2010年10月1日金曜日

山本基: MOTアニュアル2010

行ってもいないのに批評することは、ご批判を受けることと覚悟していますが、
このExhibitionの開催当時、東京にいなかったので行けませんでした。
ARTiTでの山本基へのインタービューや写真を見て思うことが多々あったので、
整理しつつ批評してみようと思います。

http://www.art-it.asia/u/admin_news/3sJeF7ElvRXAf0xtuVC9
(山本氏へのインタビュー動画なくなっちゃった。。。)

今回の「MOTアニュアル2010:装飾」展(2月6日(土)~4月11日(日))
「装飾」という造形形式を、時代の美意識を越えて個人の精神性を反映するものであるとして作家を幅広く集め、「装飾」された空間や作品によるexhibitionのようです。

作家それぞれが装飾的な作品によって表現していることは多種多様であるが、全体として社会を反映しているのではないか?ということなんでしょう。私も装飾とか文様はある種の世俗を反映しているのは確かだと思います。例えば、マティスなんて、当時のテキスタイルを正確に絵に描いているので彼の絵には資料的な価値もありますよね。ま、ここは今回はこれ以上はこのExhibitionのテーマには突っ込みません(見てないし)。
ただ、メディアとか表現手法の類似性で作品を括るのは止めて欲しいとは思う。個人的には、「装飾というのは飾りであって本体ではない」という点で、装飾それ自体にも「意味」があるのだとしたらどう読み解くべきか、そして装飾を施された実体の持つ意味はどれぐらい社会を反映する「のりしろ」として機能してきたのか、当時の「のりしろ」の実体と比較検討してみたらよっぽどテーマに沿った内容になるのではないかと思っている。そりゃ博物館の出番かなあ。。。。

山本基は、塩を用いて、死をテーマにインスタレーションを行っている作家です。今回は、「迷宮」というタイトルで、塩200kgを使ってホールの床に日本の伝統的な波模様か枯山水の庭園を彷彿とさせるような広大な塩の迷宮が広がり、川(本人談)のような装飾されていない貫入がところどころに入っていて、単純な紋様としては見てほしくないようであるが、イスラム教の都市の上から見下ろしたような複雑性と規則性に連続が見られる。一見すると、白の純白と床の木材とのシンプルなハーモニーであるがゆえにどういった意味があるのかと深読みすることを要求されているようで、コンセプチャルアート的な体裁ではある。
紋様の賑やか以外は、禁欲的な感じだ。それは、混みいった人生の「道」のようにも見える。

私は、この作品のキーワードである「死」、「持ち帰る(消失)」について似たキーワードの作品で知られるFélix González-Torresの作品と比較してみようと思う。

トレースと山本に共通するのは、commodity(商品価値)の無い作品を作り、インスタレーションで場をつくる作家であるという点である。そして特別な材料とスキルは使っていない。

しかし、トレースの作品における「死」には、彼のゲイとしてのアイデンティティや死に至る病=HIV、ボーフレンドの死の悲しみが色濃く表れている。観客はゲイでなくとも悲しみを追体験させられる。

「死」というテーマ
死というテーマの壮大さ、
ぼくは、死というテーマに懐疑的だ。
すべての人にとって「死」はテーマとなりえるからだ。
轢死とか水死とか憤死とか感電死とかにジャンルに拘るのなら別だけど。
すべての人間にとって、どう生きるか、そしてどう死ぬかは人生のテーマじゃないか。親も死ねば、友も死ねば、恋人も死ぬだろう。死は身近であり究極であり普遍的すぎるのでわざわざテーマにしてもらわなくても「意識」していることだ。
原始人も未来人も死を前に去来する思いは変わらないだろうと思う。

YBAのダミアン=ハーストの作品に流れる「死」の軽さ、軽快さ、がファッション的に見えてしまうのは、彼本人に何のイデオロギーも無い一流のコンセプチャリストだからだと思う。薬棚も、解剖台もダイアの髑髏も、鮫も、牛も(クーンズの作品の置き換えだし)。死の仮面を被った、「死」とは対極の存在とも言えるかもしれない。

