去年書いた文章をARTit(http://www.art-it.asia/f/k_miyagawa/)ブログ用に再編集したので、
紹介します。
言葉にならない
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/blog-post_2500.html
Artは学問≠技術
http://weartheworld.blogspot.com/2009/07/art.html
Artがない話
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/art.html
おまけで、紹介文も
「Relational Aesthetics」 by Nicolas Bourriaud
http://weartheworld.blogspot.com/2009/07/relational-aesthetics.html
Santiago Sierra
http://weartheworld.blogspot.com/search/label/Santiago%20Sierra
Relational Aestheticsに関して検索してたどり着く方が多いので、
そのうち詳しく書いて載せようかな。
でも僕を信じないで、自分で実際に本読まないと駄目だよ。
単位落とされても責任取りませんよーだ。
主に私が書いたアートに関する「批評」を掲載します。また、コンテンポラリーアートを理解する上で必要なアート理論(ART THEORY)や書籍の紹介をします。現代アートは難しいものではありません。今日から君もアーティスト
2010年3月26日金曜日
2010年3月13日土曜日
タイトル: WE ART THE WORLD
今更ですが、このブログのタイトル(名前)について説明していませんでした。
‘ 由来 ’
あのチャリティーキャンペーン We are the world にちなんだダジャレです。スペルミスでもなくって私が作った造語です。発音すれば同じでしょ? スラングの世界では発音しないアルファベットを省略したりするので、Eを省略。そして、ARTを誤って動詞的に使って、「art the world」 で 「アートをやる!」「世界をアートに!」という新たな意味を込めました。「We are the world(私達が世界)」であり「We art the world (私達が世界をアートにする)」というダブルミーニングです。
‘ IとWE ’
I ART THE WORLD、作家がアートという専門性の高く、超絶スキルで用いて制作された商品価値(commodity)のある「モノ」を作ること。というのがこれまでの一般的なアート制作でした。
そしてオリジナリティに富んだ創造性を持った作家が「I(個人)」を発表する場だったギャラリーなどのアートスペースが、90年代には作家と観客を越えて個人同士が「作品(モノ)」や「作品(場)」を通じて交流する場となりました、そして、作家だけではなく観客も「アートを楽しむこと」「アートに参加すること」「自分のアート体験をすること(モノ以外の価値のあることを自分でつくりだすこと)」が観客の権利として出来る作品に出会うことも多くなってきています。
観客も作家みたいなアート、つまり、みんなアートやってるってことじゃん!というような現代的「アート鑑賞の楽しみの方のひとつ」をこのブログで推進していこうといことです。
言葉は悪いですが、一見ゴミしか見えないかもしれないけど、観客にとって価値のある「ゴミ」の鑑賞の仕方を学ぶ場になればいいと思います。そういう思いです。タイトル負けしないように頑張ります。
‘ 由来 ’
あのチャリティーキャンペーン We are the world にちなんだダジャレです。スペルミスでもなくって私が作った造語です。発音すれば同じでしょ? スラングの世界では発音しないアルファベットを省略したりするので、Eを省略。そして、ARTを誤って動詞的に使って、「art the world」 で 「アートをやる!」「世界をアートに!」という新たな意味を込めました。「We are the world(私達が世界)」であり「We art the world (私達が世界をアートにする)」というダブルミーニングです。
‘ IとWE ’
I ART THE WORLD、作家がアートという専門性の高く、超絶スキルで用いて制作された商品価値(commodity)のある「モノ」を作ること。というのがこれまでの一般的なアート制作でした。
そしてオリジナリティに富んだ創造性を持った作家が「I(個人)」を発表する場だったギャラリーなどのアートスペースが、90年代には作家と観客を越えて個人同士が「作品(モノ)」や「作品(場)」を通じて交流する場となりました、そして、作家だけではなく観客も「アートを楽しむこと」「アートに参加すること」「自分のアート体験をすること(モノ以外の価値のあることを自分でつくりだすこと)」が観客の権利として出来る作品に出会うことも多くなってきています。
観客も作家みたいなアート、つまり、みんなアートやってるってことじゃん!というような現代的「アート鑑賞の楽しみの方のひとつ」をこのブログで推進していこうといことです。
言葉は悪いですが、一見ゴミしか見えないかもしれないけど、観客にとって価値のある「ゴミ」の鑑賞の仕方を学ぶ場になればいいと思います。そういう思いです。タイトル負けしないように頑張ります。
2010年2月27日土曜日
ボヤいてすいません
メールでおしかりを受けました。
差出人偽装で送ってこられたのでメールと返事を全文掲載したいと思います。
差出人を偽装?して送られると返事が送れないです。
この国は、差出人を偽装しないと自分の意見を言えないんだろうか。。。
責任を取れとかいいつつ、自分こそどうなんだかと思われちゃいますよ。
自分の一方的な意見を述べつつ、名無しさんでは、議論を否定したことになりますよ。
せっかく、返事書いたのに失礼じゃないですか?
なので返事を載せます。読んでからまたメールを下さい。
あと、この文章「言葉にはならない」を読んでください
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/blog-post_2500.html
-Nさんより------------------------------------------------------
ブログ: WeARTheWorld
投稿: くらしの豊かさ
リンク: http://weartheworld.blogspot.com/2009/10/blog-post.html
これは批評ではなくボヤキですよね。文句言う前に行動で示してみて下さい。一応、作家さんなのですから、ブログであろうが自分の発する言葉には責任を持つべきです。「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?あなたは「アート」を崇高なものだと謳っているが、一方で「アート」を貶めているのでは。悲観主義者は偉いのでしょうか?観客がアホだからダメだなんて、アートの力を信じていないか、負け惜しみを言っているだけですよ。
----------------------------------------------------------
以下 ぼくからの返事です
Nさん(差出人不肖なので適当につけさせていただきます)へ
ご意見ありがとうございます。
リンクで送ってこられた文章は、「批評」として書いたのではありません。
タグで分類しています。タグが「批評」のものだけです。まあ、それよりも以下の部分が気に入らなかったということですよね。
>「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?
