセプトでガチムチのまっちょになってしまうのは下品ですね。上品なインテリジェンスとユーモア、無駄のない筋肉とスマートな動きで、スーパープレーを世界にお見舞いしてあげましょう。
-追記-
ここで述べているのは文章を書く時の参考文献の話ではなく、作品を制作する際のリッファレンスです。美術家は過去に似た作品がある場合には作品の中で言及する必要があります。その似た過去の美術家の作品が文献の時もあるし、芸術作品の時もありますね。例えば、今よく見られる展示形態として壁にコレクションを配置した棚やショーケースをディスプレイする作品などありますよね。でも、元はと言えばジョセフ・ボイスのヴィトリーヌというガラスケースに自身の研究に使った物を納めて展示シリーズが始まりということになります。最低限、ボイスとの「違い」と「同じ」部分を把握して、作品の中で言及しておきましょうということです。特別に意味がある時以外は作品の解説で言う必要はないです。前者を、積極的に模倣して改編した場合、アプロプリエーション(盗用)になってしまい、自動的に原作に対して批判的な立ち位置なります。なぜ意図して敵対したのかが問題になります。本当にしたいのはリスペクトでありオマージュの場合にも注意が必要です。オマージュであれボイスのアプローチと自分のアプローチの違いを説明する必要があるわけです。原作へは批判したいのか尊敬したいのかはっきりさせることが必要です。
アートで戦うこと
卒論の参考にしたブーリオへのインタビュー記事です。
最近、ちょっと用事があって資料として使ったので抜粋させていただきます。
時期的には2009年のTATEでのAlter Modern展の後です。
アーティストはありとあらゆる取り巻きと孤独に向き合って、なおかつ保守的な流れとも対峙しなくてはいけないし、キュレーターもまたその流れに対峙して時代に停滞してはならないと僕も思います。そこから生まれたアートは、口当たりの良い美しい姿はしていないかもしれないけど、かっこつけない世界にたった一人の「自分」がつくったアート。勇気のいることですね。作家と観客は対等。そういうアートを認める目を持ちたいものです。
より、人間らしく 自由でいるために
芸術はこんなものだと諦めないで可能性を信じましょう
最近、ちょっと用事があって資料として使ったので抜粋させていただきます。
時期的には2009年のTATEでのAlter Modern展の後です。
“現在であれば私は、別の視点から関係性の芸術を定義するでしょう。「様々な既成の芸術的方法を応用して、芸術の実践における人間性を維持し、発展させるための活動」と。というのも今日のアート界は、芸術作品を製品に変貌させ、物象化する傾向に蹂躙されているからです。私はこれらの理論を、芸術作品の直接的な人間性を伝達し、露にする方法として、改めて主張したいと思うのです。体験や出会いでなければ、何がアートなのか?”(関係性の美学と今日的キュレーション Nicolas Bourriaud interviewed by Midori Matsui, p50-51 ART IT spring/winter 2009)コモディティのある(金銭的な価値がある)アート作品が増えてしまって、それらはプロダクト(製品)になってしまっている。しかし、新たな価値観との出会いと創造を体験することができる場こそ「関係性の芸術」だとブーリオさんは言っています。
“オルターモダニティーは、避難先としてのアイデンティとも闘わねばなりません。世界の多くの人々は、アイデンティ信奉の中でも非常に厳格なものに回帰することで、グローバル化のプロセスから逃れようとしています。それが、原理主義や国家主義を強化してしまいます。”(関係性の美学と今日的キュレーション Nicolas Bourriaud interviewed by Midori Matsui, p51 ART IT spring/winter 2009)例えば日本人が「日本的」なアートをつくる、女性が「女性的」な作品をつくることはよく見られることです。つまり、作者自身のバックグラウンド(国籍とか)に作品のアイデンティティを求める傾向が強くなってしまっている。しかし、そういった今日の傾向はグローバル化に際しての「逃げ」だとブーリオさんは言っています。
アーティストはありとあらゆる取り巻きと孤独に向き合って、なおかつ保守的な流れとも対峙しなくてはいけないし、キュレーターもまたその流れに対峙して時代に停滞してはならないと僕も思います。そこから生まれたアートは、口当たりの良い美しい姿はしていないかもしれないけど、かっこつけない世界にたった一人の「自分」がつくったアート。勇気のいることですね。作家と観客は対等。そういうアートを認める目を持ちたいものです。
より、人間らしく 自由でいるために
芸術はこんなものだと諦めないで可能性を信じましょう
2010年10月1日金曜日
山本基: MOTアニュアル2010
行ってもいないのに批評することは、ご批判を受けることと覚悟していますが、
このExhibitionの開催当時、東京にいなかったので行けませんでした。
ARTiTでの山本基へのインタービューや写真を見て思うことが多々あったので、
整理しつつ批評してみようと思います。
http://www.art-it.asia/u/admin_news/3sJeF7ElvRXAf0xtuVC9
(山本氏へのインタビュー動画なくなっちゃった。。。)
今回の「MOTアニュアル2010:装飾」展(2月6日(土)~4月11日(日))
「装飾」という造形形式を、時代の美意識を越えて個人の精神性を反映するものであるとして作家を幅広く集め、「装飾」された空間や作品によるexhibitionのようです。
作家それぞれが装飾的な作品によって表現していることは多種多様であるが、全体として社会を反映しているのではないか?ということなんでしょう。私も装飾とか文様はある種の世俗を反映しているのは確かだと思います。例えば、マティスなんて、当時のテキスタイルを正確に絵に描いているので彼の絵には資料的な価値もありますよね。ま、ここは今回はこれ以上はこのExhibitionのテーマには突っ込みません(見てないし)。
ただ、メディアとか表現手法の類似性で作品を括るのは止めて欲しいとは思う。個人的には、「装飾というのは飾りであって本体ではない」という点で、装飾それ自体にも「意味」があるのだとしたらどう読み解くべきか、そして装飾を施された実体の持つ意味はどれぐらい社会を反映する「のりしろ」として機能してきたのか、当時の「のりしろ」の実体と比較検討してみたらよっぽどテーマに沿った内容になるのではないかと思っている。そりゃ博物館の出番かなあ。。。。
山本基は、塩を用いて、死をテーマにインスタレーションを行っている作家です。今回は、「迷宮」というタイトルで、塩200kgを使ってホールの床に日本の伝統的な波模様か枯山水の庭園を彷彿とさせるような広大な塩の迷宮が広がり、川(本人談)のような装飾されていない貫入がところどころに入っていて、単純な紋様としては見てほしくないようであるが、イスラム教の都市の上から見下ろしたような複雑性と規則性に連続が見られる。一見すると、白の純白と床の木材とのシンプルなハーモニーであるがゆえにどういった意味があるのかと深読みすることを要求されているようで、コンセプチャルアート的な体裁ではある。
紋様の賑やか以外は、禁欲的な感じだ。それは、混みいった人生の「道」のようにも見える。
私は、この作品のキーワードである「死」、「持ち帰る(消失)」について似たキーワードの作品で知られるFélix González-Torresの作品と比較してみようと思う。
トレースと山本に共通するのは、commodity(商品価値)の無い作品を作り、インスタレーションで場をつくる作家であるという点である。そして特別な材料とスキルは使っていない。
しかし、トレースの作品における「死」には、彼のゲイとしてのアイデンティティや死に至る病=HIV、ボーフレンドの死の悲しみが色濃く表れている。観客はゲイでなくとも悲しみを追体験させられる。
「死」というテーマ
死というテーマの壮大さ、
ぼくは、死というテーマに懐疑的だ。
すべての人にとって「死」はテーマとなりえるからだ。
轢死とか水死とか憤死とか感電死とかにジャンルに拘るのなら別だけど。
すべての人間にとって、どう生きるか、そしてどう死ぬかは人生のテーマじゃないか。親も死ねば、友も死ねば、恋人も死ぬだろう。死は身近であり究極であり普遍的すぎるのでわざわざテーマにしてもらわなくても「意識」していることだ。
原始人も未来人も死を前に去来する思いは変わらないだろうと思う。
YBAのダミアン=ハーストの作品に流れる「死」の軽さ、軽快さ、がファッション的に見えてしまうのは、彼本人に何のイデオロギーも無い一流のコンセプチャリストだからだと思う。薬棚も、解剖台もダイアの髑髏も、鮫も、牛も(クーンズの作品の置き換えだし)。死の仮面を被った、「死」とは対極の存在とも言えるかもしれない。
死というのは、宗教観や死生観を反映したものなので、多様であいまいで絶対的。
しかし、個人的経験ほど、記憶を呼び覚まされて共感させられるものはないだろう。
ハーストが表現する死は、生物としての「死」であり、ちっぽけな「生」を意識させられる。
トレースの表現する死は、個人の悲しみが宇宙よりも広くて深いことを感じさせる。
いずれにしろ、山本の作品の「死」に対して、距離の取り方が私にはわからない。
最終日(終了後)に、生演奏を奏でつつ、作品を撤去するそうだ。。。。
塩を持ち帰りたいかどうか。BGMは葬送曲なのか、運動会のマーチなのか、おしゃれアンビエントなのか、ノイズなのか、意図的に行う以上は、この作業も作品の一部なのだろうか。
会期中にやらないと作品の一部にはならんぜよ!と思う。
いわゆる「消失する作品」というのは、
ランドアートの重要なテーマのひとつで、
人間がつくったものが自然の風化作用で形が無くなってゆくことで
時間的スケールや都市と自然の関わり、さらに生と死を意識させられる形態である。
近年の参加型アートの隆盛によって、持ち帰られ人工的に消失するインスタレーションが
ランドアートの進化した形であると私は思っている。
インスタレーションにどう観客を参加させるか
経験させることの重要性が認知され、世界の展示スペースは遊園地化している。
参加型アートの理論を進めるならば、究極的なインタラクティブアートは遊びの場や遊具などの社会の原初的風景ともいうべき場所(site)に降り立つのだ。この話は、私の研究テーマのひとつなので違う記事で書こうと思う。
こうしたアートは、観客との距離を短くするために超絶技巧は使わず、日常にある材料でDIY(Do it yourself)になる。そうすることでcommodityを無くし、unmonumental(非記念碑的?)になる。その空間が体験者にとって創造の場としての意味を持つように。
いかに自然に観客を作品へ取り込むかが参加型アートの必要条件になる。
これは、必ずしも「平和的」な空間の構築を目指している訳ではない。Santiago Sierraのように、嫌悪感をもたらす作品でも構わない。
さて、今回の参加のさせ方としての「持ち帰る」ことについて考えなくてはいけない。
「持ち帰る」ことで消失する作品
海に返すことは自然葬を思い起こさせるが、
海に塩を振るなんて、塩鮭に塩を振るみたいでなんかロマンチックじゃない。
塩=死だと思うのは日本人だけかもしれない。イギリス人にとっては床に蒔かれた塩は融雪剤だ。観客それぞれの文化的な背景をどれだけ意識してつくられたのか分からない。
日本人の死とは静寂なのか。外人アーティストにとっての死はもっと派手でグロテスクなものだ、一部の禅かぶれのアーティスト以外には。
トレースの作品と同じように、「パーソナルな体験の共有」が狙いならば、持ち帰りたくなるようなマテリアルであることと、その「持ち帰る」行為が自然であればあるほど、エスカレーターのように自然に参加させられることによって、より参加型のアートとして、追体験型の作品として輝くはずだ。塩を持ち帰りたい人というのは、常識的に考えれば?今晩の台所で使う人だろう。お塩借りるわよ!ってな具合に。もしくは球児にとっての「甲子園の土」のように思い出の遺品「おみあげ」としてだろう。
いかに自然に観客を巻き込むかという点において、トレースの作品は観客は積極的に持ち帰る。キャンディを持ち帰るのは自然な行為だ。その辺で、トレースの作品は参加型アートのあり方として先駆的だった。
山本氏の作品の「制作過程」を知る事で、作品の意味が変って来る。良い意味で。
もくもくと、座り込んで塩で描く延々としたプロセスにこそ迫力がある。
つまり、パフォーマンス的な要素が働いているということだ。
しかし、作品の持てるコンテクストには限界がある。
いろんな要素に手をださずに、パフォーマンスを上手にみせるべきだと思う。
普遍的な作品として徹底することの難しさ、作家性とどう両立するのか。
あたらしいアートの要素とテクノロジーをどう扱うか。
バランス感覚とセンスがアーティストにも求められている。
このExhibitionの開催当時、東京にいなかったので行けませんでした。
ARTiTでの山本基へのインタービューや写真を見て思うことが多々あったので、
整理しつつ批評してみようと思います。
http://www.art-it.asia/u/admin_news/3sJeF7ElvRXAf0xtuVC9
(山本氏へのインタビュー動画なくなっちゃった。。。)
今回の「MOTアニュアル2010:装飾」展(2月6日(土)~4月11日(日))
「装飾」という造形形式を、時代の美意識を越えて個人の精神性を反映するものであるとして作家を幅広く集め、「装飾」された空間や作品によるexhibitionのようです。
作家それぞれが装飾的な作品によって表現していることは多種多様であるが、全体として社会を反映しているのではないか?ということなんでしょう。私も装飾とか文様はある種の世俗を反映しているのは確かだと思います。例えば、マティスなんて、当時のテキスタイルを正確に絵に描いているので彼の絵には資料的な価値もありますよね。ま、ここは今回はこれ以上はこのExhibitionのテーマには突っ込みません(見てないし)。
ただ、メディアとか表現手法の類似性で作品を括るのは止めて欲しいとは思う。個人的には、「装飾というのは飾りであって本体ではない」という点で、装飾それ自体にも「意味」があるのだとしたらどう読み解くべきか、そして装飾を施された実体の持つ意味はどれぐらい社会を反映する「のりしろ」として機能してきたのか、当時の「のりしろ」の実体と比較検討してみたらよっぽどテーマに沿った内容になるのではないかと思っている。そりゃ博物館の出番かなあ。。。。
山本基は、塩を用いて、死をテーマにインスタレーションを行っている作家です。今回は、「迷宮」というタイトルで、塩200kgを使ってホールの床に日本の伝統的な波模様か枯山水の庭園を彷彿とさせるような広大な塩の迷宮が広がり、川(本人談)のような装飾されていない貫入がところどころに入っていて、単純な紋様としては見てほしくないようであるが、イスラム教の都市の上から見下ろしたような複雑性と規則性に連続が見られる。一見すると、白の純白と床の木材とのシンプルなハーモニーであるがゆえにどういった意味があるのかと深読みすることを要求されているようで、コンセプチャルアート的な体裁ではある。
