2009年10月7日水曜日

くらしの豊かさ

液晶テレビからは延々とバラエティ番組、パソコンではネットショッピング、蛍光灯が眩しく部屋の隅まで照らしている日本。家電製品、調理器具は基本的に新しい。駅のエスカレーターも常に動いている、止まるのは省エネタイプの最新型くらいだ。ホームには障害者用のエレベーターもかならずある。電車は決まって規則正しく動くし、ゆりかもめの無人運転のように山手線も滞りなく動く、止まるのは人身事故が起こったときくらいでしょ。ロボットに支えられているかのようにすべてが緻密に噛み合っていく。暗黙のコミュニケーションがまかり通っていて、何も言葉を発せずとも生きていける気がする。

僕がイギリスで経験した暮らしを思い出してみよう。
万年不況だし、女王いるし、首相いるし市民革命無かったし、アメリカの属国(失礼)だし、島国根性で人見知りなので結構似てる部分もある。ロンドンは、日本はこれからこうなって行くんだろうなっていうような他民族都市だ。だけど暮らせばやっぱり違う。紳士の国なのに(本当の紳士は穴が開くことが誇りだから)シャツの袖には穴は開いてるし、袖には鼻水だってついている。すべての「新品」は高いから、古いものを長い間大事に使うからすべての家電が古いし、日本ほど新製品は気軽なものではない。そりゃハイビジョンでデジタル放送対応の大画面TVもあるけど物価から考えると日本の2~3倍の値段だ。パソコンは型落ちだし、携帯電話は、2000円くらいで買えるプリペイド方式で、通話自体も短めでショートメール中心。最近は、ようやくE-mailを受信したりインターネット見れたり,Skypeを使う無料携帯も普及している。部屋には、14インチないブラウン管のテレビが微弱な電波で通信状況も悪い(デジタル放送はきれいだけど)。天井には60Wの白熱電球か、スタンドライトだけで暖色系で薄暗い。新聞はオレンジ色に見える。エアコンはないから扇風機。冬はドライヤー以下の性能の電気ファンヒーター、ケチケチつかうセントラルヒーティング(就寝時は消す)。だから、なんら変化も進歩まない昔ながらの「湯たんぽ」は、かわいいカバーに包まれてはいるが、いまだに冬場は人気がある。家具は、良くてアンティークの戸棚や机でどこか壊れている。普通は、IKEAやARGOSの家具だ。ベッドマットはスプリングが弱っていて真ん中が凹むから逆への字になる。それでも、インテリアは素敵でDIYして自分色にリフォームしてあるから大家のセンスが良くって昔の家を改装したような物件ならとっても素敵な雰囲気だ。中産階級以上なら本物の絵画や版画が壁には飾ってあったりする。もっと上の階級なら、現代アートの立体作品が飾ってある。暮らしの中の「文化」の割合が多いってことだ。通学でTUBE(地下鉄)が動いていたら今日はいいことあるんじゃないかと思うくらいうれしい。バスも故障するし、運転手の都合で「降りろ」なんてことはざらだし。ストライキもあるし。いつも壊れている駅の上りのエスカレーターが動いているとびっくりする。でも、ホームへは階段しかない。障害者?それ以前にエレベーターはどこの駅にも無い。日本が社会的インフラの面でborderlessならイギリスはborderful社会だ。だけど(だから?)、老人がトランクを持って階段を上っていく、若い男が我こそはと手伝う。この国では、自分で自分の身を守る、体が弱ったら死を意味する。死のうと思えばいつでも死ねる。だからこそ、当たり前のように周囲が、困っている人を手伝う。妊婦が乗ってくれば、サーっと男たちが立ち上がって声をどうぞどうぞと声を掛ける。ちゃんと暮らすためには困ったら声を出すし、文句を言うし、権利を主張するし、人にも頼む、人と話すしかない。人間同士の接触が多い分コミュニケーションがある。そうせざるを得ない。「くらし」っていうと漠然としてるけど、晴れれば機嫌が良くなって公園でごろごろしたりする。幸せだ。

友達に会いにスウェーデンに行った。街が日本よりきれいだ。ごみが落ちてない。教育にお金がかからない、紙とノート、学校のコーヒーマシンもおいしいのに無料だ。インテリアも居心地がよくってリラックスできる。税金は高いから、すべてが高いけど。最低限の人間らしいくらしのレベルが世界でも高いと思う。