死というのは、宗教観や死生観を反映したものなので、多様であいまいで絶対的。 
しかし、個人的経験ほど、記憶を呼び覚まされて共感させられるものはないだろう。
ハーストが表現する死は、生物としての「死」であり、ちっぽけな「生」を意識させられる。
トレースの表現する死は、個人の悲しみが宇宙よりも広くて深いことを感じさせる。
いずれにしろ、山本の作品の「死」に対して、距離の取り方が私にはわからない。

最終日(終了後)に、生演奏を奏でつつ、作品を撤去するそうだ。。。。
塩を持ち帰りたいかどうか。BGMは葬送曲なのか、運動会のマーチなのか、おしゃれアンビエントなのか、ノイズなのか、意図的に行う以上は、この作業も作品の一部なのだろうか。
会期中にやらないと作品の一部にはならんぜよ!と思う。

いわゆる「消失する作品」というのは、
ランドアートの重要なテーマのひとつで、
人間がつくったものが自然の風化作用で形が無くなってゆくことで
時間的スケールや都市と自然の関わり、さらに生と死を意識させられる形態である。
近年の参加型アートの隆盛によって、持ち帰られ人工的に消失するインスタレーションが
ランドアートの進化した形であると私は思っている。

インスタレーションにどう観客を参加させるか
経験させることの重要性が認知され、世界の展示スペースは遊園地化している。
参加型アートの理論を進めるならば、究極的なインタラクティブアートは遊びの場や遊具などの社会の原初的風景ともいうべき場所(site)に降り立つのだ。この話は、私の研究テーマのひとつなので違う記事で書こうと思う。
こうしたアートは、観客との距離を短くするために超絶技巧は使わず、日常にある材料でDIY(Do it yourself)になる。そうすることでcommodityを無くし、unmonumental(非記念碑的?)になる。その空間が体験者にとって創造の場としての意味を持つように。
いかに自然に観客を作品へ取り込むかが参加型アートの必要条件になる。
これは、必ずしも「平和的」な空間の構築を目指している訳ではない。Santiago Sierraのように、嫌悪感をもたらす作品でも構わない。

さて、今回の参加のさせ方としての「持ち帰る」ことについて考えなくてはいけない。
「持ち帰る」ことで消失する作品    
海に返すことは自然葬を思い起こさせるが、
海に塩を振るなんて、塩鮭に塩を振るみたいでなんかロマンチックじゃない。

塩=死だと思うのは日本人だけかもしれない。イギリス人にとっては床に蒔かれた塩は融雪剤だ。観客それぞれの文化的な背景をどれだけ意識してつくられたのか分からない。
日本人の死とは静寂なのか。外人アーティストにとっての死はもっと派手でグロテスクなものだ、一部の禅かぶれのアーティスト以外には。

トレースの作品と同じように、「パーソナルな体験の共有」が狙いならば、持ち帰りたくなるようなマテリアルであることと、その「持ち帰る」行為が自然であればあるほど、エスカレーターのように自然に参加させられることによって、より参加型のアートとして、追体験型の作品として輝くはずだ。塩を持ち帰りたい人というのは、常識的に考えれば?今晩の台所で使う人だろう。お塩借りるわよ!ってな具合に。もしくは球児にとっての「甲子園の土」のように思い出の遺品「おみあげ」としてだろう。

いかに自然に観客を巻き込むかという点において、トレースの作品は観客は積極的に持ち帰る。キャンディを持ち帰るのは自然な行為だ。その辺で、トレースの作品は参加型アートのあり方として先駆的だった。

山本氏の作品の「制作過程」を知る事で、作品の意味が変って来る。良い意味で。
もくもくと、座り込んで塩で描く延々としたプロセスにこそ迫力がある。
つまり、パフォーマンス的な要素が働いているということだ。
しかし、作品の持てるコンテクストには限界がある。
いろんな要素に手をださずに、パフォーマンスを上手にみせるべきだと思う。

普遍的な作品として徹底することの難しさ、作家性とどう両立するのか。
あたらしいアートの要素とテクノロジーをどう扱うか。
バランス感覚とセンスがアーティストにも求められている。