紋様の賑やか以外は、禁欲的な感じだ。それは、混みいった人生の「道」のようにも見える。
私は、この作品のキーワードである「死」、「持ち帰る(消失)」について似たキーワードの作品で知られるFélix González-Torresの作品と比較してみようと思う。
トレースと山本に共通するのは、commodity(商品価値)の無い作品を作り、インスタレーションで場をつくる作家であるという点である。そして特別な材料とスキルは使っていない。
しかし、トレースの作品における「死」には、彼のゲイとしてのアイデンティティや死に至る病=HIV、ボーフレンドの死の悲しみが色濃く表れている。観客はゲイでなくとも悲しみを追体験させられる。
「死」というテーマ
死というテーマの壮大さ、
ぼくは、死というテーマに懐疑的だ。
すべての人にとって「死」はテーマとなりえるからだ。
轢死とか水死とか憤死とか感電死とかにジャンルに拘るのなら別だけど。
すべての人間にとって、どう生きるか、そしてどう死ぬかは人生のテーマじゃないか。親も死ねば、友も死ねば、恋人も死ぬだろう。死は身近であり究極であり普遍的すぎるのでわざわざテーマにしてもらわなくても「意識」していることだ。
原始人も未来人も死を前に去来する思いは変わらないだろうと思う。
YBAのダミアン=ハーストの作品に流れる「死」の軽さ、軽快さ、がファッション的に見えてしまうのは、彼本人に何のイデオロギーも無い一流のコンセプチャリストだからだと思う。薬棚も、解剖台もダイアの髑髏も、鮫も、牛も(クーンズの作品の置き換えだし)。死の仮面を被った、「死」とは対極の存在とも言えるかもしれない。
死というのは、宗教観や死生観を反映したものなので、多様であいまいで絶対的。
しかし、個人的経験ほど、記憶を呼び覚まされて共感させられるものはないだろう。
ハーストが表現する死は、生物としての「死」であり、ちっぽけな「生」を意識させられる。
トレースの表現する死は、個人の悲しみが宇宙よりも広くて深いことを感じさせる。
いずれにしろ、山本の作品の「死」に対して、距離の取り方が私にはわからない。
最終日(終了後)に、生演奏を奏でつつ、作品を撤去するそうだ。。。。
塩を持ち帰りたいかどうか。BGMは葬送曲なのか、運動会のマーチなのか、おしゃれアンビエントなのか、ノイズなのか、意図的に行う以上は、この作業も作品の一部なのだろうか。
会期中にやらないと作品の一部にはならんぜよ!と思う。
いわゆる「消失する作品」というのは、
ランドアートの重要なテーマのひとつで、
人間がつくったものが自然の風化作用で形が無くなってゆくことで
時間的スケールや都市と自然の関わり、さらに生と死を意識させられる形態である。
近年の参加型アートの隆盛によって、持ち帰られ人工的に消失するインスタレーションが
ランドアートの進化した形であると私は思っている。
インスタレーションにどう観客を参加させるか
経験させることの重要性が認知され、世界の展示スペースは遊園地化している。
参加型アートの理論を進めるならば、究極的なインタラクティブアートは遊びの場や遊具などの社会の原初的風景ともいうべき場所(site)に降り立つのだ。この話は、私の研究テーマのひとつなので違う記事で書こうと思う。
こうしたアートは、観客との距離を短くするために超絶技巧は使わず、日常にある材料でDIY(Do it yourself)になる。そうすることでcommodityを無くし、unmonumental(非記念碑的?)になる。その空間が体験者にとって創造の場としての意味を持つように。
いかに自然に観客を作品へ取り込むかが参加型アートの必要条件になる。
これは、必ずしも「平和的」な空間の構築を目指している訳ではない。Santiago Sierraのように、嫌悪感をもたらす作品でも構わない。
さて、今回の参加のさせ方としての「持ち帰る」ことについて考えなくてはいけない。
「持ち帰る」ことで消失する作品
海に返すことは自然葬を思い起こさせるが、
海に塩を振るなんて、塩鮭に塩を振るみたいでなんかロマンチックじゃない。
塩=死だと思うのは日本人だけかもしれない。イギリス人にとっては床に蒔かれた塩は融雪剤だ。観客それぞれの文化的な背景をどれだけ意識してつくられたのか分からない。
日本人の死とは静寂なのか。外人アーティストにとっての死はもっと派手でグロテスクなものだ、一部の禅かぶれのアーティスト以外には。
トレースの作品と同じように、「パーソナルな体験の共有」が狙いならば、持ち帰りたくなるようなマテリアルであることと、その「持ち帰る」行為が自然であればあるほど、エスカレーターのように自然に参加させられることによって、より参加型のアートとして、追体験型の作品として輝くはずだ。塩を持ち帰りたい人というのは、常識的に考えれば?今晩の台所で使う人だろう。お塩借りるわよ!ってな具合に。もしくは球児にとっての「甲子園の土」のように思い出の遺品「おみあげ」としてだろう。
いかに自然に観客を巻き込むかという点において、トレースの作品は観客は積極的に持ち帰る。キャンディを持ち帰るのは自然な行為だ。その辺で、トレースの作品は参加型アートのあり方として先駆的だった。
山本氏の作品の「制作過程」を知る事で、作品の意味が変って来る。良い意味で。
もくもくと、座り込んで塩で描く延々としたプロセスにこそ迫力がある。
つまり、パフォーマンス的な要素が働いているということだ。
しかし、作品の持てるコンテクストには限界がある。
いろんな要素に手をださずに、パフォーマンスを上手にみせるべきだと思う。
普遍的な作品として徹底することの難しさ、作家性とどう両立するのか。
あたらしいアートの要素とテクノロジーをどう扱うか。
バランス感覚とセンスがアーティストにも求められている。
2010年3月26日金曜日
過去の記事の紹介
去年書いた文章をARTit(http://www.art-it.asia/f/k_miyagawa/)ブログ用に再編集したので、
紹介します。
言葉にならない
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/blog-post_2500.html
Artは学問≠技術
http://weartheworld.blogspot.com/2009/07/art.html
Artがない話
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/art.html
おまけで、紹介文も
「Relational Aesthetics」 by Nicolas Bourriaud
http://weartheworld.blogspot.com/2009/07/relational-aesthetics.html
Santiago Sierra
http://weartheworld.blogspot.com/search/label/Santiago%20Sierra
Relational Aestheticsに関して検索してたどり着く方が多いので、
そのうち詳しく書いて載せようかな。
でも僕を信じないで、自分で実際に本読まないと駄目だよ。
単位落とされても責任取りませんよーだ。
紹介します。
言葉にならない
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/blog-post_2500.html
Artは学問≠技術
http://weartheworld.blogspot.com/2009/07/art.html
Artがない話
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/art.html
おまけで、紹介文も
「Relational Aesthetics」 by Nicolas Bourriaud
http://weartheworld.blogspot.com/2009/07/relational-aesthetics.html
Santiago Sierra
http://weartheworld.blogspot.com/search/label/Santiago%20Sierra
Relational Aestheticsに関して検索してたどり着く方が多いので、
そのうち詳しく書いて載せようかな。
でも僕を信じないで、自分で実際に本読まないと駄目だよ。
単位落とされても責任取りませんよーだ。
2010年3月13日土曜日
タイトル: WE ART THE WORLD
今更ですが、このブログのタイトル(名前)について説明していませんでした。
‘ 由来 ’
あのチャリティーキャンペーン We are the world にちなんだダジャレです。スペルミスでもなくって私が作った造語です。発音すれば同じでしょ? スラングの世界では発音しないアルファベットを省略したりするので、Eを省略。そして、ARTを誤って動詞的に使って、「art the world」 で 「アートをやる!」「世界をアートに!」という新たな意味を込めました。「We are the world(私達が世界)」であり「We art the world (私達が世界をアートにする)」というダブルミーニングです。
‘ IとWE ’
I ART THE WORLD、作家がアートという専門性の高く、超絶スキルで用いて制作された商品価値(commodity)のある「モノ」を作ること。というのがこれまでの一般的なアート制作でした。
そしてオリジナリティに富んだ創造性を持った作家が「I(個人)」を発表する場だったギャラリーなどのアートスペースが、90年代には作家と観客を越えて個人同士が「作品(モノ)」や「作品(場)」を通じて交流する場となりました、そして、作家だけではなく観客も「アートを楽しむこと」「アートに参加すること」「自分のアート体験をすること(モノ以外の価値のあることを自分でつくりだすこと)」が観客の権利として出来る作品に出会うことも多くなってきています。
観客も作家みたいなアート、つまり、みんなアートやってるってことじゃん!というような現代的「アート鑑賞の楽しみの方のひとつ」をこのブログで推進していこうといことです。
言葉は悪いですが、一見ゴミしか見えないかもしれないけど、観客にとって価値のある「ゴミ」の鑑賞の仕方を学ぶ場になればいいと思います。そういう思いです。タイトル負けしないように頑張ります。
‘ 由来 ’
あのチャリティーキャンペーン We are the world にちなんだダジャレです。スペルミスでもなくって私が作った造語です。発音すれば同じでしょ? スラングの世界では発音しないアルファベットを省略したりするので、Eを省略。そして、ARTを誤って動詞的に使って、「art the world」 で 「アートをやる!」「世界をアートに!」という新たな意味を込めました。「We are the world(私達が世界)」であり「We art the world (私達が世界をアートにする)」というダブルミーニングです。
‘ IとWE ’
I ART THE WORLD、作家がアートという専門性の高く、超絶スキルで用いて制作された商品価値(commodity)のある「モノ」を作ること。というのがこれまでの一般的なアート制作でした。
そしてオリジナリティに富んだ創造性を持った作家が「I(個人)」を発表する場だったギャラリーなどのアートスペースが、90年代には作家と観客を越えて個人同士が「作品(モノ)」や「作品(場)」を通じて交流する場となりました、そして、作家だけではなく観客も「アートを楽しむこと」「アートに参加すること」「自分のアート体験をすること(モノ以外の価値のあることを自分でつくりだすこと)」が観客の権利として出来る作品に出会うことも多くなってきています。
観客も作家みたいなアート、つまり、みんなアートやってるってことじゃん!というような現代的「アート鑑賞の楽しみの方のひとつ」をこのブログで推進していこうといことです。
言葉は悪いですが、一見ゴミしか見えないかもしれないけど、観客にとって価値のある「ゴミ」の鑑賞の仕方を学ぶ場になればいいと思います。そういう思いです。タイトル負けしないように頑張ります。
2010年2月27日土曜日
ボヤいてすいません
メールでおしかりを受けました。
差出人偽装で送ってこられたのでメールと返事を全文掲載したいと思います。
差出人を偽装?して送られると返事が送れないです。
この国は、差出人を偽装しないと自分の意見を言えないんだろうか。。。
責任を取れとかいいつつ、自分こそどうなんだかと思われちゃいますよ。
自分の一方的な意見を述べつつ、名無しさんでは、議論を否定したことになりますよ。
せっかく、返事書いたのに失礼じゃないですか?
なので返事を載せます。読んでからまたメールを下さい。
あと、この文章「言葉にはならない」を読んでください
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/blog-post_2500.html
-Nさんより------------------------------------------------------
ブログ: WeARTheWorld
投稿: くらしの豊かさ
リンク: http://weartheworld.blogspot.com/2009/10/blog-post.html
これは批評ではなくボヤキですよね。文句言う前に行動で示してみて下さい。一応、作家さんなのですから、ブログであろうが自分の発する言葉には責任を持つべきです。「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?あなたは「アート」を崇高なものだと謳っているが、一方で「アート」を貶めているのでは。悲観主義者は偉いのでしょうか?観客がアホだからダメだなんて、アートの力を信じていないか、負け惜しみを言っているだけですよ。
----------------------------------------------------------
以下 ぼくからの返事です
Nさん(差出人不肖なので適当につけさせていただきます)へ
ご意見ありがとうございます。
リンクで送ってこられた文章は、「批評」として書いたのではありません。
タグで分類しています。タグが「批評」のものだけです。まあ、それよりも以下の部分が気に入らなかったということですよね。
>「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?
なぜかと言うと、日本的な批評とか鑑賞のあり方の結果として、
あいまいなドロドロが作品が包んでいて守られていて、議論を拒否していて、
レベルアップする可能性を貶めていると思っているからです。
日本語の曖昧さも原因かもしれません。
たとえば、オバマとか言ってることが分かりやすいでしょ?