日本人の暮らしに対する欲望は、ロボットやロボットのように働く人々に支えられているみたいで、個人が見えにくい。みんな常識を共有している。B型は嫌われる(僕はA型だけど)。最新の家電とカッシーナの家具、流行っているからと並んで買ったIKEAの家具に囲まれるのをぼくはいいとは思えない。IKEAは北欧家具の劣化コピーであって代替品だ。イギリスには流行が無いといってもいいぐらいだ。流行だっていつだってマイノリティの所業だった。それぐらい変えがたい「自分」のセンスがみなにあるからだ。日本の観光地は飽きられるまでいっぱいだ。それよりも、晴れたら会社や学校を休んで公園でボーっとするのは結構幸せだ。イギリスでは、公園は常に流行っている。僕は人間って同じだと思ってたけど。イギリス人はみんな違う人間だと思う。イギリスには「個人」と「個人」が存在してコミュニケーションという名の議論が介在しているのだ。そして、イギリス人に「常識」なし、あるのはマナー。大事にしてる事がみんな違うから主張せざるを得ない。だからぶつかり合うし、すべてのアクシデントや遅延はイギリス人の「人間力」によるヒューマンエラーのせい。だからとーっても経済効率も悪いけど、イギリス人も不満を言いながらもけっこうあれでみんな幸せなんだってことに気づいた。文句を言う隙間の無いような社会は嫌だ。たくさんの問題があるからなのか、「生きてる」って自覚は常にした。常に1%は緊張してるのだけれども。対立があるから、返って自分の存在とか見えてくる。
そういえば、ロンドンの最初の一年は、誰も干渉してこない、構ってくれないことの開放感を味わった。自分で耳を澄まさないと入ってこない情報。常に自分が何をしたいか、それだけなのだ。まあ、長くすんでいると、そういう自由にもなれてしまうのだが。日本に帰ってきて、まず感じたのは、他人に対する視線。ロンドン時代も、「外人」としての視線は受けていたけれども、久しぶりに東京を歩いていて、日本人ってこんなに見るの?って肩身が狭いような感じがした。彼らにとって異質な「自分」を見ているのかなと思ってたけど。よくよく考えてみると、日本人は無意識的に空間にいるすべての人を把握するのだ、その場の「空気」を読むために。僕も日本にいた時は、あまりにも無意識に同じことをしていたので気づかなかっただけだ。イギリス人(違うけど)として日本に生活すると、干渉を受けている気がするし自分が溶け込めていないことの恐怖を感じてしまう(僕だけかな)。昔、British Councilで英会話を習っていたときに、スコットランド人の先生が日本はストレスフルだ。ストレスフルだ。と日々ぼやいていて疲れきっていてかわいそうだったのを思い出した。今思えば、いつも見られている感覚はキツイかったのだろう。でも、僕は帰国から3ヶ月経ってみて、またそういう視線を気にしなくなってきたようで外でもストレスを感じなくなってきつつあるし、身の回りの異質なものへ視線を飛ばしてはじめているのかもしれない。

ありきたりだけど。他人の「自分」も尊重しながら「自分」らしく暮らしていくことが出来るならば、幸せな暮らしだということなのではないだろうか。それを守るための社会であり、政治でありさえすればさぞ暮らしやすいことだろう。日本人の若者には「主張」が求められているそうだ。それは変化の予兆であってチャンスかもしれないのだけど、日本に育つ限り無いはずの「自分」なんて主張させられてかわいそうだなと思う。自分のやりたいことを見つけて、自分の判断で生活することの責任を負わせてくれるほど、日本社会は円熟していないからだ。イギリス人は自分の存在を周囲に認めさせる為に「主張」する。子供の頃から、「個人」として尊重されて教育されるようなベースがある。日本人がその場に合わせて「主張」する姿よりも、中国人が自分の利益の為だけに「主張」をしている姿のほうが国際的だと思う。協調性のある「自分」なんて存在しないのだから。日本の本格的な変化は最底辺の人々が権利を主張を始めることでしか起こりえないと思う。それは、主張しなければ生きていけない世の中へ変わるということかもしれないが。

