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2011年4月6日水曜日

熊本市現代美術館「水・火・大地」展

熊本市現代美術館
「水・火・大地」展
http://www.camk.or.jp/event/exhibition/water-fire-earth/
2011年4月9日(土)~6月12日(日)
休館日:火曜日
*ただし5/3(火・祝)は開館
開館時間:10:00~20:00
(展覧会入場は19:30まで)
一般1000(800)円、高・大学生500(400)円、小・中学生300(200)円、熊本市・福岡市・鹿児島市内小・中学生は無料(要名札)
( )は前売り、20名以上の団体、身体障害者手帳等をお持ちの方、熊本市・福岡市・鹿児島市民で65才以上の方。

<参加アーティスト>
杉本博司、遠藤利克、千住博、淺井裕介、
Cai Guo-Qiang(蔡國強)、Richard Long(リチャード・ロング), David Nash(ディヴィッド・ナッシュ)、Andy Goldsworthy(アンディー・ゴールズワージー)

新幹線開通記念ということで、熊本にちなんだのかな(よくわかりませんが)大地と創造!ということだそうです。キュレーターさんが、イギリスに研修に行ったからでしょうか、Richard Long, Andy Goldsworthy, David NashはイギリスのLand Artの作家です。時代順だと、まず、Richard Long、もはや生ける伝説?まだ元気ですよ。私の恩師でもあるRoger Ackling先生の友人なので卒展にいらっしゃいます(羨ましいだろ!)。Andy Goldsworthyは鳥の巣みたいなのを野外に木材とか葉っぱとかでつくる作家です。Land Artのアーティストの中では作品の見た目が色彩豊かで派手です。David Nashは私の母校であるChelsea の出身でございます。丸太をチェーンソーで刻んだ作品が有名です。外人アーティストに関しては、かつてのChelsea College of Art and Designの香りのするセレクションです。しかし、Richard LongはTATE Britainで2009年に回顧展で見たし、ベルリンでも見たし、私はお腹いっぱい気味です。

杉本博の作品は実物を見たことがないので見たい気もします。


がんばれCAMK

<補足>
かつて、Land Artというアートムーブメントがありました。残念ながら、世界的不況や、中心人物であったRobert Smithsonの死を経て、屋外からホワイトキューブ内での展示へとスケールダウンしていきます。都市と人間、時間、サイトスペシフィックや、ドキュメントの取り扱い方(そのスケール故の物理的理由で作品をギャラリーに展示出来ないので作品として写真を展示した)を含めて、現代アートに大きな影響を残しています。GoldworthyやNashは、そのムーブメント以降の作家になりますので、人が自然に手を加えるという行為を強調するために、より技巧的で装飾的な傾向があります。なお、日本国内においてもLand Art風のムーブメントが見られましたが、文脈が異なるので同じように括る事は出来ません。学生諸君、その辺ごちゃごちゃにすると単位落としちゃうぞ!



http://www.nationalgalleries.org/media/source/rl__a_line_made_by_walking_1967.jpg

A Line Made By Walking by Richard Long

2009年9月19日土曜日

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.5 大巻伸嗣 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。

蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.4 蜷川実花 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.4として蜷川実花の今回の展示について。
写真を周囲の壁に配置。センターにある「部屋」の床にちらばる(没)スライドフィルムを貼付けられたアクリルの断片。全体としてそれっぽい感じにしてあるが、関連も薄いし。空間を頂いたのでなんとか埋めた感があります。アートとしてのコンテクストは解読不能でした。花がいっぱいです。Carl Zweissレンズの発色とかVIVID系のフィルムが好きな人って、ヒョウ柄が似合う気がした。
但し、世界でもこの世代の女性作家(ヴァーホーベンとか)は、「毒」のある作品をつくる傾向がある。それらをグロテスクや「おぞましいもの」などとアート界では言われている。観客をやや不快にすることによって、きれいでうつくしい「女性」という殻から脱却を計るフェミニズム的な抵抗がそこにはあると私は理解している。蜷川氏の色彩感覚は男性を寄せ付けない強さがある。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.3 名知聡子 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.3として名知聡子の今回の展示について。
巨大な女性のポートレイトに花が描いてありました。エアブラシで彩色してあってレースが貼付けてあります。コンテクストは読めませんが奇麗でした。
ミュシャの絵かタロットカードみたいなタッチのシリーズはスタイルが違うので一緒に展示しない方が良かったと思います。はい次