日本の政治家は煮え切らないし、うやむやというか。
「はっきり言う」ことは、軋轢もうまれることもあるし責任も生まれます。
でも、それは個人の「意見」ですし「意思」ですよね、英語って基本はYESかNOですし、
当然議論になります。でも、相手と意見がどう違うのかよくわかる過程でもありますよね。
だから、私はアートに関してもすべての気持ちや感覚を言語化する努力を行ってみると、違うレベルに行ける。
「僕はこう思ったからこう考えてこういう風につくったんだ」
「いやぼくは、それならば、こうしたほうがいいと思うな」などという議論が必要だと思っています。「ぼくは、そうは思わないから、この作家は「嫌いだ」」とか、
はっきりわかること が
これからの日本のアート界に必要だと思っています。
その為の「言語化」の必要性をあの記事でぼくは謳っております。
あと、個人主義ベースのイギリスでは、前提として、すべての人に「自分の意見」というものが必ずあって、それは絶対に隣人とは違うものだとされています。アート教育でもそうです。徹底的に「自分」というものを意識して確立させられます。むしろそれを出来ないと「存在」が認められない社会でもあるということです。難しいかもしれませんが、「自分の意見」=「個人」=最高のもの という公式が成り立つような社会だし、アートでもそうだということです。学生の場合の一番いい評価というのは、distinctionといって自分らしさが格別に優れている。技術は2の次。ということになります。大学院ではクオリティも減価償却を含めたマネージメント能力も評価されますが。
それで、そういった自分の言葉や意見のことを「自分の言語」という風にご指摘の文章では書いています。極端な場合、文章自体が作品のアートも認知されています。古い例だとオノ=ヨーコとか、最近だとフェリックス=ゴンザレス=トレースとか。
他の文章も少しは読んでいただけたようですが、
観客がアホだなんて思っていませんし、書いていません。
あなたが、自分が馬鹿にされているように感じたからですか?
観客が育たない社会だとは思いますが、言わんとすることも、むしろ逆です。
確かに、私はアカデミック寄りの思考をする傾向はありますが、
それが、そういうように受け取られたのかもしれません。
私も作家?ですし観客ですし、市民です。あなたと変わりません。
ぼくは1市民として作品を作っていますし、発言しています。
私の論文の大きなテーマは青臭いけどもアートの民主化でした。
卒論のタイトルは、「An Investigation of the most democratic form of art」
フルクサス、反芸術、ランドアート(ギャラリーから出たアート)、関係性の芸術
留学中に、「アートを楽しむ文化」むしろ生活習慣といってもいい、
ヨーロッパ的な社会におけるアートの存在感を身にしみました。日常にアートがある生活。
貧乏な人も、障害者も、お金持ちも楽しめるアート。
日本では、観客が本格的に楽しんで鑑賞出来ていないことを残念に感じます。
主に主催者側の問題ですが、防護柵とか学芸委員の態度とかメモ禁止とか。
アート=おしゃれ?みたいなのもおかしいです。もっと血とかうんことか汗の世界です。
あとは、作家側の問題としては、観客がアマチュアだからといって舐めた作品つくってるって事です。村上隆も、国内向けと海外向けで違う説明をしていてダブルスタンダードだと批判する人もいますが、それくらい、国内の批評家とギャラリストがクズだということです。
日本だと、芸大は技術しか教えないし、美術史だと歴史(近代中心)しか学べないし、日本では、よくわからない評論家が審査員として幅を利かせています。
私は作家としては、作品=モノから脱却して、考えてもらう作品、観客が作る作品を考えてきました。アーティストの作品のクオリティは、観客に合わせてつくってきました。
レベルの問題ではなく文化の違いを把握して、国にあわせて違うバージョンもつくります。
それは、観客が「自分」で理解してもらい楽しんで欲しいからです。
油絵も描くし彫刻もつくります。
ブログには、全文掲載できないので私の論文から抜粋して載せている文章もありますし。
おっしゃられるようにボヤキも多いですが、タグで分類しています。
私の分別としてその場合は「批評」として書いていません。
全文批評として書いているように受け取られそうなサブタイトルなので修正しましょうかね。
正直な話、体を壊したこともあって、今ぼくは日本に帰ってきましたが、
何をするべきか、何からするべきかと悩むだけで、行動出来ていません。
環境を整えることが、ほんとに難しくて。東京なら、まだ友人もいるのですが。
私の海外の日本人の友人もだれも日本へは帰ってきません。
日本に自分の居場所がないんです。そばに議論できる相手もいないんです。
そして批評家として生きて行くか、作家も平行してやっていくかも決められません。
情けない限りです。
ただ、観客を育てていかないと、アートは育ちません。
そのせいで、日本は遅れています。やっと日本はポストモダンくらいのレベルです。
必要ないからアートは育ってこなかったのかもしれません、
でもこれからは必要かもしれません。
戦後「具体」という先進的なグループもありましたが、作家が社会から目をそむけた「高尚」な作品つくって、観客は彼岸だったせいで50年遅れてしまった。
ぼくは、もっと「厳しい姿勢」でアートを見て欲しいのです。
作家としても議論されることは有意義なことですから。
海外で個展をすれば、意見を言ってきてくれる、議論をふっかけてくれる、
良いところを良い、「嫌い」と「はっきり」言ってくれる。それは次へのモチベーションにも繋がるし、それを含めてアートの可能性が日本でも開花すると思うのです。
意味不明な理解不明な作品のままにしないとか、
ぼくは、仕事を辞めて
20代後半から留学して基礎から学びました。
そして、コンテクストを読めるような作品の楽しさを感じました。
芸術って理解できるんだと知りました。
そして、作品と観客は議論も出来るし共感も出来る、対話ですかね。
まるで人間同士のような感覚で向き合えるのだと気づきました。
だから、不満なんです。柵の向こうにある作品も、威張った作品も、
床でごろごろできない美術館。公立の美術館って市民の為にあるのに高いですよね。
イギリスのTATE modern, britain は常設展は無料です。
でも、世界中から人が来ますし書籍の販売や寄付のおかで黒字経営しています(そういう国策なんですが)。
それに比べて、日本はみんなの税金でバブルの時代にばかみたいな値段で作品を買ったのに!
常設展でも有料で展示するのとか あーーー。企画展(エキシビジョン)も1200円くらいでしょ?高いよなあ。 書けば切が無いですが。
私は悲観的ですが、諦めてもいないですよ。
映画「アワーミュージック」のパンフレットのなかで、ジャンリュック=ゴダールに「映画で世界は変えれますか?」という質問で、
「それは聞いてはいけない質問です」とこたえる下りがあります。
同じように、アートで直接的に誰かを救うことが出来るのか、人の為にというなら医者にでもなったほうがいいんじゃないか、目の前で自殺する友人をどう救うことが出来るのかと、
どれだけ自分の作品が社会に貢献できるのか、等々。。
貧乏と引き換えに、自由を選んだ責任として、日々働いている方々(私も派遣社員だったこともあります)にとっても楽しめる作品ってないだろうか。だって、明日のご飯が食べれない人にとってどれだけの価値があるのかと思います。
僕にとってアーティストは、身近で隣の奇人さんであり一般市民です。偉いアーティストなんているんですか?ヨーゼフ=ボイスもおっさんですよ。Jeff Koonsもおっさんですよ。
今自分の思考が、地方交付税交付金で各地につくられた銅像を全部破壊しようかと(すげー嫌いなんですよ)、vandalizeですね。怒りがモチベーションになってしまう。森村泰昌の「美の教室」とかそういう発想しちゃうのがよく分かる。そういった方向にしか考えが向かないから困ったことです。あるいみ、一番アートを愛して日本を愛して、社会に向き合おうとすると、「怒った」作品になってしまう。かつての反芸術とかみたいにね、アートの「他の」いい可能性を生かした作品を作りたいんだけれども。
だらだらと書いてしまいましたが、短いものよりも長文歓迎ですのでどんどん書いてください。意見+理由(なぜなら~だからだ!)としっかり書いて、僕の理屈をコテンパンにしてよ。大学では、そうやって叩かれるんだよ、論文担当のクソ教授に日々叩かれる。それがイギリスの美術大学。論理的に批評されて議論する場だったから。ぼくにとっては、なんか言われることのほうが自然でやる気もわいてくるんだよな。どんどん意見をお送りください。日本で私がどうするべきかのアドバイスも歓迎です(ほんとに)。ほんとに困ってんだよな生活面では、絵のフレームつくるのに業者に頼むとか無理。自分でつくるにしろ、工具が高い!イギリスは画材は高いけど、油絵の具だけは安いグレードがあってプロも大きい絵には使ってるくらいだ。高くていい絵の具ってさ、金持ちの主婦ペインターしか使わないんじゃなかろうか。。
話がそれたけど、もし論理的に批評してくれるならうれしいので、そういうのはほんとうにうれしいですよ。僕の場合。だって技術はやってれば見につくけど、議論しないと考えはまとまらないものだからさ。けっこうながくなってしまったけれど
それでは取り急ぎ 失礼いたします
宮川和久
-----------------------------------------------------------------
おーい メアド送れないぞ!しかもスパム扱いでメール来たんだけど。。。
まあ、すぐに書いたのに返信できなかったので、モヤモヤします!
この方の論調を読み直すと、どうして意見を書くと「決め付けられた」と思うんですかね。
「意見」に絶対もくそもないじゃないすか、絶対の真理みたいのって文系の世界にはないんじゃないすかね。今正しいとされていることも、わかんないですよね。教科書に書いてあることは鵜呑みですか、そうですか。信号機が青だったら自動車が来ても渡るんですか?典型的な日本の島国根性ですね。個人の意見というのは、尊重すべきものです。個人は国の宝ですよ。ぼくも自分の意見と同じくらい他者の意見も尊重します。自分の意見を自分が大事にしなくてほかの人の意見なんて聞けないですよ。。。。 ほんと、成りすましとかで送らないでください自分の意見も大事にしてください。あと、メールでわざわざ送りたいくらい「言いたい!」って思ったのなら、そう思った理由をもっともっと書いてください。あなただって言いたいことがあるなら「作品」にしたらいい。この国では、アーティストじゃないと作品つくれないんですか? もし、出来ることがあるなら協力するし。
でも、こういった形で批判されても意味が無いじゃないですか。リアクションに対しては、ぼくも全身全霊で反応しますし、そうすべきだと思っています。もっともっとしゃべりたいです。卑怯なことしないでぶつかって来てください。
お願いします。少し独善的で悲観的な面はありますが、それは性格の問題なので、「批評」では客観性に気をつけたいと思っています。
こういう考え方をする不特定多数(Nさんは文句を言ってくれるだけマシ)を相手に行動を起こさなくてはいけないということなんですかね。僕みたいなのを、勝手にタイプ分けして「ああいう風に考えるやつだろう」と思ってケチをつけるというか。。。日本語って対象を想定しないと言語化できないからかな。で、「作家さん」なんだからと小ばかにしなががら、行動でしめせ!という正論を言って、僕がアートを貶めている!なんて言うけれど、ぼくのどこが貶めているというの?一方的に勘違いをしたあげく、理由も書かずに正しいっぽい一般論?というかただの文句を言って満足みたいな。まさか、みんなNさんみたいに思って読んでるのかな。でもNさんがほんとにアートの力を信じている?というならばすばらしいと思います。こういうケチだけつけてる模範的市民か?自分こそアートを駄目にしてるって側だって気づきませんか?君にだって出来ることがあるんだよ。おまえなんかに行動しろって言われる筋合いはない。人に行動で示せという前に、小さくてもいいからアートを「高める」行動を起こしてみろよ。頼むぜ。アーティスト作品をつくりっぱなしで、観客は受け入れる(or neglect)したままで「議論」したり「批評」しないままでは、この国のアート文化に成長がないと思っています。
自分が言葉で伝えきれてないのは認めます。すいません。もしNさんに機会があるなら海外行って見ろ、大学院留学とか語学留学とかよりもバックパッカーしてみろ、俺が書いてることよく分かるから。
差出人偽装で送ってこられたのでメールと返事を全文掲載したいと思います。
差出人を偽装?して送られると返事が送れないです。
この国は、差出人を偽装しないと自分の意見を言えないんだろうか。。。
責任を取れとかいいつつ、自分こそどうなんだかと思われちゃいますよ。
自分の一方的な意見を述べつつ、名無しさんでは、議論を否定したことになりますよ。
せっかく、返事書いたのに失礼じゃないですか?
なので返事を載せます。読んでからまたメールを下さい。
あと、この文章「言葉にはならない」を読んでください
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/blog-post_2500.html
-Nさんより------------------------------------------------------
ブログ: WeARTheWorld
投稿: くらしの豊かさ
リンク: http://weartheworld.blogspot.com/2009/10/blog-post.html
これは批評ではなくボヤキですよね。文句言う前に行動で示してみて下さい。一応、作家さんなのですから、ブログであろうが自分の発する言葉には責任を持つべきです。「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?あなたは「アート」を崇高なものだと謳っているが、一方で「アート」を貶めているのでは。悲観主義者は偉いのでしょうか?観客がアホだからダメだなんて、アートの力を信じていないか、負け惜しみを言っているだけですよ。
----------------------------------------------------------
以下 ぼくからの返事です
Nさん(差出人不肖なので適当につけさせていただきます)へ
ご意見ありがとうございます。
リンクで送ってこられた文章は、「批評」として書いたのではありません。
タグで分類しています。タグが「批評」のものだけです。まあ、それよりも以下の部分が気に入らなかったということですよね。
>「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?
なぜかと言うと、日本的な批評とか鑑賞のあり方の結果として、
あいまいなドロドロが作品が包んでいて守られていて、議論を拒否していて、
レベルアップする可能性を貶めていると思っているからです。
日本語の曖昧さも原因かもしれません。
たとえば、オバマとか言ってることが分かりやすいでしょ?