だから、といっても、まとまってないけど。。。
日本人って技術も能力もあって、あんなに働いてるのにどうして貧しいんだろうか、そこがおかしい。イギリスは格差社会だ、日本よりそのクラスから抜け出せない。がんばれば幸せになれるという幻想を消し去って、イギリス人のように仕事を適当にがんばって余暇を旅行なり趣味なりに費やして仕事から離れることで救われる部分もあるだろう。
問題なんて世界中に溢れているし、自分の幸せに自信が持てる人なんていないとは思うけれど、これからの日本ではどうしたら豊かになれるのであろうか。僕には、日本人に突き放されたメディア(=アート)で変えていくことしか、今更いい年になってしまったから考えられない。ぼくは、日本人とってアートて楽しくもないし意味もないと思う。これは事実だと思う。だからより一層、制作者は社会との接点を求めていかねばならない。これは社会に迎合しろと言っているのではない、世界に認めさせるようなすごいもんを日本国内ででもつくってほしい。日本というアート後進国にレベルに合わせたアートもある。Arte Povera, Flux, 反芸術といった60年代のムーブメントは、恥ずかしい事だけど今の日本で完全に機能しそうであるから、それらに制作の軸を求めるのもいいと思う。まあ、急がなくとも、底辺のくらしが豊かになれば、状況も変わってくると思うのだが。

2009年9月28日月曜日

パクリ

アートにはパクリは無い。
積極的な意味でのappropriation(盗用)はある。批判的な意味で行われる。

極端な話、見た目もサイズもまったく一緒の作品が存在しても
コンテクストが違うなら、別の作品。パクリでもなんでもない。
まったく違う文化圏にいても、自分らしさを突き詰めた作品であっても他人の作品に結果的に似てしまうこともある。ほとんどのアイディアには先駆者がいるし、やりつくされた感はある。
もうすでに当然似たものが存在すると思ったほうがいい、だから事前に似た作品について調べる必要はあるし、referenceとして、その作品との自分の作品との違いや類似点について考える必要がある。

ぼくが、言いたいのは、デザインやクラフト(工芸)にはパクリがある。
真似できないような超絶技巧出でない限りは、同じものや似たコピーをつくることが出来てしまう。
それは、製品であり、物だからだ。

でもアートにはパクりは無い。なぜならアート=コンテクストだからだ。コンテクストは真似できない。作品の「見た目」がアートなのではない。だから、見た目をパクラレタ!俺のアイディアだ!と言っている奴は、アートを分かっていない。単純なアイディアなら、先駆者が世界中にいる。でも、まったく同じことはしていないはずだ。他人の作品のコンテクストは誰にも真似できないのだから。コンセプト以前に、作家の性別、年齢、国籍、学歴などもコンテクストである。作家の背景で作品の意味が変わってくる。そういった読み解き方をされないように作家の存在を表に出さないようなコンセプトの作品もあるくらいだ。最近では、作品とは観客の経験だ、その場で生成された人同士つながりだという作品も多い。まあ、そういうコンテクストなのだが。サイトスペシフィックやインタラクティブな経験など、作品の意味を流動させるシステムなのである、もはや模倣とは無縁である。

じゃあ、仮に見た目だけじゃなくて、コンテクストをパクられたらどうしよう?
では、パクられた同じコンテクストで同じ作品がつくれるだろうか?
必ず違う結論(作品)に到達するはずだ、その違いこそ「作家性」だといえるかもしれない。そしてコンテクストは作家の「自分性」から逃れられない。コンテクストを盗んだところで結局自分の作品に生かせるならいいけど、最高のほめ言葉「自分らしい作品」へとコンテクストを整形することは出来ないのではないだろうか。

そういうわけで、どんどん自分らしい作品をつくるがいいし、見た目をぱくられたくらいで目くじら立てる必要はないってことを言いたい。だって、そのぱくったアイディアでつくっても、君には勝てない。え?上手にぱくられたら困る?それは、その人より先にいい作品をつくるしかないんじゃないかなあ。

まあ、同じ先生の生徒が、同じような絵を描くとか、エゴン・シーレの画集を見せたらクラス中がエゴン・シーレだらけになった。芸大に合格した生徒の絵を予備校生が真似るなんてことはよく聞くけれど、自信を持って自分らしいものを作っていきたいものですね。