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち  - vol.2 石元泰博 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.2として。モネのペィンティングと、石元康博撮影のモネ晩年の「睡蓮」の写真について。

入ってすぐのコーナにモネの若いころの風景画が飾られています。隣の小空間にモネの中くらいの「睡蓮」と、「風景画」が展示されています。地方の美術館がこれだけのモネを揃えるのは奇跡だそうです。緑の風景だけではなく、崖の絵もあったりして。。。せっかくの企画展のなのに、企画側の苦労が見えるようで悲しいし、選ばずに展示したようで下品なので、展示は緑の風景画と睡蓮に絞るべきだったのではないでしょうか。名知聡子のスペースでも感じたことですが、数が多ければいい訳ではありません。

さて、モネの油絵の展示の次は、石本泰博の撮影によるモネ晩年の睡蓮のカラー写真である。石元泰博の名前は、企画展のタイトルには無いことで他の作家との差別化は図られてはいるが、展示の扱いは同格以上であるので私としては批評させていただくことにした。3点一組縦2メートル、幅12メートルの巨大な写真は、ニューヨーク近代美術館が所蔵する睡蓮の原寸大の大きさで、国立国際美術館が1980年に「教育展示」目的で撮影を依頼したものだそうだ。そして残りの壁3面に、クローズアップされた細部の写真が配置されてる。モネの筆遣いと、色の重なり具合がまるで抽象絵画のように見える。

展示の表向きの意図としては、本物のモネの睡蓮を見たことがない方に、実物の大きさ感じてもらい。クローズアップされたディティールを見ることで、睡蓮の配置や配色から現代アートにも通じるような構成の美を見てほしいということだろう。また、モネの作品数を補い、今回の企画の導入として、モネの本物から、現代アートへの繋がりを見せるという狙いであろうか。次の名知聡子の作品との100年近い差、つまり「美術の死」以前の作品と、現代アートとの断絶を嫌味に見せているように見えないこともない。

残念な点としては、
長い間議論されていて、今日も多くの画家にとっての命題である「絵画と写真の違い」の説明責任は、作品の中にもキュレーションにおいても言及されていない。もともと石本の写真は教育展示用の「資料」なのであって、アート作品ではないのだとしてもだ。実寸大の代替品としていうこと以外の展示理由が不明瞭だ。確かに石元の名はこの企画展のタイトルから除外されている。それならば、作品として同格の扱いをしてはいけないのではないか。今回、展示スペースは区切られてはいるが、ほかの現代作家の作品と同等に並べたのは不味かったように思う。写真の「睡蓮」は地方の一美術館にとしてはは苦肉の策か、親切心の出来心だったかもしれないが。

自分にとってのモネとは、
上京してすぐに、国立西洋美術館で「睡蓮」に感動して、半日ずーっと眺めていたことがある。なぜなら、自分が子供の時にずっとあこがれていた「本物」の絵画だったからだ。自分が絵画を楽しんで描いている時に「本物」を見たかった。後にも先にも、このときほど東京の人が羨ましかったことはない。
そして、「睡蓮」は留学先のロンドンのTATEにもあるし、ほんとに世界の美術館はモネの巨大な睡蓮だらけである。モナリザは一点しかないが、睡蓮はたくさんある。睡蓮は、熊本では国宝級の扱いかもしれないが、大量生産絵画なのだ。画家は、同じような作品を同時に描くものだ。ゴッホのヒマワリですら7点あったらしい(6点現存)。自分でも油絵を描けば、あらためてセザンヌに学ぶことはたくさんあるがモネには無い。