日本の政治家は煮え切らないし、うやむやというか。
「はっきり言う」ことは、軋轢もうまれることもあるし責任も生まれます。
でも、それは個人の「意見」ですし「意思」ですよね、英語って基本はYESかNOですし、
当然議論になります。でも、相手と意見がどう違うのかよくわかる過程でもありますよね。
だから、私はアートに関してもすべての気持ちや感覚を言語化する努力を行ってみると、違うレベルに行ける。
「僕はこう思ったからこう考えてこういう風につくったんだ」
「いやぼくは、それならば、こうしたほうがいいと思うな」などという議論が必要だと思っています。「ぼくは、そうは思わないから、この作家は「嫌いだ」」とか、
はっきりわかること が
これからの日本のアート界に必要だと思っています。
その為の「言語化」の必要性をあの記事でぼくは謳っております。
あと、個人主義ベースのイギリスでは、前提として、すべての人に「自分の意見」というものが必ずあって、それは絶対に隣人とは違うものだとされています。アート教育でもそうです。徹底的に「自分」というものを意識して確立させられます。むしろそれを出来ないと「存在」が認められない社会でもあるということです。難しいかもしれませんが、「自分の意見」=「個人」=最高のもの という公式が成り立つような社会だし、アートでもそうだということです。学生の場合の一番いい評価というのは、distinctionといって自分らしさが格別に優れている。技術は2の次。ということになります。大学院ではクオリティも減価償却を含めたマネージメント能力も評価されますが。
それで、そういった自分の言葉や意見のことを「自分の言語」という風にご指摘の文章では書いています。極端な場合、文章自体が作品のアートも認知されています。古い例だとオノ=ヨーコとか、最近だとフェリックス=ゴンザレス=トレースとか。
他の文章も少しは読んでいただけたようですが、
観客がアホだなんて思っていませんし、書いていません。
あなたが、自分が馬鹿にされているように感じたからですか?
観客が育たない社会だとは思いますが、言わんとすることも、むしろ逆です。
確かに、私はアカデミック寄りの思考をする傾向はありますが、
それが、そういうように受け取られたのかもしれません。
私も作家?ですし観客ですし、市民です。あなたと変わりません。
ぼくは1市民として作品を作っていますし、発言しています。
私の論文の大きなテーマは青臭いけどもアートの民主化でした。
卒論のタイトルは、「An Investigation of the most democratic form of art」
フルクサス、反芸術、ランドアート(ギャラリーから出たアート)、関係性の芸術
留学中に、「アートを楽しむ文化」むしろ生活習慣といってもいい、
ヨーロッパ的な社会におけるアートの存在感を身にしみました。日常にアートがある生活。
貧乏な人も、障害者も、お金持ちも楽しめるアート。
日本では、観客が本格的に楽しんで鑑賞出来ていないことを残念に感じます。
主に主催者側の問題ですが、防護柵とか学芸委員の態度とかメモ禁止とか。
アート=おしゃれ?みたいなのもおかしいです。もっと血とかうんことか汗の世界です。
あとは、作家側の問題としては、観客がアマチュアだからといって舐めた作品つくってるって事です。村上隆も、国内向けと海外向けで違う説明をしていてダブルスタンダードだと批判する人もいますが、それくらい、国内の批評家とギャラリストがクズだということです。
日本だと、芸大は技術しか教えないし、美術史だと歴史(近代中心)しか学べないし、日本では、よくわからない評論家が審査員として幅を利かせています。
私は作家としては、作品=モノから脱却して、考えてもらう作品、観客が作る作品を考えてきました。アーティストの作品のクオリティは、観客に合わせてつくってきました。
レベルの問題ではなく文化の違いを把握して、国にあわせて違うバージョンもつくります。
それは、観客が「自分」で理解してもらい楽しんで欲しいからです。
油絵も描くし彫刻もつくります。
ブログには、全文掲載できないので私の論文から抜粋して載せている文章もありますし。
おっしゃられるようにボヤキも多いですが、タグで分類しています。
私の分別としてその場合は「批評」として書いていません。
全文批評として書いているように受け取られそうなサブタイトルなので修正しましょうかね。
正直な話、体を壊したこともあって、今ぼくは日本に帰ってきましたが、
何をするべきか、何からするべきかと悩むだけで、行動出来ていません。
環境を整えることが、ほんとに難しくて。東京なら、まだ友人もいるのですが。
私の海外の日本人の友人もだれも日本へは帰ってきません。
日本に自分の居場所がないんです。そばに議論できる相手もいないんです。
そして批評家として生きて行くか、作家も平行してやっていくかも決められません。
情けない限りです。
ただ、観客を育てていかないと、アートは育ちません。
そのせいで、日本は遅れています。やっと日本はポストモダンくらいのレベルです。
必要ないからアートは育ってこなかったのかもしれません、
でもこれからは必要かもしれません。
戦後「具体」という先進的なグループもありましたが、作家が社会から目をそむけた「高尚」な作品つくって、観客は彼岸だったせいで50年遅れてしまった。
ぼくは、もっと「厳しい姿勢」でアートを見て欲しいのです。
作家としても議論されることは有意義なことですから。
海外で個展をすれば、意見を言ってきてくれる、議論をふっかけてくれる、
良いところを良い、「嫌い」と「はっきり」言ってくれる。それは次へのモチベーションにも繋がるし、それを含めてアートの可能性が日本でも開花すると思うのです。
意味不明な理解不明な作品のままにしないとか、
ぼくは、仕事を辞めて
20代後半から留学して基礎から学びました。
そして、コンテクストを読めるような作品の楽しさを感じました。
芸術って理解できるんだと知りました。
そして、作品と観客は議論も出来るし共感も出来る、対話ですかね。
まるで人間同士のような感覚で向き合えるのだと気づきました。
だから、不満なんです。柵の向こうにある作品も、威張った作品も、
床でごろごろできない美術館。公立の美術館って市民の為にあるのに高いですよね。
イギリスのTATE modern, britain は常設展は無料です。
でも、世界中から人が来ますし書籍の販売や寄付のおかで黒字経営しています(そういう国策なんですが)。
それに比べて、日本はみんなの税金でバブルの時代にばかみたいな値段で作品を買ったのに!
常設展でも有料で展示するのとか あーーー。企画展(エキシビジョン)も1200円くらいでしょ?高いよなあ。 書けば切が無いですが。
私は悲観的ですが、諦めてもいないですよ。
映画「アワーミュージック」のパンフレットのなかで、ジャンリュック=ゴダールに「映画で世界は変えれますか?」という質問で、
「それは聞いてはいけない質問です」とこたえる下りがあります。
同じように、アートで直接的に誰かを救うことが出来るのか、人の為にというなら医者にでもなったほうがいいんじゃないか、目の前で自殺する友人をどう救うことが出来るのかと、
どれだけ自分の作品が社会に貢献できるのか、等々。。
貧乏と引き換えに、自由を選んだ責任として、日々働いている方々(私も派遣社員だったこともあります)にとっても楽しめる作品ってないだろうか。だって、明日のご飯が食べれない人にとってどれだけの価値があるのかと思います。
僕にとってアーティストは、身近で隣の奇人さんであり一般市民です。偉いアーティストなんているんですか?ヨーゼフ=ボイスもおっさんですよ。Jeff Koonsもおっさんですよ。
今自分の思考が、地方交付税交付金で各地につくられた銅像を全部破壊しようかと(すげー嫌いなんですよ)、vandalizeですね。怒りがモチベーションになってしまう。森村泰昌の「美の教室」とかそういう発想しちゃうのがよく分かる。そういった方向にしか考えが向かないから困ったことです。あるいみ、一番アートを愛して日本を愛して、社会に向き合おうとすると、「怒った」作品になってしまう。かつての反芸術とかみたいにね、アートの「他の」いい可能性を生かした作品を作りたいんだけれども。
だらだらと書いてしまいましたが、短いものよりも長文歓迎ですのでどんどん書いてください。意見+理由(なぜなら~だからだ!)としっかり書いて、僕の理屈をコテンパンにしてよ。大学では、そうやって叩かれるんだよ、論文担当のクソ教授に日々叩かれる。それがイギリスの美術大学。論理的に批評されて議論する場だったから。ぼくにとっては、なんか言われることのほうが自然でやる気もわいてくるんだよな。どんどん意見をお送りください。日本で私がどうするべきかのアドバイスも歓迎です(ほんとに)。ほんとに困ってんだよな生活面では、絵のフレームつくるのに業者に頼むとか無理。自分でつくるにしろ、工具が高い!イギリスは画材は高いけど、油絵の具だけは安いグレードがあってプロも大きい絵には使ってるくらいだ。高くていい絵の具ってさ、金持ちの主婦ペインターしか使わないんじゃなかろうか。。
話がそれたけど、もし論理的に批評してくれるならうれしいので、そういうのはほんとうにうれしいですよ。僕の場合。だって技術はやってれば見につくけど、議論しないと考えはまとまらないものだからさ。けっこうながくなってしまったけれど
それでは取り急ぎ 失礼いたします
宮川和久
-----------------------------------------------------------------
おーい メアド送れないぞ!しかもスパム扱いでメール来たんだけど。。。
まあ、すぐに書いたのに返信できなかったので、モヤモヤします!
この方の論調を読み直すと、どうして意見を書くと「決め付けられた」と思うんですかね。
「意見」に絶対もくそもないじゃないすか、絶対の真理みたいのって文系の世界にはないんじゃないすかね。今正しいとされていることも、わかんないですよね。教科書に書いてあることは鵜呑みですか、そうですか。信号機が青だったら自動車が来ても渡るんですか?典型的な日本の島国根性ですね。個人の意見というのは、尊重すべきものです。個人は国の宝ですよ。ぼくも自分の意見と同じくらい他者の意見も尊重します。自分の意見を自分が大事にしなくてほかの人の意見なんて聞けないですよ。。。。 ほんと、成りすましとかで送らないでください自分の意見も大事にしてください。あと、メールでわざわざ送りたいくらい「言いたい!」って思ったのなら、そう思った理由をもっともっと書いてください。あなただって言いたいことがあるなら「作品」にしたらいい。この国では、アーティストじゃないと作品つくれないんですか? もし、出来ることがあるなら協力するし。
でも、こういった形で批判されても意味が無いじゃないですか。リアクションに対しては、ぼくも全身全霊で反応しますし、そうすべきだと思っています。もっともっとしゃべりたいです。卑怯なことしないでぶつかって来てください。
お願いします。少し独善的で悲観的な面はありますが、それは性格の問題なので、「批評」では客観性に気をつけたいと思っています。
こういう考え方をする不特定多数(Nさんは文句を言ってくれるだけマシ)を相手に行動を起こさなくてはいけないということなんですかね。僕みたいなのを、勝手にタイプ分けして「ああいう風に考えるやつだろう」と思ってケチをつけるというか。。。日本語って対象を想定しないと言語化できないからかな。で、「作家さん」なんだからと小ばかにしなががら、行動でしめせ!という正論を言って、僕がアートを貶めている!なんて言うけれど、ぼくのどこが貶めているというの?一方的に勘違いをしたあげく、理由も書かずに正しいっぽい一般論?というかただの文句を言って満足みたいな。まさか、みんなNさんみたいに思って読んでるのかな。でもNさんがほんとにアートの力を信じている?というならばすばらしいと思います。こういうケチだけつけてる模範的市民か?自分こそアートを駄目にしてるって側だって気づきませんか?君にだって出来ることがあるんだよ。おまえなんかに行動しろって言われる筋合いはない。人に行動で示せという前に、小さくてもいいからアートを「高める」行動を起こしてみろよ。頼むぜ。アーティスト作品をつくりっぱなしで、観客は受け入れる(or neglect)したままで「議論」したり「批評」しないままでは、この国のアート文化に成長がないと思っています。
自分が言葉で伝えきれてないのは認めます。すいません。もしNさんに機会があるなら海外行って見ろ、大学院留学とか語学留学とかよりもバックパッカーしてみろ、俺が書いてることよく分かるから。
2009年9月28日月曜日
パクリ
アートにはパクリは無い。
積極的な意味でのappropriation(盗用)はある。批判的な意味で行われる。
極端な話、見た目もサイズもまったく一緒の作品が存在しても
コンテクストが違うなら、別の作品。パクリでもなんでもない。
まったく違う文化圏にいても、自分らしさを突き詰めた作品であっても他人の作品に結果的に似てしまうこともある。ほとんどのアイディアには先駆者がいるし、やりつくされた感はある。
もうすでに当然似たものが存在すると思ったほうがいい、だから事前に似た作品について調べる必要はあるし、referenceとして、その作品との自分の作品との違いや類似点について考える必要がある。
ぼくが、言いたいのは、デザインやクラフト(工芸)にはパクリがある。
真似できないような超絶技巧出でない限りは、同じものや似たコピーをつくることが出来てしまう。
それは、製品であり、物だからだ。
でもアートにはパクりは無い。なぜならアート=コンテクストだからだ。コンテクストは真似できない。作品の「見た目」がアートなのではない。だから、見た目をパクラレタ!俺のアイディアだ!と言っている奴は、アートを分かっていない。単純なアイディアなら、先駆者が世界中にいる。でも、まったく同じことはしていないはずだ。他人の作品のコンテクストは誰にも真似できないのだから。コンセプト以前に、作家の性別、年齢、国籍、学歴などもコンテクストである。作家の背景で作品の意味が変わってくる。そういった読み解き方をされないように作家の存在を表に出さないようなコンセプトの作品もあるくらいだ。最近では、作品とは観客の経験だ、その場で生成された人同士つながりだという作品も多い。まあ、そういうコンテクストなのだが。サイトスペシフィックやインタラクティブな経験など、作品の意味を流動させるシステムなのである、もはや模倣とは無縁である。
じゃあ、仮に見た目だけじゃなくて、コンテクストをパクられたらどうしよう?
では、パクられた同じコンテクストで同じ作品がつくれるだろうか?