なぜかと言うと、日本的な批評とか鑑賞のあり方の結果として、
あいまいなドロドロが作品が包んでいて守られていて、議論を拒否していて、
レベルアップする可能性を貶めていると思っているからです。
日本語の曖昧さも原因かもしれません。
たとえば、オバマとか言ってることが分かりやすいでしょ?
日本の政治家は煮え切らないし、うやむやというか。
「はっきり言う」ことは、軋轢もうまれることもあるし責任も生まれます。
でも、それは個人の「意見」ですし「意思」ですよね、英語って基本はYESかNOですし、
当然議論になります。でも、相手と意見がどう違うのかよくわかる過程でもありますよね。
だから、私はアートに関してもすべての気持ちや感覚を言語化する努力を行ってみると、違うレベルに行ける。
「僕はこう思ったからこう考えてこういう風につくったんだ」
「いやぼくは、それならば、こうしたほうがいいと思うな」などという議論が必要だと思っています。「ぼくは、そうは思わないから、この作家は「嫌いだ」」とか、
はっきりわかること が
これからの日本のアート界に必要だと思っています。
その為の「言語化」の必要性をあの記事でぼくは謳っております。
あと、個人主義ベースのイギリスでは、前提として、すべての人に「自分の意見」というものが必ずあって、それは絶対に隣人とは違うものだとされています。アート教育でもそうです。徹底的に「自分」というものを意識して確立させられます。むしろそれを出来ないと「存在」が認められない社会でもあるということです。難しいかもしれませんが、「自分の意見」=「個人」=最高のもの という公式が成り立つような社会だし、アートでもそうだということです。学生の場合の一番いい評価というのは、distinctionといって自分らしさが格別に優れている。技術は2の次。ということになります。大学院ではクオリティも減価償却を含めたマネージメント能力も評価されますが。
それで、そういった自分の言葉や意見のことを「自分の言語」という風にご指摘の文章では書いています。極端な場合、文章自体が作品のアートも認知されています。古い例だとオノ=ヨーコとか、最近だとフェリックス=ゴンザレス=トレースとか。
他の文章も少しは読んでいただけたようですが、
観客がアホだなんて思っていませんし、書いていません。
あなたが、自分が馬鹿にされているように感じたからですか?
観客が育たない社会だとは思いますが、言わんとすることも、むしろ逆です。
確かに、私はアカデミック寄りの思考をする傾向はありますが、
それが、そういうように受け取られたのかもしれません。
私も作家?ですし観客ですし、市民です。あなたと変わりません。
ぼくは1市民として作品を作っていますし、発言しています。
私の論文の大きなテーマは青臭いけどもアートの民主化でした。
卒論のタイトルは、「An Investigation of the most democratic form of art」
フルクサス、反芸術、ランドアート(ギャラリーから出たアート)、関係性の芸術
留学中に、「アートを楽しむ文化」むしろ生活習慣といってもいい、
ヨーロッパ的な社会におけるアートの存在感を身にしみました。日常にアートがある生活。
貧乏な人も、障害者も、お金持ちも楽しめるアート。
日本では、観客が本格的に楽しんで鑑賞出来ていないことを残念に感じます。
主に主催者側の問題ですが、防護柵とか学芸委員の態度とかメモ禁止とか。
アート=おしゃれ?みたいなのもおかしいです。もっと血とかうんことか汗の世界です。
あとは、作家側の問題としては、観客がアマチュアだからといって舐めた作品つくってるって事です。村上隆も、国内向けと海外向けで違う説明をしていてダブルスタンダードだと批判する人もいますが、それくらい、国内の批評家とギャラリストがクズだということです。
日本だと、芸大は技術しか教えないし、美術史だと歴史(近代中心)しか学べないし、日本では、よくわからない評論家が審査員として幅を利かせています。
私は作家としては、作品=モノから脱却して、考えてもらう作品、観客が作る作品を考えてきました。アーティストの作品のクオリティは、観客に合わせてつくってきました。
レベルの問題ではなく文化の違いを把握して、国にあわせて違うバージョンもつくります。
それは、観客が「自分」で理解してもらい楽しんで欲しいからです。
油絵も描くし彫刻もつくります。
ブログには、全文掲載できないので私の論文から抜粋して載せている文章もありますし。
おっしゃられるようにボヤキも多いですが、タグで分類しています。
私の分別としてその場合は「批評」として書いていません。
全文批評として書いているように受け取られそうなサブタイトルなので修正しましょうかね。
正直な話、体を壊したこともあって、今ぼくは日本に帰ってきましたが、
何をするべきか、何からするべきかと悩むだけで、行動出来ていません。
環境を整えることが、ほんとに難しくて。東京なら、まだ友人もいるのですが。
私の海外の日本人の友人もだれも日本へは帰ってきません。
日本に自分の居場所がないんです。そばに議論できる相手もいないんです。
そして批評家として生きて行くか、作家も平行してやっていくかも決められません。
情けない限りです。
ただ、観客を育てていかないと、アートは育ちません。
そのせいで、日本は遅れています。やっと日本はポストモダンくらいのレベルです。
必要ないからアートは育ってこなかったのかもしれません、
でもこれからは必要かもしれません。
戦後「具体」という先進的なグループもありましたが、作家が社会から目をそむけた「高尚」な作品つくって、観客は彼岸だったせいで50年遅れてしまった。
ぼくは、もっと「厳しい姿勢」でアートを見て欲しいのです。
作家としても議論されることは有意義なことですから。
海外で個展をすれば、意見を言ってきてくれる、議論をふっかけてくれる、
良いところを良い、「嫌い」と「はっきり」言ってくれる。それは次へのモチベーションにも繋がるし、それを含めてアートの可能性が日本でも開花すると思うのです。
意味不明な理解不明な作品のままにしないとか、
ぼくは、仕事を辞めて
20代後半から留学して基礎から学びました。
そして、コンテクストを読めるような作品の楽しさを感じました。
芸術って理解できるんだと知りました。
そして、作品と観客は議論も出来るし共感も出来る、対話ですかね。
まるで人間同士のような感覚で向き合えるのだと気づきました。
だから、不満なんです。柵の向こうにある作品も、威張った作品も、
床でごろごろできない美術館。公立の美術館って市民の為にあるのに高いですよね。
イギリスのTATE modern, britain は常設展は無料です。
でも、世界中から人が来ますし書籍の販売や寄付のおかで黒字経営しています(そういう国策なんですが)。
それに比べて、日本はみんなの税金でバブルの時代にばかみたいな値段で作品を買ったのに!