ただし、本物に触れる機会は必要だとは思うし、自分が好きな作家ではなくとも、かつてモネの本物に感動したことは忘れない。この写真によるプアマンズモネは(他の作品との同格の扱いから見ても)代替品になってしまっているので、モネの睡蓮との「違い」を自己主張をして欲しかったし、キュレーション側にはもっと明確に展示意図を作り出してほしかったように思う。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣

2009年9月18日金曜日

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち  大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 - vol.1 展評 -


現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

最初に、vol.1として、この企画展の総評から書こうと思います。

展覧会の主旨は、「モネと同時に現代美術を展示することで、現代美術が実は歴史と結びついていて刺激的で美しく、親しみやすいものであることを示し、さらに若い日本の作家と組み合わせることにより、モネの世界にも現代的な光を当て、新たな視点でみることを試みています。(フライヤーより抜粋)」とあるように、熊本という地方都市で、現代アートを楽しんでもらうために、「花」で知られる作家の中でも、よく知られた巨匠画家モネを手始めに、若手アーティストを紹介してアートを身近に感じてもらおうということのようです。

まず問題は「花・風景」というテーマです。花というのは固有名詞であり、文節の中に置かない限り意味も主張もありません。また、「風景」というのはアートでは大きなくくりでの主題であり、絵画の形式でもあります。つまり、この企画展は視覚的な「花」「風景」に重点を置いていて、花や風景の物性で繋がっただけでコンテクスト上の繋がりはないということです。現代アートをコンテクスト無しで楽しませることは、アートを身近に感じてもらうという意図をいくら尊重したとしても、軽視して良い問題ではありません。現代アートからコンテクストを取れば、話題性やファッション性以外には何も残らないと言っても過言ではありません。

モネの印象派絵画から、心象風景としての置き換えがなされています。。。。

なぜならば、アートを身近に感じるというのは、コンテクストの読み解き方を「教える」ことによって、現代アートを楽しんだり考えるきかけとすることが出来るようになるのです。コンテクストを見る習慣の無い日本での、企画展の良し悪しは「いかに現代アート普及させていくか」へどのようにアプローチしたか、達成できたかどうかにかかっているということです。

また、このおおざっぱな企画展の目的である、「新旧同時展示」を田舎で展示するためには、歴史も専門知識も必要しない視覚的快楽のある「美しい」アートを見せる必要があった。そのために「花」という括りが必要だということになったのでしょう、きっと。一見、野心的で熊本のレベルに合わせた安心できる企画のようですが、「アートの視覚性」という技術論以外では語るすべも無い甘皮へ執着してしまった点で、「アートを身近へと感じてもらう」という意義が灰燼に帰してしまったといえます。厳しいようですが、アートの歴史上も教育上でも価値のある企画ではないということです。企画展でコンテクストを考えるきっかけとしては、07年の森村泰昌の企画展「美の教室」での革新性が際立ってくるのではないのでしょうか。

次に、どうしてもモネを選んだ必然が見えてこなかった点。確かに、モネの風景画と水蓮には、「花」と「風景」があった。この企画展の英題は「Flowers and Landscape」なので、Inscape(内景)ではないのだろう。(名知の絵はInscapeだったけども。)だからといって、大巻のインスタレーションの色使いが阿蘇の自然からインスピレーションされているとしても、大巻のフィルターを通した主観的風景であって風景(Landscape)ではない。蜷川の写真は静物画に近い。彼女のインスタレーションもInscapeだ。あくまでモネは、風景画家である。招聘されたアーティストの作品はコンテクストでもモネと繋がっていない。3人の現代作家は、風景を再構成する目的のために作品を作っているわけではないからだ。モネの水面に写っているのは、庭に生える柳であって世界ではない。写っていたとしても、1900年初頭の風景である。それに比べたらセザンヌやマティスの絵画には、今見ても革新的な要素がある。それは、彼らが当時の伝統的な絵画の形式のなかで多様な挑戦を行っていたからだ。それに比べたらモネの革新は、心象的でドラマティックな風景を一見抽象絵画のように見えるようなコンポジションで表現したことにつきるが、抽象絵画ではない。知名度の点でモネを越える画家はいないかもしれないが、「花」というテーマにモネの水蓮は適さない。私は、「花」を意識してモネを見たことは無いし、見たとしても「風景」としてだった。「花」で考えるならば、ゴッホのひまわりは借りれないのかもしれないが、静物画で「花」へ挑んだ画家を選んだほうが、まとまりがあったのではないだろうか。また、名知の作品のレースようなディテールは、テキスタイルを多用したマティスの絵画を横に置くことによって、絵画の歴史の連続性を見せることが出来たかもしれない。