Artがない話

今回は日本育ちのアーティストへけんかをふっかけるような内容です。 うんと、言いにくいですが、 日本にはアートはありません。歴史上も (この辺は、文明開化、殖産興業、フェノロサ、岡倉天心とかを調べて見てください)。 技術重視の古典的で自律的なアートでも、哲学がないと、Artじゃない。黎明期の日本洋画壇の苦悩の根源には、ヨーロッパのアート哲学を一朝一夕には会得できなかったことがあるわけですが、どれほど改善されたのでしょうか。そして、時代は移ろい、現代アートは観客(意味を分かってくれる人または対立する人)がいて成立するようになりました。存在理由として社会との関わりも必要になりました。アートは一回死んで、社会と人々と交わり始めたのです。 アートってかっこいいことでもオシャレなことでもない。 日本の若い人にとって、アートっておしゃれみたいな捉え方もあると思います。 イギリスも、そういう側面もあるよでもでもアーティストは冷静に糞まみれさ。そういう意味で高尚さ。おしゃれな人もいていいけど、ホームレスと間違われるような人でもいい。 おかまでも、ゲイでも、レズビアンでも、差別主義者でも、犯罪者でもいい。 Artをちゃんとやってるならば、いつだって Coolさ。 あと作家がだれかなんてどうでもいい。 作品が気に入れば、もしくは作品がとても気に入らなくても忘れられなければ、 あなたにとっていい作品だ。作家なんてカンケーないぜ。だって、本人でも嫌いな絵も作品もあるんだぜ。自分の好きな一枚を見つけよう。 好きなアーティストなんて見つけるな。作家の個人情報なんて気にしないで、作品をちゃんと見よう。作家で作品を見ているようでは、やっとモダニズムの気配です。 50年遅れてる。 日本のアートが認知されたのは事実だけど、 日本由来の固有種として発見された新種のシカみたいなもんだ。 東南アジアの田舎で少数民族が作っている民芸みたいなもんだ。文化人類学的には。 万博のジャポニズムブームなみの内容の無さだし表層、まさにスーパーフラット。。。 言いたいことなんてない!という開き直りさえ感じる。 はっきりいって、コンテクストの開発は海外経験組が引っ張っている。 指摘されるプレゼン力の弱さだけど、どう説明すれば外人が納得するのか理解するかを理解することが必要なので、海外で個人主義ベースの論理的思考を学ぶ必要があるのだと思う。だからといって、凱旋帰国した日本人アーティストを巡回してもなあ。 ヨーロッパと日本の一番の違いは、観客だとよく言われる。一方的なコミュニケーションにさらされても「そういうものとして」受け入れてしまう日本人気質に問題がありそう。これが、馬鹿アーティストをのさばらせる原因になっていると思う。あなたがおかしいと思ったら、おかしい。専門的な知識やアートの歴史を知らなくっても、自分目線の鑑賞は出来るはず。 あ、そうだ日本人がみんな外人みたいにわからずやで個人的になればいいんじゃないでしょうか。とりあえず他人を見るの止めてみよう、空気読むのやめよう。自分はどう思うのかを追求しよう。どんどん自分勝手になっていけば、「個人」が見えてくるはずだ。何をやってもいいんだって空気が必要だ。だからって、理由無く人を傷つけたり自由は履き違えないで欲しい。 自分を大切にアートと向かい合ってみる。そうすれば、身の回りのアートに気づくのではないでしょうか。こういう観客には、半端な作品では通用しないはず。

2009年9月19日土曜日

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.5 大巻伸嗣 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。

蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.4 蜷川実花 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.4として蜷川実花の今回の展示について。
写真を周囲の壁に配置。センターにある「部屋」の床にちらばる(没)スライドフィルムを貼付けられたアクリルの断片。全体としてそれっぽい感じにしてあるが、関連も薄いし。空間を頂いたのでなんとか埋めた感があります。アートとしてのコンテクストは解読不能でした。花がいっぱいです。Carl Zweissレンズの発色とかVIVID系のフィルムが好きな人って、ヒョウ柄が似合う気がした。
但し、世界でもこの世代の女性作家(ヴァーホーベンとか)は、「毒」のある作品をつくる傾向がある。それらをグロテスクや「おぞましいもの」などとアート界では言われている。観客をやや不快にすることによって、きれいでうつくしい「女性」という殻から脱却を計るフェミニズム的な抵抗がそこにはあると私は理解している。蜷川氏の色彩感覚は男性を寄せ付けない強さがある。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.3 名知聡子 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.3として名知聡子の今回の展示について。
巨大な女性のポートレイトに花が描いてありました。エアブラシで彩色してあってレースが貼付けてあります。コンテクストは読めませんが奇麗でした。
ミュシャの絵かタロットカードみたいなタッチのシリーズはスタイルが違うので一緒に展示しない方が良かったと思います。はい次

vol.1 展評
vol.2 石元泰博 
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣 

花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち  - vol.2 石元泰博 -

現在、熊本市現代美術館CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣蜷川実花名知聡子 を見てきました。