必ず違う結論(作品)に到達するはずだ、その違いこそ「作家性」だといえるかもしれない。そしてコンテクストは作家の「自分性」から逃れられない。コンテクストを盗んだところで結局自分の作品に生かせるならいいけど、最高のほめ言葉「自分らしい作品」へとコンテクストを整形することは出来ないのではないだろうか。
そういうわけで、どんどん自分らしい作品をつくるがいいし、見た目をぱくられたくらいで目くじら立てる必要はないってことを言いたい。だって、そのぱくったアイディアでつくっても、君には勝てない。え?上手にぱくられたら困る?それは、その人より先にいい作品をつくるしかないんじゃないかなあ。
まあ、同じ先生の生徒が、同じような絵を描くとか、エゴン・シーレの画集を見せたらクラス中がエゴン・シーレだらけになった。芸大に合格した生徒の絵を予備校生が真似るなんてことはよく聞くけれど、自信を持って自分らしいものを作っていきたいものですね。
積極的な意味でのappropriation(盗用)はある。批判的な意味で行われる。
極端な話、見た目もサイズもまったく一緒の作品が存在しても
コンテクストが違うなら、別の作品。パクリでもなんでもない。
まったく違う文化圏にいても、自分らしさを突き詰めた作品であっても他人の作品に結果的に似てしまうこともある。ほとんどのアイディアには先駆者がいるし、やりつくされた感はある。
もうすでに当然似たものが存在すると思ったほうがいい、だから事前に似た作品について調べる必要はあるし、referenceとして、その作品との自分の作品との違いや類似点について考える必要がある。
ぼくが、言いたいのは、デザインやクラフト(工芸)にはパクリがある。
真似できないような超絶技巧出でない限りは、同じものや似たコピーをつくることが出来てしまう。
それは、製品であり、物だからだ。
でもアートにはパクりは無い。なぜならアート=コンテクストだからだ。コンテクストは真似できない。作品の「見た目」がアートなのではない。だから、見た目をパクラレタ!俺のアイディアだ!と言っている奴は、アートを分かっていない。単純なアイディアなら、先駆者が世界中にいる。でも、まったく同じことはしていないはずだ。他人の作品のコンテクストは誰にも真似できないのだから。コンセプト以前に、作家の性別、年齢、国籍、学歴などもコンテクストである。作家の背景で作品の意味が変わってくる。そういった読み解き方をされないように作家の存在を表に出さないようなコンセプトの作品もあるくらいだ。最近では、作品とは観客の経験だ、その場で生成された人同士つながりだという作品も多い。まあ、そういうコンテクストなのだが。サイトスペシフィックやインタラクティブな経験など、作品の意味を流動させるシステムなのである、もはや模倣とは無縁である。
じゃあ、仮に見た目だけじゃなくて、コンテクストをパクられたらどうしよう?
では、パクられた同じコンテクストで同じ作品がつくれるだろうか?
必ず違う結論(作品)に到達するはずだ、その違いこそ「作家性」だといえるかもしれない。そしてコンテクストは作家の「自分性」から逃れられない。コンテクストを盗んだところで結局自分の作品に生かせるならいいけど、最高のほめ言葉「自分らしい作品」へとコンテクストを整形することは出来ないのではないだろうか。
そういうわけで、どんどん自分らしい作品をつくるがいいし、見た目をぱくられたくらいで目くじら立てる必要はないってことを言いたい。だって、そのぱくったアイディアでつくっても、君には勝てない。え?上手にぱくられたら困る?それは、その人より先にいい作品をつくるしかないんじゃないかなあ。
まあ、同じ先生の生徒が、同じような絵を描くとか、エゴン・シーレの画集を見せたらクラス中がエゴン・シーレだらけになった。芸大に合格した生徒の絵を予備校生が真似るなんてことはよく聞くけれど、自信を持って自分らしいものを作っていきたいものですね。
Artがない話
今回は日本育ちのアーティストへけんかをふっかけるような内容です。
うんと、言いにくいですが、
日本にはアートはありません。歴史上も
(この辺は、文明開化、殖産興業、フェノロサ、岡倉天心とかを調べて見てください)。
技術重視の古典的で自律的なアートでも、哲学がないと、Artじゃない。黎明期の日本洋画壇の苦悩の根源には、ヨーロッパのアート哲学を一朝一夕には会得できなかったことがあるわけですが、どれほど改善されたのでしょうか。そして、時代は移ろい、現代アートは観客(意味を分かってくれる人または対立する人)がいて成立するようになりました。存在理由として社会との関わりも必要になりました。アートは一回死んで、社会と人々と交わり始めたのです。
アートってかっこいいことでもオシャレなことでもない。
日本の若い人にとって、アートっておしゃれみたいな捉え方もあると思います。
イギリスも、そういう側面もあるよでもでもアーティストは冷静に糞まみれさ。そういう意味で高尚さ。おしゃれな人もいていいけど、ホームレスと間違われるような人でもいい。
おかまでも、ゲイでも、レズビアンでも、差別主義者でも、犯罪者でもいい。
Artをちゃんとやってるならば、いつだって Coolさ。
あと作家がだれかなんてどうでもいい。
作品が気に入れば、もしくは作品がとても気に入らなくても忘れられなければ、
あなたにとっていい作品だ。作家なんてカンケーないぜ。だって、本人でも嫌いな絵も作品もあるんだぜ。自分の好きな一枚を見つけよう。
好きなアーティストなんて見つけるな。作家の個人情報なんて気にしないで、作品をちゃんと見よう。作家で作品を見ているようでは、やっとモダニズムの気配です。
50年遅れてる。
日本のアートが認知されたのは事実だけど、
日本由来の固有種として発見された新種のシカみたいなもんだ。
東南アジアの田舎で少数民族が作っている民芸みたいなもんだ。文化人類学的には。
万博のジャポニズムブームなみの内容の無さだし表層、まさにスーパーフラット。。。
言いたいことなんてない!という開き直りさえ感じる。
はっきりいって、コンテクストの開発は海外経験組が引っ張っている。
指摘されるプレゼン力の弱さだけど、どう説明すれば外人が納得するのか理解するかを理解することが必要なので、海外で個人主義ベースの論理的思考を学ぶ必要があるのだと思う。だからといって、凱旋帰国した日本人アーティストを巡回してもなあ。
ヨーロッパと日本の一番の違いは、観客だとよく言われる。一方的なコミュニケーションにさらされても「そういうものとして」受け入れてしまう日本人気質に問題がありそう。これが、馬鹿アーティストをのさばらせる原因になっていると思う。あなたがおかしいと思ったら、おかしい。専門的な知識やアートの歴史を知らなくっても、自分目線の鑑賞は出来るはず。
あ、そうだ日本人がみんな外人みたいにわからずやで個人的になればいいんじゃないでしょうか。とりあえず他人を見るの止めてみよう、空気読むのやめよう。自分はどう思うのかを追求しよう。どんどん自分勝手になっていけば、「個人」が見えてくるはずだ。何をやってもいいんだって空気が必要だ。だからって、理由無く人を傷つけたり自由は履き違えないで欲しい。
自分を大切にアートと向かい合ってみる。そうすれば、身の回りのアートに気づくのではないでしょうか。こういう観客には、半端な作品では通用しないはず。
2009年9月19日土曜日
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.5 大巻伸嗣 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。
蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。
蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.4 蜷川実花 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.4として蜷川実花の今回の展示について。
写真を周囲の壁に配置。センターにある「部屋」の床にちらばる(没)スライドフィルムを貼付けられたアクリルの断片。全体としてそれっぽい感じにしてあるが、関連も薄いし。空間を頂いたのでなんとか埋めた感があります。アートとしてのコンテクストは解読不能でした。花がいっぱいです。Carl Zweissレンズの発色とかVIVID系のフィルムが好きな人って、ヒョウ柄が似合う気がした。
但し、世界でもこの世代の女性作家(ヴァーホーベンとか)は、「毒」のある作品をつくる傾向がある。それらをグロテスクや「おぞましいもの」などとアート界では言われている。観客をやや不快にすることによって、きれいでうつくしい「女性」という殻から脱却を計るフェミニズム的な抵抗がそこにはあると私は理解している。蜷川氏の色彩感覚は男性を寄せ付けない強さがある。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.4として蜷川実花の今回の展示について。
写真を周囲の壁に配置。センターにある「部屋」の床にちらばる(没)スライドフィルムを貼付けられたアクリルの断片。全体としてそれっぽい感じにしてあるが、関連も薄いし。空間を頂いたのでなんとか埋めた感があります。アートとしてのコンテクストは解読不能でした。花がいっぱいです。Carl Zweissレンズの発色とかVIVID系のフィルムが好きな人って、ヒョウ柄が似合う気がした。
但し、世界でもこの世代の女性作家(ヴァーホーベンとか)は、「毒」のある作品をつくる傾向がある。それらをグロテスクや「おぞましいもの」などとアート界では言われている。観客をやや不快にすることによって、きれいでうつくしい「女性」という殻から脱却を計るフェミニズム的な抵抗がそこにはあると私は理解している。蜷川氏の色彩感覚は男性を寄せ付けない強さがある。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.3 名知聡子 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.3として名知聡子の今回の展示について。
巨大な女性のポートレイトに花が描いてありました。エアブラシで彩色してあってレースが貼付けてあります。コンテクストは読めませんが奇麗でした。
ミュシャの絵かタロットカードみたいなタッチのシリーズはスタイルが違うので一緒に展示しない方が良かったと思います。はい次
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.3として名知聡子の今回の展示について。
巨大な女性のポートレイトに花が描いてありました。エアブラシで彩色してあってレースが貼付けてあります。コンテクストは読めませんが奇麗でした。
ミュシャの絵かタロットカードみたいなタッチのシリーズはスタイルが違うので一緒に展示しない方が良かったと思います。はい次
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.2 石元泰博 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.2として。モネのペィンティングと、石元康博撮影のモネ晩年の「睡蓮」の写真について。
入ってすぐのコーナにモネの若いころの風景画が飾られています。隣の小空間にモネの中くらいの「睡蓮」と、「風景画」が展示されています。地方の美術館がこれだけのモネを揃えるのは奇跡だそうです。緑の風景だけではなく、崖の絵もあったりして。。。せっかくの企画展のなのに、企画側の苦労が見えるようで悲しいし、選ばずに展示したようで下品なので、展示は緑の風景画と睡蓮に絞るべきだったのではないでしょうか。名知聡子のスペースでも感じたことですが、数が多ければいい訳ではありません。
さて、モネの油絵の展示の次は、石本泰博の撮影によるモネ晩年の睡蓮のカラー写真である。石元泰博の名前は、企画展のタイトルには無いことで他の作家との差別化は図られてはいるが、展示の扱いは同格以上であるので私としては批評させていただくことにした。3点一組縦2メートル、幅12メートルの巨大な写真は、ニューヨーク近代美術館が所蔵する睡蓮の原寸大の大きさで、国立国際美術館が1980年に「教育展示」目的で撮影を依頼したものだそうだ。そして残りの壁3面に、クローズアップされた細部の写真が配置されてる。モネの筆遣いと、色の重なり具合がまるで抽象絵画のように見える。
展示の表向きの意図としては、本物のモネの睡蓮を見たことがない方に、実物の大きさ感じてもらい。クローズアップされたディティールを見ることで、睡蓮の配置や配色から現代アートにも通じるような構成の美を見てほしいということだろう。また、モネの作品数を補い、今回の企画の導入として、モネの本物から、現代アートへの繋がりを見せるという狙いであろうか。次の名知聡子の作品との100年近い差、つまり「美術の死」以前の作品と、現代アートとの断絶を嫌味に見せているように見えないこともない。
残念な点としては、
長い間議論されていて、今日も多くの画家にとっての命題である「絵画と写真の違い」の説明責任は、作品の中にもキュレーションにおいても言及されていない。もともと石本の写真は教育展示用の「資料」なのであって、アート作品ではないのだとしてもだ。実寸大の代替品としていうこと以外の展示理由が不明瞭だ。確かに石元の名はこの企画展のタイトルから除外されている。それならば、作品として同格の扱いをしてはいけないのではないか。今回、展示スペースは区切られてはいるが、ほかの現代作家の作品と同等に並べたのは不味かったように思う。写真の「睡蓮」は地方の一美術館にとしてはは苦肉の策か、親切心の出来心だったかもしれないが。
自分にとってのモネとは、
上京してすぐに、国立西洋美術館で「睡蓮」に感動して、半日ずーっと眺めていたことがある。なぜなら、自分が子供の時にずっとあこがれていた「本物」の絵画だったからだ。自分が絵画を楽しんで描いている時に「本物」を見たかった。後にも先にも、このときほど東京の人が羨ましかったことはない。
そして、「睡蓮」は留学先のロンドンのTATEにもあるし、ほんとに世界の美術館はモネの巨大な睡蓮だらけである。モナリザは一点しかないが、睡蓮はたくさんある。睡蓮は、熊本では国宝級の扱いかもしれないが、大量生産絵画なのだ。画家は、同じような作品を同時に描くものだ。ゴッホのヒマワリですら7点あったらしい(6点現存)。自分でも油絵を描けば、あらためてセザンヌに学ぶことはたくさんあるがモネには無い。