常設展でも有料で展示するのとか あーーー。企画展(エキシビジョン)も1200円くらいでしょ?高いよなあ。 書けば切が無いですが。
私は悲観的ですが、諦めてもいないですよ。
映画「アワーミュージック」のパンフレットのなかで、ジャンリュック=ゴダールに「映画で世界は変えれますか?」という質問で、
「それは聞いてはいけない質問です」とこたえる下りがあります。
同じように、アートで直接的に誰かを救うことが出来るのか、人の為にというなら医者にでもなったほうがいいんじゃないか、目の前で自殺する友人をどう救うことが出来るのかと、
どれだけ自分の作品が社会に貢献できるのか、等々。。
貧乏と引き換えに、自由を選んだ責任として、日々働いている方々(私も派遣社員だったこともあります)にとっても楽しめる作品ってないだろうか。だって、明日のご飯が食べれない人にとってどれだけの価値があるのかと思います。
僕にとってアーティストは、身近で隣の奇人さんであり一般市民です。偉いアーティストなんているんですか?ヨーゼフ=ボイスもおっさんですよ。Jeff Koonsもおっさんですよ。
今自分の思考が、地方交付税交付金で各地につくられた銅像を全部破壊しようかと(すげー嫌いなんですよ)、vandalizeですね。怒りがモチベーションになってしまう。森村泰昌の「美の教室」とかそういう発想しちゃうのがよく分かる。そういった方向にしか考えが向かないから困ったことです。あるいみ、一番アートを愛して日本を愛して、社会に向き合おうとすると、「怒った」作品になってしまう。かつての反芸術とかみたいにね、アートの「他の」いい可能性を生かした作品を作りたいんだけれども。
だらだらと書いてしまいましたが、短いものよりも長文歓迎ですのでどんどん書いてください。意見+理由(なぜなら~だからだ!)としっかり書いて、僕の理屈をコテンパンにしてよ。大学では、そうやって叩かれるんだよ、論文担当のクソ教授に日々叩かれる。それがイギリスの美術大学。論理的に批評されて議論する場だったから。ぼくにとっては、なんか言われることのほうが自然でやる気もわいてくるんだよな。どんどん意見をお送りください。日本で私がどうするべきかのアドバイスも歓迎です(ほんとに)。ほんとに困ってんだよな生活面では、絵のフレームつくるのに業者に頼むとか無理。自分でつくるにしろ、工具が高い!イギリスは画材は高いけど、油絵の具だけは安いグレードがあってプロも大きい絵には使ってるくらいだ。高くていい絵の具ってさ、金持ちの主婦ペインターしか使わないんじゃなかろうか。。
話がそれたけど、もし論理的に批評してくれるならうれしいので、そういうのはほんとうにうれしいですよ。僕の場合。だって技術はやってれば見につくけど、議論しないと考えはまとまらないものだからさ。けっこうながくなってしまったけれど
それでは取り急ぎ 失礼いたします
宮川和久
-----------------------------------------------------------------
おーい メアド送れないぞ!しかもスパム扱いでメール来たんだけど。。。
まあ、すぐに書いたのに返信できなかったので、モヤモヤします!
この方の論調を読み直すと、どうして意見を書くと「決め付けられた」と思うんですかね。
「意見」に絶対もくそもないじゃないすか、絶対の真理みたいのって文系の世界にはないんじゃないすかね。今正しいとされていることも、わかんないですよね。教科書に書いてあることは鵜呑みですか、そうですか。信号機が青だったら自動車が来ても渡るんですか?典型的な日本の島国根性ですね。個人の意見というのは、尊重すべきものです。個人は国の宝ですよ。ぼくも自分の意見と同じくらい他者の意見も尊重します。自分の意見を自分が大事にしなくてほかの人の意見なんて聞けないですよ。。。。 ほんと、成りすましとかで送らないでください自分の意見も大事にしてください。あと、メールでわざわざ送りたいくらい「言いたい!」って思ったのなら、そう思った理由をもっともっと書いてください。あなただって言いたいことがあるなら「作品」にしたらいい。この国では、アーティストじゃないと作品つくれないんですか? もし、出来ることがあるなら協力するし。
でも、こういった形で批判されても意味が無いじゃないですか。リアクションに対しては、ぼくも全身全霊で反応しますし、そうすべきだと思っています。もっともっとしゃべりたいです。卑怯なことしないでぶつかって来てください。
お願いします。少し独善的で悲観的な面はありますが、それは性格の問題なので、「批評」では客観性に気をつけたいと思っています。
こういう考え方をする不特定多数(Nさんは文句を言ってくれるだけマシ)を相手に行動を起こさなくてはいけないということなんですかね。僕みたいなのを、勝手にタイプ分けして「ああいう風に考えるやつだろう」と思ってケチをつけるというか。。。日本語って対象を想定しないと言語化できないからかな。で、「作家さん」なんだからと小ばかにしなががら、行動でしめせ!という正論を言って、僕がアートを貶めている!なんて言うけれど、ぼくのどこが貶めているというの?一方的に勘違いをしたあげく、理由も書かずに正しいっぽい一般論?というかただの文句を言って満足みたいな。まさか、みんなNさんみたいに思って読んでるのかな。でもNさんがほんとにアートの力を信じている?というならばすばらしいと思います。こういうケチだけつけてる模範的市民か?自分こそアートを駄目にしてるって側だって気づきませんか?君にだって出来ることがあるんだよ。おまえなんかに行動しろって言われる筋合いはない。人に行動で示せという前に、小さくてもいいからアートを「高める」行動を起こしてみろよ。頼むぜ。アーティスト作品をつくりっぱなしで、観客は受け入れる(or neglect)したままで「議論」したり「批評」しないままでは、この国のアート文化に成長がないと思っています。
自分が言葉で伝えきれてないのは認めます。すいません。もしNさんに機会があるなら海外行って見ろ、大学院留学とか語学留学とかよりもバックパッカーしてみろ、俺が書いてることよく分かるから。
差出人偽装で送ってこられたのでメールと返事を全文掲載したいと思います。
差出人を偽装?して送られると返事が送れないです。
この国は、差出人を偽装しないと自分の意見を言えないんだろうか。。。
責任を取れとかいいつつ、自分こそどうなんだかと思われちゃいますよ。
自分の一方的な意見を述べつつ、名無しさんでは、議論を否定したことになりますよ。
せっかく、返事書いたのに失礼じゃないですか?