読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。

今回は、vol.2として。モネのペィンティングと、石元康博撮影のモネ晩年の「睡蓮」の写真について。

入ってすぐのコーナにモネの若いころの風景画が飾られています。隣の小空間にモネの中くらいの「睡蓮」と、「風景画」が展示されています。地方の美術館がこれだけのモネを揃えるのは奇跡だそうです。緑の風景だけではなく、崖の絵もあったりして。。。せっかくの企画展のなのに、企画側の苦労が見えるようで悲しいし、選ばずに展示したようで下品なので、展示は緑の風景画と睡蓮に絞るべきだったのではないでしょうか。名知聡子のスペースでも感じたことですが、数が多ければいい訳ではありません。

さて、モネの油絵の展示の次は、石本泰博の撮影によるモネ晩年の睡蓮のカラー写真である。石元泰博の名前は、企画展のタイトルには無いことで他の作家との差別化は図られてはいるが、展示の扱いは同格以上であるので私としては批評させていただくことにした。3点一組縦2メートル、幅12メートルの巨大な写真は、ニューヨーク近代美術館が所蔵する睡蓮の原寸大の大きさで、国立国際美術館が1980年に「教育展示」目的で撮影を依頼したものだそうだ。そして残りの壁3面に、クローズアップされた細部の写真が配置されてる。モネの筆遣いと、色の重なり具合がまるで抽象絵画のように見える。

展示の表向きの意図としては、本物のモネの睡蓮を見たことがない方に、実物の大きさ感じてもらい。クローズアップされたディティールを見ることで、睡蓮の配置や配色から現代アートにも通じるような構成の美を見てほしいということだろう。また、モネの作品数を補い、今回の企画の導入として、モネの本物から、現代アートへの繋がりを見せるという狙いであろうか。次の名知聡子の作品との100年近い差、つまり「美術の死」以前の作品と、現代アートとの断絶を嫌味に見せているように見えないこともない。

残念な点としては、
長い間議論されていて、今日も多くの画家にとっての命題である「絵画と写真の違い」の説明責任は、作品の中にもキュレーションにおいても言及されていない。もともと石本の写真は教育展示用の「資料」なのであって、アート作品ではないのだとしてもだ。実寸大の代替品としていうこと以外の展示理由が不明瞭だ。確かに石元の名はこの企画展のタイトルから除外されている。それならば、作品として同格の扱いをしてはいけないのではないか。今回、展示スペースは区切られてはいるが、ほかの現代作家の作品と同等に並べたのは不味かったように思う。写真の「睡蓮」は地方の一美術館にとしてはは苦肉の策か、親切心の出来心だったかもしれないが。

自分にとってのモネとは、
上京してすぐに、国立西洋美術館で「睡蓮」に感動して、半日ずーっと眺めていたことがある。なぜなら、自分が子供の時にずっとあこがれていた「本物」の絵画だったからだ。自分が絵画を楽しんで描いている時に「本物」を見たかった。後にも先にも、このときほど東京の人が羨ましかったことはない。
そして、「睡蓮」は留学先のロンドンのTATEにもあるし、ほんとに世界の美術館はモネの巨大な睡蓮だらけである。モナリザは一点しかないが、睡蓮はたくさんある。睡蓮は、熊本では国宝級の扱いかもしれないが、大量生産絵画なのだ。画家は、同じような作品を同時に描くものだ。ゴッホのヒマワリですら7点あったらしい(6点現存)。自分でも油絵を描けば、あらためてセザンヌに学ぶことはたくさんあるがモネには無い。

ただし、本物に触れる機会は必要だとは思うし、自分が好きな作家ではなくとも、かつてモネの本物に感動したことは忘れない。この写真によるプアマンズモネは(他の作品との同格の扱いから見ても)代替品になってしまっているので、モネの睡蓮との「違い」を自己主張をして欲しかったし、キュレーション側にはもっと明確に展示意図を作り出してほしかったように思う。

vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子 
vol.4 蜷川実花 
vol.5 大巻伸嗣