ただし、本物に触れる機会は必要だとは思うし、自分が好きな作家ではなくとも、かつてモネの本物に感動したことは忘れない。この写真によるプアマンズモネは(他の作品との同格の扱いから見ても)代替品になってしまっているので、モネの睡蓮との「違い」を自己主張をして欲しかったし、キュレーション側にはもっと明確に展示意図を作り出してほしかったように思う。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.2として。モネのペィンティングと、石元康博撮影のモネ晩年の「睡蓮」の写真について。
入ってすぐのコーナにモネの若いころの風景画が飾られています。隣の小空間にモネの中くらいの「睡蓮」と、「風景画」が展示されています。地方の美術館がこれだけのモネを揃えるのは奇跡だそうです。緑の風景だけではなく、崖の絵もあったりして。。。せっかくの企画展のなのに、企画側の苦労が見えるようで悲しいし、選ばずに展示したようで下品なので、展示は緑の風景画と睡蓮に絞るべきだったのではないでしょうか。名知聡子のスペースでも感じたことですが、数が多ければいい訳ではありません。
さて、モネの油絵の展示の次は、石本泰博の撮影によるモネ晩年の睡蓮のカラー写真である。石元泰博の名前は、企画展のタイトルには無いことで他の作家との差別化は図られてはいるが、展示の扱いは同格以上であるので私としては批評させていただくことにした。3点一組縦2メートル、幅12メートルの巨大な写真は、ニューヨーク近代美術館が所蔵する睡蓮の原寸大の大きさで、国立国際美術館が1980年に「教育展示」目的で撮影を依頼したものだそうだ。そして残りの壁3面に、クローズアップされた細部の写真が配置されてる。モネの筆遣いと、色の重なり具合がまるで抽象絵画のように見える。
展示の表向きの意図としては、本物のモネの睡蓮を見たことがない方に、実物の大きさ感じてもらい。クローズアップされたディティールを見ることで、睡蓮の配置や配色から現代アートにも通じるような構成の美を見てほしいということだろう。また、モネの作品数を補い、今回の企画の導入として、モネの本物から、現代アートへの繋がりを見せるという狙いであろうか。次の名知聡子の作品との100年近い差、つまり「美術の死」以前の作品と、現代アートとの断絶を嫌味に見せているように見えないこともない。
残念な点としては、
長い間議論されていて、今日も多くの画家にとっての命題である「絵画と写真の違い」の説明責任は、作品の中にもキュレーションにおいても言及されていない。もともと石本の写真は教育展示用の「資料」なのであって、アート作品ではないのだとしてもだ。実寸大の代替品としていうこと以外の展示理由が不明瞭だ。確かに石元の名はこの企画展のタイトルから除外されている。それならば、作品として同格の扱いをしてはいけないのではないか。今回、展示スペースは区切られてはいるが、ほかの現代作家の作品と同等に並べたのは不味かったように思う。写真の「睡蓮」は地方の一美術館にとしてはは苦肉の策か、親切心の出来心だったかもしれないが。
自分にとってのモネとは、
上京してすぐに、国立西洋美術館で「睡蓮」に感動して、半日ずーっと眺めていたことがある。なぜなら、自分が子供の時にずっとあこがれていた「本物」の絵画だったからだ。自分が絵画を楽しんで描いている時に「本物」を見たかった。後にも先にも、このときほど東京の人が羨ましかったことはない。
そして、「睡蓮」は留学先のロンドンのTATEにもあるし、ほんとに世界の美術館はモネの巨大な睡蓮だらけである。モナリザは一点しかないが、睡蓮はたくさんある。睡蓮は、熊本では国宝級の扱いかもしれないが、大量生産絵画なのだ。画家は、同じような作品を同時に描くものだ。ゴッホのヒマワリですら7点あったらしい(6点現存)。自分でも油絵を描けば、あらためてセザンヌに学ぶことはたくさんあるがモネには無い。
ただし、本物に触れる機会は必要だとは思うし、自分が好きな作家ではなくとも、かつてモネの本物に感動したことは忘れない。この写真によるプアマンズモネは(他の作品との同格の扱いから見ても)代替品になってしまっているので、モネの睡蓮との「違い」を自己主張をして欲しかったし、キュレーション側にはもっと明確に展示意図を作り出してほしかったように思う。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
2009年9月18日金曜日
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち 大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 - vol.1 展評 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
最初に、vol.1として、この企画展の総評から書こうと思います。
展覧会の主旨は、「モネと同時に現代美術を展示することで、現代美術が実は歴史と結びついていて刺激的で美しく、親しみやすいものであることを示し、さらに若い日本の作家と組み合わせることにより、モネの世界にも現代的な光を当て、新たな視点でみることを試みています。(フライヤーより抜粋)」とあるように、熊本という地方都市で、現代アートを楽しんでもらうために、「花」で知られる作家の中でも、よく知られた巨匠画家モネを手始めに、若手アーティストを紹介してアートを身近に感じてもらおうということのようです。
まず問題は「花・風景」というテーマです。花というのは固有名詞であり、文節の中に置かない限り意味も主張もありません。また、「風景」というのはアートでは大きなくくりでの主題であり、絵画の形式でもあります。つまり、この企画展は視覚的な「花」「風景」に重点を置いていて、花や風景の物性で繋がっただけでコンテクスト上の繋がりはないということです。現代アートをコンテクスト無しで楽しませることは、アートを身近に感じてもらうという意図をいくら尊重したとしても、軽視して良い問題ではありません。現代アートからコンテクストを取れば、話題性やファッション性以外には何も残らないと言っても過言ではありません。
モネの印象派絵画から、心象風景としての置き換えがなされています。。。。
なぜならば、アートを身近に感じるというのは、コンテクストの読み解き方を「教える」ことによって、現代アートを楽しんだり考えるきかけとすることが出来るようになるのです。コンテクストを見る習慣の無い日本での、企画展の良し悪しは「いかに現代アート普及させていくか」へどのようにアプローチしたか、達成できたかどうかにかかっているということです。
また、このおおざっぱな企画展の目的である、「新旧同時展示」を田舎で展示するためには、歴史も専門知識も必要しない視覚的快楽のある「美しい」アートを見せる必要があった。そのために「花」という括りが必要だということになったのでしょう、きっと。一見、野心的で熊本のレベルに合わせた安心できる企画のようですが、「アートの視覚性」という技術論以外では語るすべも無い甘皮へ執着してしまった点で、「アートを身近へと感じてもらう」という意義が灰燼に帰してしまったといえます。厳しいようですが、アートの歴史上も教育上でも価値のある企画ではないということです。企画展でコンテクストを考えるきっかけとしては、07年の森村泰昌の企画展「美の教室」での革新性が際立ってくるのではないのでしょうか。
次に、どうしてもモネを選んだ必然が見えてこなかった点。確かに、モネの風景画と水蓮には、「花」と「風景」があった。この企画展の英題は「Flowers and Landscape」なので、Inscape(内景)ではないのだろう。(名知の絵はInscapeだったけども。)だからといって、大巻のインスタレーションの色使いが阿蘇の自然からインスピレーションされているとしても、大巻のフィルターを通した主観的風景であって風景(Landscape)ではない。蜷川の写真は静物画に近い。彼女のインスタレーションもInscapeだ。あくまでモネは、風景画家である。招聘されたアーティストの作品はコンテクストでもモネと繋がっていない。3人の現代作家は、風景を再構成する目的のために作品を作っているわけではないからだ。モネの水面に写っているのは、庭に生える柳であって世界ではない。写っていたとしても、1900年初頭の風景である。それに比べたらセザンヌやマティスの絵画には、今見ても革新的な要素がある。それは、彼らが当時の伝統的な絵画の形式のなかで多様な挑戦を行っていたからだ。それに比べたらモネの革新は、心象的でドラマティックな風景を一見抽象絵画のように見えるようなコンポジションで表現したことにつきるが、抽象絵画ではない。知名度の点でモネを越える画家はいないかもしれないが、「花」というテーマにモネの水蓮は適さない。私は、「花」を意識してモネを見たことは無いし、見たとしても「風景」としてだった。「花」で考えるならば、ゴッホのひまわりは借りれないのかもしれないが、静物画で「花」へ挑んだ画家を選んだほうが、まとまりがあったのではないだろうか。また、名知の作品のレースようなディテールは、テキスタイルを多用したマティスの絵画を横に置くことによって、絵画の歴史の連続性を見せることが出来たかもしれない。
しかし、「花」や「風景」というテーマでもコンテクストを考えるようなキュレーションも出来るはずだ。「花」には、元来、人を魅了する美しさや香りがあり、あるときは妖艶でまたあるときは純粋な女性性の象徴でもある。ところが、今回のCAMKの展示室というホワイトキューブには、まったくの艶やかさもなく作品以外には「花」が無いというのはいかがなものか。全体の印象として静かで、地味に感じられた方が多かったのではないだろうか。今回、場所を使い切っていたのは、さすがはインスタのプロの大巻伸嗣でした。(他の作品:ペインティングは、絵画として使ってインスタレーションしないほうが良いですが。アート的には)。
そこで、「地味、つまんないぜ!」の改善策としては、もっと多くの作家を選んで、それぞれが今回ベストな1点ずつを持ち寄ることと、展示はランダムで動的な配置にしてリズムをつくることが必要。(理路整然とした花園なんて、畑だよ畑!つまんないよ!)。 作品ではなく作家で選んでしまったことで、企画展なのに、それぞれの作家が見せたいものを見せてしまった自分勝手なグループ展みたいになってしまったのではないだろうか。
プロジェクト型アーティストの、ぼくに企画が来ていれば、美術館の外に「巨大な花輪」をエスカレーターからエントランスまで並べていたと思います。パチンコ屋の新装オープンか?というぐらい派手に下品だけど、「デカイ花輪」にすることによって作品としての異質感をかもし出す。吸い寄せられた一般人に見るきっかけを与えて「アートを身近に感じる」ように。
一般人ホイホイ企画なのに、求心力が不足してはいけないと思うのです。
花や風景は、美しいだけじゃない。そういう驚きというインパクトが感動へと連なるし、コンテクストを読み解いたときの感動も味わえるような企画展にしてほしい。
p.s 展示室に入ってすぐに、ボールペンは禁止です鉛筆を使ってくださいといわれ、次の部屋でガム禁止です。吐き出してくださいと続けざまにいわれてだいぶテンションが下がりました。ガムはよくないけど、ペンぐらいいいんじゃないかな。イギリスなんて美術館の床ではガキがごろごろクレヨンもって書きなぐってるけどなあ。ガラスケースも柵もないし、作品より観客が主体なんだよ先進国は!「よりアートを身近にしたい」とかいっておいて、作品を触れられないようにして「崇める」姿勢はイカンよ。東ドイツのライプチヒも似た感じだったなあ。友達が走ったら監視員が走って追っかけてきたもんな。つまり、そういうの田舎ってことだから。作家にとってみたら作品ってさ、壊れたらまた作れるしへっちゃらなんだよー。いかに観客と作品の間に壁をつくらない展示を出来るかで、「本物」に触れられることへの意義が生まれるのです。観客との距離を注視しているアーティストは、故意にクオリティを下げたり、身近な材料からDIY的な普通の技術で作品を作るのです。近づけない「高尚さ」と、身近な「社会性」の葛藤自体は、アーティストだけではなく、アートを支える側にとっての課題でした。しかし、崇めないと自立できない作品の時代は終わりました。現代美術館を標榜するならば、主催者側が守るべきは作品の骨董的価値では無く、観客が「楽しむ」権利なのです。
p.s ここは、批評天国のイギリスではありませんから、ぼくの批評を「文句」とか「批判」だと感じられる方がおられたり気分を害されるかもしれませんが、あくまで「批評」ですのでご理解を頂きたい。「批評」なくしてアート無し、前進なしですから。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
2009年9月15日火曜日
言葉にならない
記号論では、記号化(言語化)されていないものは存在しないし、認識できないとされている。大雑把に言って、作品がなにかしらを視覚化した、もしくは何かしらを観客に引き起こす作用があるということは、作品そのものが「記号」のようなものであるといっても差し支えないだろう。つまりアート制作とは、非言語的な存在を視覚化するための新しい記号をつくる作業なのではないだろうか。安易にすべての作品が記号と決め付けているのではなく、アート作品が記号だという仮定で、制作における言語の機能について考えたい。
「言葉にはならないことを表現するのはアート」。
「私は口で説明したくないからアート作品を作っている」。
という人の多くが、言葉でまったく説明しない。気がする。
そこに見え隠れするのは、「言葉に出来ないことを作品として視覚化した」→「作品が表現したことは言葉では言い表せない」。という短絡的なロジックだ。どうせ、言語化できない、どうせ、作品の意味は観客が考えることだと。しかし、ここで議論をせずに「結論」を急ぎすぎてはアートは永遠に見えないなにかになってしまう。
日本的な議論のなかには、こうした極端に結論を求めるような公式が氾濫している。
結局、「それって何とかだよね」と、話を終わらせようとする。
しかしながらアートに終わりはないし、そんなに適当な結論であってはならない。
永遠の苦悩だし、悶絶だし葛藤だし、有機的で流動する生命の水のようなものであり、
絶対的でもないし感想まで一緒に想定され製品化された、物質ではない。
口で説明するのは無駄なことのようにおざなりになって、
言語的で論理的な思考は停止して、作品は非言語的て不確定な領域に飛んでいってしまう。
極めて批評が難しい領域だ。
口下手の言い訳として、この論理は使われる。
言葉では説明できないアーティストはプレゼンが下手だ。自分が何をつくったのか分かっていないからプレゼンできないのだ。