なので返事を載せます。読んでからまたメールを下さい。
あと、この文章「言葉にはならない」を読んでください
http://weartheworld.blogspot.com/2009/09/blog-post_2500.html
-Nさんより------------------------------------------------------
ブログ: WeARTheWorld
投稿: くらしの豊かさ
リンク: http://weartheworld.blogspot.com/2009/10/blog-post.html
これは批評ではなくボヤキですよね。文句言う前に行動で示してみて下さい。一応、作家さんなのですから、ブログであろうが自分の発する言葉には責任を持つべきです。「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?あなたは「アート」を崇高なものだと謳っているが、一方で「アート」を貶めているのでは。悲観主義者は偉いのでしょうか?観客がアホだからダメだなんて、アートの力を信じていないか、負け惜しみを言っているだけですよ。
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以下 ぼくからの返事です
Nさん(差出人不肖なので適当につけさせていただきます)へ
ご意見ありがとうございます。
リンクで送ってこられた文章は、「批評」として書いたのではありません。
タグで分類しています。タグが「批評」のものだけです。まあ、それよりも以下の部分が気に入らなかったということですよね。
>「言いたいことの次元は限りなく崇高でなくてはならない、本格的に自分の言語でなくてはならない。自分で考えた言葉は他人と同じ言葉になりえないが、あいまいで分かりにくい表現ではならない。」←どうしてそう決めつけるのですか?
なぜかと言うと、日本的な批評とか鑑賞のあり方の結果として、
あいまいなドロドロが作品が包んでいて守られていて、議論を拒否していて、
レベルアップする可能性を貶めていると思っているからです。
日本語の曖昧さも原因かもしれません。
たとえば、オバマとか言ってることが分かりやすいでしょ?
日本の政治家は煮え切らないし、うやむやというか。
「はっきり言う」ことは、軋轢もうまれることもあるし責任も生まれます。
でも、それは個人の「意見」ですし「意思」ですよね、英語って基本はYESかNOですし、
当然議論になります。でも、相手と意見がどう違うのかよくわかる過程でもありますよね。
だから、私はアートに関してもすべての気持ちや感覚を言語化する努力を行ってみると、違うレベルに行ける。
「僕はこう思ったからこう考えてこういう風につくったんだ」
「いやぼくは、それならば、こうしたほうがいいと思うな」などという議論が必要だと思っています。「ぼくは、そうは思わないから、この作家は「嫌いだ」」とか、
はっきりわかること が
これからの日本のアート界に必要だと思っています。
その為の「言語化」の必要性をあの記事でぼくは謳っております。
あと、個人主義ベースのイギリスでは、前提として、すべての人に「自分の意見」というものが必ずあって、それは絶対に隣人とは違うものだとされています。アート教育でもそうです。徹底的に「自分」というものを意識して確立させられます。むしろそれを出来ないと「存在」が認められない社会でもあるということです。難しいかもしれませんが、「自分の意見」=「個人」=最高のもの という公式が成り立つような社会だし、アートでもそうだということです。学生の場合の一番いい評価というのは、distinctionといって自分らしさが格別に優れている。技術は2の次。ということになります。大学院ではクオリティも減価償却を含めたマネージメント能力も評価されますが。
それで、そういった自分の言葉や意見のことを「自分の言語」という風にご指摘の文章では書いています。極端な場合、文章自体が作品のアートも認知されています。古い例だとオノ=ヨーコとか、最近だとフェリックス=ゴンザレス=トレースとか。
他の文章も少しは読んでいただけたようですが、
観客がアホだなんて思っていませんし、書いていません。
あなたが、自分が馬鹿にされているように感じたからですか?