しかし、「花」や「風景」というテーマでもコンテクストを考えるようなキュレーションも出来るはずだ。「花」には、元来、人を魅了する美しさや香りがあり、あるときは妖艶でまたあるときは純粋な女性性の象徴でもある。ところが、今回のCAMKの展示室というホワイトキューブには、まったくの艶やかさもなく作品以外には「花」が無いというのはいかがなものか。全体の印象として静かで、地味に感じられた方が多かったのではないだろうか。今回、場所を使い切っていたのは、さすがはインスタのプロの大巻伸嗣でした。(他の作品:ペインティングは、絵画として使ってインスタレーションしないほうが良いですが。アート的には)。 
そこで、「地味、つまんないぜ!」の改善策としては、もっと多くの作家を選んで、それぞれが今回ベストな1点ずつを持ち寄ることと、展示はランダムで動的な配置にしてリズムをつくることが必要。(理路整然とした花園なんて、畑だよ畑!つまんないよ!)。 作品ではなく作家で選んでしまったことで、企画展なのに、それぞれの作家が見せたいものを見せてしまった自分勝手なグループ展みたいになってしまったのではないだろうか。

プロジェクト型アーティストの、ぼくに企画が来ていれば、美術館の外に「巨大な花輪」をエスカレーターからエントランスまで並べていたと思います。パチンコ屋の新装オープンか?というぐらい派手に下品だけど、「デカイ花輪」にすることによって作品としての異質感をかもし出す。吸い寄せられた一般人に見るきっかけを与えて「アートを身近に感じる」ように。
一般人ホイホイ企画なのに、求心力が不足してはいけないと思うのです。

花や風景は、美しいだけじゃない。そういう驚きというインパクトが感動へと連なるし、コンテクストを読み解いたときの感動も味わえるような企画展にしてほしい。


p.s 展示室に入ってすぐに、ボールペンは禁止です鉛筆を使ってくださいといわれ、次の部屋でガム禁止です。吐き出してくださいと続けざまにいわれてだいぶテンションが下がりました。ガムはよくないけど、ペンぐらいいいんじゃないかな。イギリスなんて美術館の床ではガキがごろごろクレヨンもって書きなぐってるけどなあ。ガラスケースも柵もないし、作品より観客が主体なんだよ先進国は!「よりアートを身近にしたい」とかいっておいて、作品を触れられないようにして「崇める」姿勢はイカンよ。東ドイツのライプチヒも似た感じだったなあ。友達が走ったら監視員が走って追っかけてきたもんな。つまり、そういうの田舎ってことだから。作家にとってみたら作品ってさ、壊れたらまた作れるしへっちゃらなんだよー。いかに観客と作品の間に壁をつくらない展示を出来るかで、「本物」に触れられることへの意義が生まれるのです。観客との距離を注視しているアーティストは、故意にクオリティを下げたり、身近な材料からDIY的な普通の技術で作品を作るのです。近づけない「高尚さ」と、身近な「社会性」の葛藤自体は、アーティストだけではなく、アートを支える側にとっての課題でした。しかし、崇めないと自立できない作品の時代は終わりました。現代美術館を標榜するならば、主催者側が守るべきは作品の骨董的価値では無く、観客が「楽しむ」権利なのです。

p.s ここは、批評天国のイギリスではありませんから、ぼくの批評を「文句」とか「批判」だと感じられる方がおられたり気分を害されるかもしれませんが、あくまで「批評」ですのでご理解を頂きたい。「批評」なくしてアート無し、前進なしですから。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