どうせ死ぬから今死んでも同じだなどと思って生きているのではない。
そこに何が再現されたのか、虚飾なのか実体なのか、ディティールによって具体されたことは何なのか。「何なのか」と疑問に思うことは、「新しい記号」を解読する作業であり、本質的な意味での「アートの鑑賞」だといえると思う。
アートは言葉ではいい表せないという事実と、
言葉そのものは「アート」を越えないというのは真実だとしても、
作り手の用意した「言葉」は記号となって、観客によって解読される。
作り手にとっての「言葉」の役割はなんであろうか。
アート制作に際しての言語的機能としてコンセプトやコンテクストがある。
コンセプトを組み立てるのにはアイディアを言語化する必要があり、
コンセプトは純然たる言葉で、その結果として生まれるのが作品だ。
視覚的な部分から掘り下げて行くのではなく、
コンセプトの論理的発展から作品が展開していくのだ。
コンセプチャルに作品を考える事は、論理的思考という新しい窓をひらく行為だ。
「AはBである。なのでBはCである、そこで私はAをCだとしたのだ」といったようなのが基本的なコンセプトのロジックだ。外国人は、これを作品から理解しようとする。
よくある、作品の横のポエムめいた散文か、呪文のように難解な説明。
タイトルや隠喩的な説明も後付されているかのようで、
重みがない。また、評論家による作品の評論も、ぼくはこうボケてみました的な解釈能力を生かした解釈論であって、プロフェッショナルな批評を見たことが無い。
ペテン師の戯言を聞いているかのようで作品を曇りガラスで囲ってしまう。
そもそも作品によって、なにが起こったかなんて
副次的でアーティストにはコントロールできない領域だから、
作り手や評論家が後で語る必要はないし、無い物を高らかに吹聴するような
装飾のための言葉は添付するべきではないだろう。
自分の目で、そこにある作品をみることの邪魔になる。
アーティストは言葉で考えて作品をつくり、
観客は自分が思ったことを論理的な文章に変換してみることで、
双方がアートらしくなる。
作家は、そういう視線を後ろに感じながら制作せざるをえない。
アーティストにとって、言葉で言えるだけ語って、考えられるだけ悩んででた「言葉」が作品の実体なのではなかろうか。
ようやく、コンテクストのある作品が用意される。観客は「?」を解読する。
そうして作品は語りはじめる。
「言葉にはならないことを表現するのはアート」。
「私は口で説明したくないからアート作品を作っている」。
という人の多くが、言葉でまったく説明しない。気がする。
そこに見え隠れするのは、「言葉に出来ないことを作品として視覚化した」→「作品が表現したことは言葉では言い表せない」。という短絡的なロジックだ。どうせ、言語化できない、どうせ、作品の意味は観客が考えることだと。しかし、ここで議論をせずに「結論」を急ぎすぎてはアートは永遠に見えないなにかになってしまう。
日本的な議論のなかには、こうした極端に結論を求めるような公式が氾濫している。
結局、「それって何とかだよね」と、話を終わらせようとする。
しかしながらアートに終わりはないし、そんなに適当な結論であってはならない。
永遠の苦悩だし、悶絶だし葛藤だし、有機的で流動する生命の水のようなものであり、
絶対的でもないし感想まで一緒に想定され製品化された、物質ではない。
口で説明するのは無駄なことのようにおざなりになって、
言語的で論理的な思考は停止して、作品は非言語的て不確定な領域に飛んでいってしまう。
極めて批評が難しい領域だ。
口下手の言い訳として、この論理は使われる。
言葉では説明できないアーティストはプレゼンが下手だ。自分が何をつくったのか分かっていないからプレゼンできないのだ。
どうせ死ぬから今死んでも同じだなどと思って生きているのではない。
そこに何が再現されたのか、虚飾なのか実体なのか、ディティールによって具体されたことは何なのか。「何なのか」と疑問に思うことは、「新しい記号」を解読する作業であり、本質的な意味での「アートの鑑賞」だといえると思う。
アートは言葉ではいい表せないという事実と、
言葉そのものは「アート」を越えないというのは真実だとしても、
作り手の用意した「言葉」は記号となって、観客によって解読される。
作り手にとっての「言葉」の役割はなんであろうか。
アート制作に際しての言語的機能としてコンセプトやコンテクストがある。
コンセプトを組み立てるのにはアイディアを言語化する必要があり、
コンセプトは純然たる言葉で、その結果として生まれるのが作品だ。
視覚的な部分から掘り下げて行くのではなく、
コンセプトの論理的発展から作品が展開していくのだ。
コンセプチャルに作品を考える事は、論理的思考という新しい窓をひらく行為だ。
「AはBである。なのでBはCである、そこで私はAをCだとしたのだ」といったようなのが基本的なコンセプトのロジックだ。外国人は、これを作品から理解しようとする。
よくある、作品の横のポエムめいた散文か、呪文のように難解な説明。
タイトルや隠喩的な説明も後付されているかのようで、
重みがない。また、評論家による作品の評論も、ぼくはこうボケてみました的な解釈能力を生かした解釈論であって、プロフェッショナルな批評を見たことが無い。
ペテン師の戯言を聞いているかのようで作品を曇りガラスで囲ってしまう。
そもそも作品によって、なにが起こったかなんて
副次的でアーティストにはコントロールできない領域だから、
作り手や評論家が後で語る必要はないし、無い物を高らかに吹聴するような
装飾のための言葉は添付するべきではないだろう。
自分の目で、そこにある作品をみることの邪魔になる。
アーティストは言葉で考えて作品をつくり、
観客は自分が思ったことを論理的な文章に変換してみることで、
双方がアートらしくなる。
作家は、そういう視線を後ろに感じながら制作せざるをえない。
アーティストにとって、言葉で言えるだけ語って、考えられるだけ悩んででた「言葉」が作品の実体なのではなかろうか。
ようやく、コンテクストのある作品が用意される。観客は「?」を解読する。
そうして作品は語りはじめる。
2009年7月25日土曜日
アートとリアリティ Santiago Sierra
世の中はうわべだけでもちゃんとしなきゃいけない、ため息。そうだよ家に帰ったら、こんなに汚くって薄汚れていて暗くて苦しくて絶望しても誰も助けてくれないし、貧乏から這い上がることなんて想像もつかないし、自分の生活もままならないのに結婚とか家庭とか子供とか、誰かを幸せにしたいだとかそんなこと考えること出来なくって、は?アート?。アートはなんか社会に貢献してくれてんのか!はあ?仕事で忙しいのに完成度の低いゴミみたいな作品!こんなもん見せやがってふざけんな。なにがいいたいかわかんねえよ、社会経験もないしバイトもしたこと無いくせにな、世の中について語ってんじゃねえよお!
と思ってる人に、知ってほしい。見つけて欲しい、あなたと同じハートを持ったアーティストもいて、少しは気持ちを代弁してくれているかもしれないことを。しかも評価もされている。
はい。そういうわけで、今回は、Santiago Sierraを紹介します。スペイン人のスーパーアーティストです。ヴェネチアビエンナーレや国際的なエキシビジョンでも常連の巨匠です。
お金で乞食や売春婦を買って刺青いれたり、黒人の髪を金髪にしたり、インドのうんこ処理カーストの労働者にうんこで作品をつくらせて有名ギャラリーで高額で売ったりやりたい放題。しかもアーティストとして有名な自分は労働者が得るものより多くのお金を得ることが出来るわけです。金持ちや権力が、弱者から搾取するという資本主義の現実を端的に見せつけます。
僕が個人的に好きなのは、アイドリング中の車をギャラリーの中に用意して排気ガスを外に放出させる作品。つまり、環境汚染とかそういう点ではありますが、アートが「影響」を社会に与えているわけです。あとは、ヴェネチアビエンナーレのスペイン館でやったスペインのパスポート所持者以外への入場規制。もしくは展示スペースがレンガでブロックしてあって作品が見れないなど。きれいごとで差別は良くないだのなんだの言うけれど、国籍の問題だけではなく、他者へ閉鎖的にすることや人を区別して優遇したり冷遇したりなんてのは起きている。という「現実」をつきつけてきます。
Sierraは人を安易に楽しませるような作品は作ってない。彼の作品を見たら考えさせられたりムカついたり嫌な思いをするんじゃないかと。そうやって自分を悪者にして、アートでリアリティを追求してるヒューマニスト。あんまり偽善者ぽくもないのもエライですね。作品の見た目は汚くて猥褻なこともあるけれど、きれいなアートだと思いませんか?
と思ってる人に、知ってほしい。見つけて欲しい、あなたと同じハートを持ったアーティストもいて、少しは気持ちを代弁してくれているかもしれないことを。しかも評価もされている。
はい。そういうわけで、今回は、Santiago Sierraを紹介します。スペイン人のスーパーアーティストです。ヴェネチアビエンナーレや国際的なエキシビジョンでも常連の巨匠です。
お金で乞食や売春婦を買って刺青いれたり、黒人の髪を金髪にしたり、インドのうんこ処理カーストの労働者にうんこで作品をつくらせて有名ギャラリーで高額で売ったりやりたい放題。しかもアーティストとして有名な自分は労働者が得るものより多くのお金を得ることが出来るわけです。金持ちや権力が、弱者から搾取するという資本主義の現実を端的に見せつけます。
僕が個人的に好きなのは、アイドリング中の車をギャラリーの中に用意して排気ガスを外に放出させる作品。つまり、環境汚染とかそういう点ではありますが、アートが「影響」を社会に与えているわけです。あとは、ヴェネチアビエンナーレのスペイン館でやったスペインのパスポート所持者以外への入場規制。もしくは展示スペースがレンガでブロックしてあって作品が見れないなど。きれいごとで差別は良くないだのなんだの言うけれど、国籍の問題だけではなく、他者へ閉鎖的にすることや人を区別して優遇したり冷遇したりなんてのは起きている。という「現実」をつきつけてきます。
Sierraは人を安易に楽しませるような作品は作ってない。彼の作品を見たら考えさせられたりムカついたり嫌な思いをするんじゃないかと。そうやって自分を悪者にして、アートでリアリティを追求してるヒューマニスト。あんまり偽善者ぽくもないのもエライですね。作品の見た目は汚くて猥褻なこともあるけれど、きれいなアートだと思いませんか?
2009年7月21日火曜日
Artは学問≠技術
日本ではアートは学問だとは思われてない。美術で学問といったら、美術史っぽい気がするけど、美術史は歴史学の一分野であり、ぼくが学んだアートとは本質が違う。
ヨーロッパではずーっと学問だったのに、鎖国を解いてFine Art(ファインアート)が美術と翻訳されて以来の失態だ。殖産興業のなかで、模倣すべき進歩した科学技術のようなものの一つとして西洋美術は翻訳され導入されてしまったのだ。ファインアートにおける哲学の重要性は日本人の美術関係者の間で認識されていたが、「大人」を短期間留学させたところで本格的な哲学を理解できるわけが無かった(言語の問題もあるだろう、言葉なくして哲学をどう理解するのだ)。
アカデミックなアート、ファインアートはれっきとした学問だ。勉学だ。知性だ。教養だ。実学ではない。ファインアートを教えているヨーロッパの大学では技術的な授業はない。作って発表したり議論する。自分で美学、哲学をセルフスタディして、論文担当の博士と議論しながら論文を書く。それだけだ。討論はするがグループワークはしない。人手が必要で助けてもらったりクオリティをあげる為にプロを雇ったりはするが、作品のすべてを指揮するのは自分だ。ファインアートの場合は技術を身につけるために大学に行くのではないのである。実質は、自分の興味のある科目を選び知識を増やし論文を書くといったら、通常の文系学部に近いだろう。哲学、文学、文化人類学、社会学は兄弟姉妹ようなもので、それに比べたらデザインやクラフト(工芸)は従兄弟か異母兄弟。従兄弟って見た目は似てるけど、素養は自分と違うっしょ。(デザイナーが哲学的にアプローチしたならば、それはアートに近い。それでもイコールではない)
技術=アートじゃなくってコンテクスト=アート。
かつて、Arthur C Dantoがアンディ=ウォーホールの作品を批評して、「作品(作家ではなく)が持つバックグラウンドやコンテクストがアート」だと言いました。つまり視覚性よりも、目の前の作品の「存在」について観客は考えるようになり、技術は作品を「見える」ようにするための手段となった。
だから、投入された超絶技巧がその作品のコンテクストを超えることはむなしい。
中身の不在な作品の技巧は虚飾であり、理由無き表現や技はまやかしだ。
当たり前だが、コンテクストを読めなくては現代アートは楽しめない。
ぱっと見た目だけで楽しめるものは少ない。極端なフェミニストの女性作家達は男性に居心地の悪い作品をつくっている。最先端のアートは多くがガラクタでありアンモニュメンタルで物質化されていない。観客にとっては「体験」が作品ということになっているからだ。スクラップを前に何だろうと考えることからそれらの鑑賞は始まる。
日本で「受ける」作家と海外で「受ける」作家の違いは、日本人はコンテクストを読めない、もしくは読む習慣がないので、視覚的な快楽や「作家の肩書き」が重視される(権威を見せつけて視覚的に客を騙せばいい)。専門用語やポエティックな言い回しでごまかすことがアートっぽいと思われている。観客から突っ込みも浅い。
海外では、コンテクストを楽しむことが当然なので、作品は表層から離れて「本質的」な存在として用意される(哲学的に観客を騙せばいい、知的ゲーム)。突っ込まれることを想定した論理的コンセプトが必要。仮定した推論したことを作品のなかで実証として見せる。なのでプロセスも重視される。
コンテクストの在り方の話を進めると、作品それ自体も視覚的な「言語」といえる、、
一般的に「言いたいことを自由に言う」手段として、アートは日本でも広く認知されていると思う。しかし、言いたいことの次元は個人的という点で限りなく崇高でなくてはならないし、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。それはコンテクストを観客に伝えるために、虚飾を排した純粋な表現が必要だからだ。だからといって厳格なミニマリストへなるよりは、DIY的で暖かな表現こそ現代の「崇高」だと私は考えるのだが。