観客が育たない社会だとは思いますが、言わんとすることも、むしろ逆です。
確かに、私はアカデミック寄りの思考をする傾向はありますが、
それが、そういうように受け取られたのかもしれません。
私も作家?ですし観客ですし、市民です。あなたと変わりません。
ぼくは1市民として作品を作っていますし、発言しています。
私の論文の大きなテーマは青臭いけどもアートの民主化でした。
卒論のタイトルは、「An Investigation of the most democratic form of art」
フルクサス、反芸術、ランドアート(ギャラリーから出たアート)、関係性の芸術
留学中に、「アートを楽しむ文化」むしろ生活習慣といってもいい、
ヨーロッパ的な社会におけるアートの存在感を身にしみました。日常にアートがある生活。
貧乏な人も、障害者も、お金持ちも楽しめるアート。
日本では、観客が本格的に楽しんで鑑賞出来ていないことを残念に感じます。
主に主催者側の問題ですが、防護柵とか学芸委員の態度とかメモ禁止とか。
アート=おしゃれ?みたいなのもおかしいです。もっと血とかうんことか汗の世界です。
あとは、作家側の問題としては、観客がアマチュアだからといって舐めた作品つくってるって事です。村上隆も、国内向けと海外向けで違う説明をしていてダブルスタンダードだと批判する人もいますが、それくらい、国内の批評家とギャラリストがクズだということです。
日本だと、芸大は技術しか教えないし、美術史だと歴史(近代中心)しか学べないし、日本では、よくわからない評論家が審査員として幅を利かせています。
私は作家としては、作品=モノから脱却して、考えてもらう作品、観客が作る作品を考えてきました。アーティストの作品のクオリティは、観客に合わせてつくってきました。
レベルの問題ではなく文化の違いを把握して、国にあわせて違うバージョンもつくります。
それは、観客が「自分」で理解してもらい楽しんで欲しいからです。
油絵も描くし彫刻もつくります。
ブログには、全文掲載できないので私の論文から抜粋して載せている文章もありますし。
おっしゃられるようにボヤキも多いですが、タグで分類しています。
私の分別としてその場合は「批評」として書いていません。
全文批評として書いているように受け取られそうなサブタイトルなので修正しましょうかね。
正直な話、体を壊したこともあって、今ぼくは日本に帰ってきましたが、
何をするべきか、何からするべきかと悩むだけで、行動出来ていません。
環境を整えることが、ほんとに難しくて。東京なら、まだ友人もいるのですが。
私の海外の日本人の友人もだれも日本へは帰ってきません。
日本に自分の居場所がないんです。そばに議論できる相手もいないんです。
そして批評家として生きて行くか、作家も平行してやっていくかも決められません。
情けない限りです。
ただ、観客を育てていかないと、アートは育ちません。
そのせいで、日本は遅れています。やっと日本はポストモダンくらいのレベルです。
必要ないからアートは育ってこなかったのかもしれません、
でもこれからは必要かもしれません。
戦後「具体」という先進的なグループもありましたが、作家が社会から目をそむけた「高尚」な作品つくって、観客は彼岸だったせいで50年遅れてしまった。
ぼくは、もっと「厳しい姿勢」でアートを見て欲しいのです。
作家としても議論されることは有意義なことですから。
海外で個展をすれば、意見を言ってきてくれる、議論をふっかけてくれる、
良いところを良い、「嫌い」と「はっきり」言ってくれる。それは次へのモチベーションにも繋がるし、それを含めてアートの可能性が日本でも開花すると思うのです。
意味不明な理解不明な作品のままにしないとか、
ぼくは、仕事を辞めて
20代後半から留学して基礎から学びました。
そして、コンテクストを読めるような作品の楽しさを感じました。
芸術って理解できるんだと知りました。
そして、作品と観客は議論も出来るし共感も出来る、対話ですかね。
まるで人間同士のような感覚で向き合えるのだと気づきました。
だから、不満なんです。柵の向こうにある作品も、威張った作品も、
床でごろごろできない美術館。公立の美術館って市民の為にあるのに高いですよね。
イギリスのTATE modern, britain は常設展は無料です。
でも、世界中から人が来ますし書籍の販売や寄付のおかで黒字経営しています(そういう国策なんですが)。
それに比べて、日本はみんなの税金でバブルの時代にばかみたいな値段で作品を買ったのに!
常設展でも有料で展示するのとか あーーー。企画展(エキシビジョン)も1200円くらいでしょ?高いよなあ。 書けば切が無いですが。
私は悲観的ですが、諦めてもいないですよ。
映画「アワーミュージック」のパンフレットのなかで、ジャンリュック=ゴダールに「映画で世界は変えれますか?」という質問で、
「それは聞いてはいけない質問です」とこたえる下りがあります。
同じように、アートで直接的に誰かを救うことが出来るのか、人の為にというなら医者にでもなったほうがいいんじゃないか、目の前で自殺する友人をどう救うことが出来るのかと、
どれだけ自分の作品が社会に貢献できるのか、等々。。
貧乏と引き換えに、自由を選んだ責任として、日々働いている方々(私も派遣社員だったこともあります)にとっても楽しめる作品ってないだろうか。だって、明日のご飯が食べれない人にとってどれだけの価値があるのかと思います。
僕にとってアーティストは、身近で隣の奇人さんであり一般市民です。偉いアーティストなんているんですか?ヨーゼフ=ボイスもおっさんですよ。Jeff Koonsもおっさんですよ。
今自分の思考が、地方交付税交付金で各地につくられた銅像を全部破壊しようかと(すげー嫌いなんですよ)、vandalizeですね。怒りがモチベーションになってしまう。森村泰昌の「美の教室」とかそういう発想しちゃうのがよく分かる。そういった方向にしか考えが向かないから困ったことです。あるいみ、一番アートを愛して日本を愛して、社会に向き合おうとすると、「怒った」作品になってしまう。かつての反芸術とかみたいにね、アートの「他の」いい可能性を生かした作品を作りたいんだけれども。
だらだらと書いてしまいましたが、短いものよりも長文歓迎ですのでどんどん書いてください。意見+理由(なぜなら~だからだ!)としっかり書いて、僕の理屈をコテンパンにしてよ。大学では、そうやって叩かれるんだよ、論文担当のクソ教授に日々叩かれる。それがイギリスの美術大学。論理的に批評されて議論する場だったから。ぼくにとっては、なんか言われることのほうが自然でやる気もわいてくるんだよな。どんどん意見をお送りください。日本で私がどうするべきかのアドバイスも歓迎です(ほんとに)。ほんとに困ってんだよな生活面では、絵のフレームつくるのに業者に頼むとか無理。自分でつくるにしろ、工具が高い!イギリスは画材は高いけど、油絵の具だけは安いグレードがあってプロも大きい絵には使ってるくらいだ。高くていい絵の具ってさ、金持ちの主婦ペインターしか使わないんじゃなかろうか。。
話がそれたけど、もし論理的に批評してくれるならうれしいので、そういうのはほんとうにうれしいですよ。僕の場合。だって技術はやってれば見につくけど、議論しないと考えはまとまらないものだからさ。けっこうながくなってしまったけれど
それでは取り急ぎ 失礼いたします
宮川和久
-----------------------------------------------------------------
おーい メアド送れないぞ!しかもスパム扱いでメール来たんだけど。。。
まあ、すぐに書いたのに返信できなかったので、モヤモヤします!
この方の論調を読み直すと、どうして意見を書くと「決め付けられた」と思うんですかね。
「意見」に絶対もくそもないじゃないすか、絶対の真理みたいのって文系の世界にはないんじゃないすかね。今正しいとされていることも、わかんないですよね。教科書に書いてあることは鵜呑みですか、そうですか。信号機が青だったら自動車が来ても渡るんですか?典型的な日本の島国根性ですね。個人の意見というのは、尊重すべきものです。個人は国の宝ですよ。ぼくも自分の意見と同じくらい他者の意見も尊重します。自分の意見を自分が大事にしなくてほかの人の意見なんて聞けないですよ。。。。 ほんと、成りすましとかで送らないでください自分の意見も大事にしてください。あと、メールでわざわざ送りたいくらい「言いたい!」って思ったのなら、そう思った理由をもっともっと書いてください。あなただって言いたいことがあるなら「作品」にしたらいい。この国では、アーティストじゃないと作品つくれないんですか? もし、出来ることがあるなら協力するし。
でも、こういった形で批判されても意味が無いじゃないですか。リアクションに対しては、ぼくも全身全霊で反応しますし、そうすべきだと思っています。もっともっとしゃべりたいです。卑怯なことしないでぶつかって来てください。
お願いします。少し独善的で悲観的な面はありますが、それは性格の問題なので、「批評」では客観性に気をつけたいと思っています。
こういう考え方をする不特定多数(Nさんは文句を言ってくれるだけマシ)を相手に行動を起こさなくてはいけないということなんですかね。僕みたいなのを、勝手にタイプ分けして「ああいう風に考えるやつだろう」と思ってケチをつけるというか。。。日本語って対象を想定しないと言語化できないからかな。で、「作家さん」なんだからと小ばかにしなががら、行動でしめせ!という正論を言って、僕がアートを貶めている!なんて言うけれど、ぼくのどこが貶めているというの?一方的に勘違いをしたあげく、理由も書かずに正しいっぽい一般論?というかただの文句を言って満足みたいな。まさか、みんなNさんみたいに思って読んでるのかな。でもNさんがほんとにアートの力を信じている?というならばすばらしいと思います。こういうケチだけつけてる模範的市民か?自分こそアートを駄目にしてるって側だって気づきませんか?君にだって出来ることがあるんだよ。おまえなんかに行動しろって言われる筋合いはない。人に行動で示せという前に、小さくてもいいからアートを「高める」行動を起こしてみろよ。頼むぜ。アーティスト作品をつくりっぱなしで、観客は受け入れる(or neglect)したままで「議論」したり「批評」しないままでは、この国のアート文化に成長がないと思っています。
自分が言葉で伝えきれてないのは認めます。すいません。もしNさんに機会があるなら海外行って見ろ、大学院留学とか語学留学とかよりもバックパッカーしてみろ、俺が書いてることよく分かるから。
2009年10月7日水曜日
くらしの豊かさ
液晶テレビからは延々とバラエティ番組、パソコンではネットショッピング、蛍光灯が眩しく部屋の隅まで照らしている日本。家電製品、調理器具は基本的に新しい。駅のエスカレーターも常に動いている、止まるのは省エネタイプの最新型くらいだ。ホームには障害者用のエレベーターもかならずある。電車は決まって規則正しく動くし、ゆりかもめの無人運転のように山手線も滞りなく動く、止まるのは人身事故が起こったときくらいでしょ。ロボットに支えられているかのようにすべてが緻密に噛み合っていく。暗黙のコミュニケーションがまかり通っていて、何も言葉を発せずとも生きていける気がする。
僕がイギリスで経験した暮らしを思い出してみよう。
万年不況だし、女王いるし、首相いるし市民革命無かったし、アメリカの属国(失礼)だし、島国根性で人見知りなので結構似てる部分もある。ロンドンは、日本はこれからこうなって行くんだろうなっていうような他民族都市だ。だけど暮らせばやっぱり違う。紳士の国なのに(本当の紳士は穴が開くことが誇りだから)シャツの袖には穴は開いてるし、袖には鼻水だってついている。すべての「新品」は高いから、古いものを長い間大事に使うからすべての家電が古いし、日本ほど新製品は気軽なものではない。そりゃハイビジョンでデジタル放送対応の大画面TVもあるけど物価から考えると日本の2~3倍の値段だ。パソコンは型落ちだし、携帯電話は、2000円くらいで買えるプリペイド方式で、通話自体も短めでショートメール中心。最近は、ようやくE-mailを受信したりインターネット見れたり,Skypeを使う無料携帯も普及している。部屋には、14インチないブラウン管のテレビが微弱な電波で通信状況も悪い(デジタル放送はきれいだけど)。天井には60Wの白熱電球か、スタンドライトだけで暖色系で薄暗い。新聞はオレンジ色に見える。エアコンはないから扇風機。冬はドライヤー以下の性能の電気ファンヒーター、ケチケチつかうセントラルヒーティング(就寝時は消す)。だから、なんら変化も進歩まない昔ながらの「湯たんぽ」は、かわいいカバーに包まれてはいるが、いまだに冬場は人気がある。家具は、良くてアンティークの戸棚や机でどこか壊れている。普通は、IKEAやARGOSの家具だ。ベッドマットはスプリングが弱っていて真ん中が凹むから逆への字になる。それでも、インテリアは素敵でDIYして自分色にリフォームしてあるから大家のセンスが良くって昔の家を改装したような物件ならとっても素敵な雰囲気だ。中産階級以上なら本物の絵画や版画が壁には飾ってあったりする。もっと上の階級なら、現代アートの立体作品が飾ってある。暮らしの中の「文化」の割合が多いってことだ。通学でTUBE(地下鉄)が動いていたら今日はいいことあるんじゃないかと思うくらいうれしい。バスも故障するし、運転手の都合で「降りろ」なんてことはざらだし。ストライキもあるし。