りんご一個の作品が持てるコンテクストの量には限界があるけれど、そのりんごから個人へ伝わることに限界はない。欧米のアーティストはよくしゃべるが、作品で全部言うことはできないことを知っている。いいたいことがいっぱいあるのに考えに考えて、選びに選んだ表現の一端が作品だ。だからこそ観客に考えさせること本一冊分の価値があるし、表層を超えて作品を理解できたとき、脳に戦慄が走ったときに初めて感動したり、本当に腹が立ったりする。作品が分かったとき、ホワイトキューブも野外も関係なくなって、アーティストと観客は超現実世界で対峙することが出来る、それが本格的なアートの楽しみだ。
もし、作り手も観客もアートの「アカデミック」な面を無視しているのならコンテクストの愉しみに触れることはできないだろう。学問だから、学ばなくてはならないが。。。。
ヨーロッパではずーっと学問だったのに、鎖国を解いてFine Art(ファインアート)が美術と翻訳されて以来の失態だ。殖産興業のなかで、模倣すべき進歩した科学技術のようなものの一つとして西洋美術は翻訳され導入されてしまったのだ。ファインアートにおける哲学の重要性は日本人の美術関係者の間で認識されていたが、「大人」を短期間留学させたところで本格的な哲学を理解できるわけが無かった(言語の問題もあるだろう、言葉なくして哲学をどう理解するのだ)。
アカデミックなアート、ファインアートはれっきとした学問だ。勉学だ。知性だ。教養だ。実学ではない。ファインアートを教えているヨーロッパの大学では技術的な授業はない。作って発表したり議論する。自分で美学、哲学をセルフスタディして、論文担当の博士と議論しながら論文を書く。それだけだ。討論はするがグループワークはしない。人手が必要で助けてもらったりクオリティをあげる為にプロを雇ったりはするが、作品のすべてを指揮するのは自分だ。ファインアートの場合は技術を身につけるために大学に行くのではないのである。実質は、自分の興味のある科目を選び知識を増やし論文を書くといったら、通常の文系学部に近いだろう。哲学、文学、文化人類学、社会学は兄弟姉妹ようなもので、それに比べたらデザインやクラフト(工芸)は従兄弟か異母兄弟。従兄弟って見た目は似てるけど、素養は自分と違うっしょ。(デザイナーが哲学的にアプローチしたならば、それはアートに近い。それでもイコールではない)
技術=アートじゃなくってコンテクスト=アート。
かつて、Arthur C Dantoがアンディ=ウォーホールの作品を批評して、「作品(作家ではなく)が持つバックグラウンドやコンテクストがアート」だと言いました。つまり視覚性よりも、目の前の作品の「存在」について観客は考えるようになり、技術は作品を「見える」ようにするための手段となった。
だから、投入された超絶技巧がその作品のコンテクストを超えることはむなしい。
中身の不在な作品の技巧は虚飾であり、理由無き表現や技はまやかしだ。
当たり前だが、コンテクストを読めなくては現代アートは楽しめない。
ぱっと見た目だけで楽しめるものは少ない。極端なフェミニストの女性作家達は男性に居心地の悪い作品をつくっている。最先端のアートは多くがガラクタでありアンモニュメンタルで物質化されていない。観客にとっては「体験」が作品ということになっているからだ。スクラップを前に何だろうと考えることからそれらの鑑賞は始まる。
日本で「受ける」作家と海外で「受ける」作家の違いは、日本人はコンテクストを読めない、もしくは読む習慣がないので、視覚的な快楽や「作家の肩書き」が重視される(権威を見せつけて視覚的に客を騙せばいい)。専門用語やポエティックな言い回しでごまかすことがアートっぽいと思われている。観客から突っ込みも浅い。
海外では、コンテクストを楽しむことが当然なので、作品は表層から離れて「本質的」な存在として用意される(哲学的に観客を騙せばいい、知的ゲーム)。突っ込まれることを想定した論理的コンセプトが必要。仮定した推論したことを作品のなかで実証として見せる。なのでプロセスも重視される。
コンテクストの在り方の話を進めると、作品それ自体も視覚的な「言語」といえる、、
一般的に「言いたいことを自由に言う」手段として、アートは日本でも広く認知されていると思う。しかし、言いたいことの次元は個人的という点で限りなく崇高でなくてはならないし、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。それはコンテクストを観客に伝えるために、虚飾を排した純粋な表現が必要だからだ。だからといって厳格なミニマリストへなるよりは、DIY的で暖かな表現こそ現代の「崇高」だと私は考えるのだが。
りんご一個の作品が持てるコンテクストの量には限界があるけれど、そのりんごから個人へ伝わることに限界はない。欧米のアーティストはよくしゃべるが、作品で全部言うことはできないことを知っている。いいたいことがいっぱいあるのに考えに考えて、選びに選んだ表現の一端が作品だ。だからこそ観客に考えさせること本一冊分の価値があるし、表層を超えて作品を理解できたとき、脳に戦慄が走ったときに初めて感動したり、本当に腹が立ったりする。作品が分かったとき、ホワイトキューブも野外も関係なくなって、アーティストと観客は超現実世界で対峙することが出来る、それが本格的なアートの楽しみだ。
もし、作り手も観客もアートの「アカデミック」な面を無視しているのならコンテクストの愉しみに触れることはできないだろう。学問だから、学ばなくてはならないが。。。。
2009年7月13日月曜日
「批評」ってなんだ
そもそも「批評」ってなんでしょう。英語だと、アートの批評をcriticism、批評家をcriticと呼びます。評論は、解釈という意味の interpretation、そして評論家はinterpreter。皮肉に言えば、勝手に作品を解釈することということになります。
美術評論家は聞きなじみが少しはあるけれど、美術批評家ってすごくマイナーな存在ではないでしょうか(そもそも「アーティスト」がミュージシャンを指す国だ。岡本太郎の明日への神話の式典でゲストアーティストとして呼ばれたのがすべてミュージシャン!)。日本では、アートを学問的に学ぶには、美術史を学ぶ事になりますが、最新のアート理論は教える側が追いつかなくって学べていないのです。しかも美術史家でも学芸員でもなくコンテンポラリーアートの批評をするにはさらなる勉強と知識が必要ですが、日本では個人主義に深く根ざした欧米のアート哲学は学べません。欧米ではアートは技術ではなく学問なのです、形態としては哲学に近いが異なる。そういうわけで、日本には自分を批評家と名乗れる専門教育を受けたプロが少ないのです。
まず、私がこ のblogを執筆していくにあたってまず否定したいのは、評論が作品の意味を補完する日本の体質です。アート以外の知識と縦横無尽な引用と勝手な解釈を売 り物にした文章が多すぎる。例えるならば、日本のアートと評論の関係はバカップルのようなものだと言えるでしょうか。端から見ていて寒い、ふたりの世界の特殊言語は理解不能、しかも実はそれほど分かり合えてはいない。そういう感じ。。。
確かに、不幸なかたちの西洋アートとの出会い、全体主義的な風土と日本語という曖昧な言語も、批評を育たなくしてきた理由のひとつだと思います。私は日本固有の良さは否定しませんし、私は根っからの日本人だし日本が好きです。でも無責任な作品も、曖昧な文章も「日本的」だといったん認めつつ本格的なアートの登場を促進したいというのが動機です。参考にしていただければうれしいです。
アートにおける批評は非常に大事なことです。ヨーロッパやアメリカでは批評家だけではなくアーティスト自身も自他問わずに作品について批評を行います。自分が何をつくったのか、アーティストは責任を持つ必要があるからです。つくった理由も言いたい事も必ずあるからです。そんなの観た人の解釈だとうやむやにしないこと、つまり自分に対する批判的な視点もアーティストの条件なのです。そして、美術批評家は何をするのかといえば、簡単にいうと作品(作家ではない)を批判します。常識として、アート作品とは何かを否定する新しいものですし、意見や提案ようなものです。そして反対意見はかならず同時に多数が存在するのです。すべての人が自分の意見を持っていて、それを自由に発言することが、個人主義ベースの欧米では自然で民主的な行為なのです。また、たとえ自分がその作品が好きでも、批判的に読み解く行為は作家に取ってもアート界にとっても有益なのです。批評は批判ではないし、けっして「いちゃもん」をつけているわけではないのです。ディベートを行った事があるかたなら分かると思いますが、yes or no、agree or disagreeを越えて論理的に批評することは身近な問題であればどちら側についても行えるし、より深く考える上で有益な行為だと思われたと思います。批評無くしてアート無しといえるでしょう。
もし日本のアーティストは無責任につくりっぱなし、評論家は解釈のセンスだけでめちゃくちゃな事を言うだけだとしたら見てられない。でも日本にも海外で評価されている芸術家がいるじゃないか!って? 日本のアートは海外では「日本のアート」として認められているのです(そういうアートはその国の固有(文化)のものなのでこれも欧米からは批評の対象にはならない)。この点、欧米在住の日本人アーティストは欧米の文法で作品を発表していますので、批評するに値します。 例えば、欧米では杉本博さんの作品を「日本的」アートだとは誰も見ていません。「日本的 (really japanese)」だと言われたく無いなら杉本さんみたいにコンセプトから作品をつくる方法を用いるべきでしょう。一方、村上さんは自身の作品の文化的背景を欧米で説明するためにスーパーフラットを発表しました。自分の作品が日本独自の伝統的スタイルを継承していることを説明して作品の後ろ盾にしました。だからスーパーフラットへの批評は日本人にしか出来ないのですが。
日本は外向きのアーティストにとっては甘ったれた最悪の環境なのだけど、
アートを良くしていくには、アーティストは閉じこもらないで逃げないで甘えないで勘違いしないで諦めないでつくることを続けなくてはならない。批評家は知識と愛情を持って徹底的に「作品」を批評しなくてはいけません。アートは逃げ込む場所ではなく開かれた場所、開かれた感性との議論の場なのですから。
美術評論家は聞きなじみが少しはあるけれど、美術批評家ってすごくマイナーな存在ではないでしょうか(そもそも「アーティスト」がミュージシャンを指す国だ。岡本太郎の明日への神話の式典でゲストアーティストとして呼ばれたのがすべてミュージシャン!)。日本では、アートを学問的に学ぶには、美術史を学ぶ事になりますが、最新のアート理論は教える側が追いつかなくって学べていないのです。しかも美術史家でも学芸員でもなくコンテンポラリーアートの批評をするにはさらなる勉強と知識が必要ですが、日本では個人主義に深く根ざした欧米のアート哲学は学べません。欧米ではアートは技術ではなく学問なのです、形態としては哲学に近いが異なる。そういうわけで、日本には自分を批評家と名乗れる専門教育を受けたプロが少ないのです。
まず、私がこ のblogを執筆していくにあたってまず否定したいのは、評論が作品の意味を補完する日本の体質です。アート以外の知識と縦横無尽な引用と勝手な解釈を売 り物にした文章が多すぎる。例えるならば、日本のアートと評論の関係はバカップルのようなものだと言えるでしょうか。端から見ていて寒い、ふたりの世界の特殊言語は理解不能、しかも実はそれほど分かり合えてはいない。そういう感じ。。。
確かに、不幸なかたちの西洋アートとの出会い、全体主義的な風土と日本語という曖昧な言語も、批評を育たなくしてきた理由のひとつだと思います。私は日本固有の良さは否定しませんし、私は根っからの日本人だし日本が好きです。でも無責任な作品も、曖昧な文章も「日本的」だといったん認めつつ本格的なアートの登場を促進したいというのが動機です。参考にしていただければうれしいです。
アートにおける批評は非常に大事なことです。ヨーロッパやアメリカでは批評家だけではなくアーティスト自身も自他問わずに作品について批評を行います。自分が何をつくったのか、アーティストは責任を持つ必要があるからです。つくった理由も言いたい事も必ずあるからです。そんなの観た人の解釈だとうやむやにしないこと、つまり自分に対する批判的な視点もアーティストの条件なのです。そして、美術批評家は何をするのかといえば、簡単にいうと作品(作家ではない)を批判します。常識として、アート作品とは何かを否定する新しいものですし、意見や提案ようなものです。そして反対意見はかならず同時に多数が存在するのです。すべての人が自分の意見を持っていて、それを自由に発言することが、個人主義ベースの欧米では自然で民主的な行為なのです。また、たとえ自分がその作品が好きでも、批判的に読み解く行為は作家に取ってもアート界にとっても有益なのです。批評は批判ではないし、けっして「いちゃもん」をつけているわけではないのです。ディベートを行った事があるかたなら分かると思いますが、yes or no、agree or disagreeを越えて論理的に批評することは身近な問題であればどちら側についても行えるし、より深く考える上で有益な行為だと思われたと思います。批評無くしてアート無しといえるでしょう。
もし日本のアーティストは無責任につくりっぱなし、評論家は解釈のセンスだけでめちゃくちゃな事を言うだけだとしたら見てられない。でも日本にも海外で評価されている芸術家がいるじゃないか!って? 日本のアートは海外では「日本のアート」として認められているのです(そういうアートはその国の固有(文化)のものなのでこれも欧米からは批評の対象にはならない)。この点、欧米在住の日本人アーティストは欧米の文法で作品を発表していますので、批評するに値します。 例えば、欧米では杉本博さんの作品を「日本的」アートだとは誰も見ていません。「日本的 (really japanese)」だと言われたく無いなら杉本さんみたいにコンセプトから作品をつくる方法を用いるべきでしょう。一方、村上さんは自身の作品の文化的背景を欧米で説明するためにスーパーフラットを発表しました。自分の作品が日本独自の伝統的スタイルを継承していることを説明して作品の後ろ盾にしました。だからスーパーフラットへの批評は日本人にしか出来ないのですが。
日本は外向きのアーティストにとっては甘ったれた最悪の環境なのだけど、
アートを良くしていくには、アーティストは閉じこもらないで逃げないで甘えないで勘違いしないで諦めないでつくることを続けなくてはならない。批評家は知識と愛情を持って徹底的に「作品」を批評しなくてはいけません。アートは逃げ込む場所ではなく開かれた場所、開かれた感性との議論の場なのですから。
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