いつも壊れている駅の上りのエスカレーターが動いているとびっくりする。でも、ホームへは階段しかない。障害者?それ以前にエレベーターはどこの駅にも無い。日本が社会的インフラの面でborderlessならイギリスはborderful社会だ。だけど(だから?)、老人がトランクを持って階段を上っていく、若い男が我こそはと手伝う。この国では、自分で自分の身を守る、体が弱ったら死を意味する。死のうと思えばいつでも死ねる。だからこそ、当たり前のように周囲が、困っている人を手伝う。妊婦が乗ってくれば、サーっと男たちが立ち上がって声をどうぞどうぞと声を掛ける。ちゃんと暮らすためには困ったら声を出すし、文句を言うし、権利を主張するし、人にも頼む、人と話すしかない。人間同士の接触が多い分コミュニケーションがある。そうせざるを得ない。「くらし」っていうと漠然としてるけど、晴れれば機嫌が良くなって公園でごろごろしたりする。幸せだ。
友達に会いにスウェーデンに行った。街が日本よりきれいだ。ごみが落ちてない。教育にお金がかからない、紙とノート、学校のコーヒーマシンもおいしいのに無料だ。インテリアも居心地がよくってリラックスできる。税金は高いから、すべてが高いけど。最低限の人間らしいくらしのレベルが世界でも高いと思う。
日本人の暮らしに対する欲望は、ロボットやロボットのように働く人々に支えられているみたいで、個人が見えにくい。みんな常識を共有している。B型は嫌われる(僕はA型だけど)。最新の家電とカッシーナの家具、流行っているからと並んで買ったIKEAの家具に囲まれるのをぼくはいいとは思えない。IKEAは北欧家具の劣化コピーであって代替品だ。イギリスには流行が無いといってもいいぐらいだ。流行だっていつだってマイノリティの所業だった。それぐらい変えがたい「自分」のセンスがみなにあるからだ。日本の観光地は飽きられるまでいっぱいだ。それよりも、晴れたら会社や学校を休んで公園でボーっとするのは結構幸せだ。イギリスでは、公園は常に流行っている。僕は人間って同じだと思ってたけど。イギリス人はみんな違う人間だと思う。イギリスには「個人」と「個人」が存在してコミュニケーションという名の議論が介在しているのだ。そして、イギリス人に「常識」なし、あるのはマナー。大事にしてる事がみんな違うから主張せざるを得ない。だからぶつかり合うし、すべてのアクシデントや遅延はイギリス人の「人間力」によるヒューマンエラーのせい。だからとーっても経済効率も悪いけど、イギリス人も不満を言いながらもけっこうあれでみんな幸せなんだってことに気づいた。文句を言う隙間の無いような社会は嫌だ。たくさんの問題があるからなのか、「生きてる」って自覚は常にした。常に1%は緊張してるのだけれども。対立があるから、返って自分の存在とか見えてくる。
そういえば、ロンドンの最初の一年は、誰も干渉してこない、構ってくれないことの開放感を味わった。自分で耳を澄まさないと入ってこない情報。常に自分が何をしたいか、それだけなのだ。まあ、長くすんでいると、そういう自由にもなれてしまうのだが。日本に帰ってきて、まず感じたのは、他人に対する視線。ロンドン時代も、「外人」としての視線は受けていたけれども、久しぶりに東京を歩いていて、日本人ってこんなに見るの?って肩身が狭いような感じがした。彼らにとって異質な「自分」を見ているのかなと思ってたけど。よくよく考えてみると、日本人は無意識的に空間にいるすべての人を把握するのだ、その場の「空気」を読むために。僕も日本にいた時は、あまりにも無意識に同じことをしていたので気づかなかっただけだ。イギリス人(違うけど)として日本に生活すると、干渉を受けている気がするし自分が溶け込めていないことの恐怖を感じてしまう(僕だけかな)。昔、British Councilで英会話を習っていたときに、スコットランド人の先生が日本はストレスフルだ。ストレスフルだ。と日々ぼやいていて疲れきっていてかわいそうだったのを思い出した。今思えば、いつも見られている感覚はキツイかったのだろう。でも、僕は帰国から3ヶ月経ってみて、またそういう視線を気にしなくなってきたようで外でもストレスを感じなくなってきつつあるし、身の回りの異質なものへ視線を飛ばしてはじめているのかもしれない。
ありきたりだけど。他人の「自分」も尊重しながら「自分」らしく暮らしていくことが出来るならば、幸せな暮らしだということなのではないだろうか。それを守るための社会であり、政治でありさえすればさぞ暮らしやすいことだろう。日本人の若者には「主張」が求められているそうだ。それは変化の予兆であってチャンスかもしれないのだけど、日本に育つ限り無いはずの「自分」なんて主張させられてかわいそうだなと思う。自分のやりたいことを見つけて、自分の判断で生活することの責任を負わせてくれるほど、日本社会は円熟していないからだ。イギリス人は自分の存在を周囲に認めさせる為に「主張」する。子供の頃から、「個人」として尊重されて教育されるようなベースがある。日本人がその場に合わせて「主張」する姿よりも、中国人が自分の利益の為だけに「主張」をしている姿のほうが国際的だと思う。協調性のある「自分」なんて存在しないのだから。日本の本格的な変化は最底辺の人々が権利を主張を始めることでしか起こりえないと思う。それは、主張しなければ生きていけない世の中へ変わるということかもしれないが。
だから、といっても、まとまってないけど。。。
日本人って技術も能力もあって、あんなに働いてるのにどうして貧しいんだろうか、そこがおかしい。イギリスは格差社会だ、日本よりそのクラスから抜け出せない。がんばれば幸せになれるという幻想を消し去って、イギリス人のように仕事を適当にがんばって余暇を旅行なり趣味なりに費やして仕事から離れることで救われる部分もあるだろう。
問題なんて世界中に溢れているし、自分の幸せに自信が持てる人なんていないとは思うけれど、これからの日本ではどうしたら豊かになれるのであろうか。僕には、日本人に突き放されたメディア(=アート)で変えていくことしか、今更いい年になってしまったから考えられない。ぼくは、日本人とってアートて楽しくもないし意味もないと思う。これは事実だと思う。だからより一層、制作者は社会との接点を求めていかねばならない。これは社会に迎合しろと言っているのではない、世界に認めさせるようなすごいもんを日本国内ででもつくってほしい。日本というアート後進国にレベルに合わせたアートもある。Arte Povera, Flux, 反芸術といった60年代のムーブメントは、恥ずかしい事だけど今の日本で完全に機能しそうであるから、それらに制作の軸を求めるのもいいと思う。まあ、急がなくとも、底辺のくらしが豊かになれば、状況も変わってくると思うのだが。
僕がイギリスで経験した暮らしを思い出してみよう。
万年不況だし、女王いるし、首相いるし市民革命無かったし、アメリカの属国(失礼)だし、島国根性で人見知りなので結構似てる部分もある。ロンドンは、日本はこれからこうなって行くんだろうなっていうような他民族都市だ。だけど暮らせばやっぱり違う。紳士の国なのに(本当の紳士は穴が開くことが誇りだから)シャツの袖には穴は開いてるし、袖には鼻水だってついている。すべての「新品」は高いから、古いものを長い間大事に使うからすべての家電が古いし、日本ほど新製品は気軽なものではない。そりゃハイビジョンでデジタル放送対応の大画面TVもあるけど物価から考えると日本の2~3倍の値段だ。パソコンは型落ちだし、携帯電話は、2000円くらいで買えるプリペイド方式で、通話自体も短めでショートメール中心。最近は、ようやくE-mailを受信したりインターネット見れたり,Skypeを使う無料携帯も普及している。部屋には、14インチないブラウン管のテレビが微弱な電波で通信状況も悪い(デジタル放送はきれいだけど)。天井には60Wの白熱電球か、スタンドライトだけで暖色系で薄暗い。新聞はオレンジ色に見える。エアコンはないから扇風機。冬はドライヤー以下の性能の電気ファンヒーター、ケチケチつかうセントラルヒーティング(就寝時は消す)。だから、なんら変化も進歩まない昔ながらの「湯たんぽ」は、かわいいカバーに包まれてはいるが、いまだに冬場は人気がある。家具は、良くてアンティークの戸棚や机でどこか壊れている。普通は、IKEAやARGOSの家具だ。ベッドマットはスプリングが弱っていて真ん中が凹むから逆への字になる。それでも、インテリアは素敵でDIYして自分色にリフォームしてあるから大家のセンスが良くって昔の家を改装したような物件ならとっても素敵な雰囲気だ。中産階級以上なら本物の絵画や版画が壁には飾ってあったりする。もっと上の階級なら、現代アートの立体作品が飾ってある。暮らしの中の「文化」の割合が多いってことだ。通学でTUBE(地下鉄)が動いていたら今日はいいことあるんじゃないかと思うくらいうれしい。バスも故障するし、運転手の都合で「降りろ」なんてことはざらだし。ストライキもあるし。いつも壊れている駅の上りのエスカレーターが動いているとびっくりする。でも、ホームへは階段しかない。障害者?それ以前にエレベーターはどこの駅にも無い。日本が社会的インフラの面でborderlessならイギリスはborderful社会だ。だけど(だから?)、老人がトランクを持って階段を上っていく、若い男が我こそはと手伝う。この国では、自分で自分の身を守る、体が弱ったら死を意味する。死のうと思えばいつでも死ねる。だからこそ、当たり前のように周囲が、困っている人を手伝う。妊婦が乗ってくれば、サーっと男たちが立ち上がって声をどうぞどうぞと声を掛ける。ちゃんと暮らすためには困ったら声を出すし、文句を言うし、権利を主張するし、人にも頼む、人と話すしかない。人間同士の接触が多い分コミュニケーションがある。そうせざるを得ない。「くらし」っていうと漠然としてるけど、晴れれば機嫌が良くなって公園でごろごろしたりする。幸せだ。
友達に会いにスウェーデンに行った。街が日本よりきれいだ。ごみが落ちてない。教育にお金がかからない、紙とノート、学校のコーヒーマシンもおいしいのに無料だ。インテリアも居心地がよくってリラックスできる。税金は高いから、すべてが高いけど。最低限の人間らしいくらしのレベルが世界でも高いと思う。
日本人の暮らしに対する欲望は、ロボットやロボットのように働く人々に支えられているみたいで、個人が見えにくい。みんな常識を共有している。B型は嫌われる(僕はA型だけど)。最新の家電とカッシーナの家具、流行っているからと並んで買ったIKEAの家具に囲まれるのをぼくはいいとは思えない。IKEAは北欧家具の劣化コピーであって代替品だ。イギリスには流行が無いといってもいいぐらいだ。流行だっていつだってマイノリティの所業だった。それぐらい変えがたい「自分」のセンスがみなにあるからだ。日本の観光地は飽きられるまでいっぱいだ。それよりも、晴れたら会社や学校を休んで公園でボーっとするのは結構幸せだ。イギリスでは、公園は常に流行っている。僕は人間って同じだと思ってたけど。イギリス人はみんな違う人間だと思う。イギリスには「個人」と「個人」が存在してコミュニケーションという名の議論が介在しているのだ。そして、イギリス人に「常識」なし、あるのはマナー。大事にしてる事がみんな違うから主張せざるを得ない。だからぶつかり合うし、すべてのアクシデントや遅延はイギリス人の「人間力」によるヒューマンエラーのせい。だからとーっても経済効率も悪いけど、イギリス人も不満を言いながらもけっこうあれでみんな幸せなんだってことに気づいた。文句を言う隙間の無いような社会は嫌だ。たくさんの問題があるからなのか、「生きてる」って自覚は常にした。常に1%は緊張してるのだけれども。対立があるから、返って自分の存在とか見えてくる。
そういえば、ロンドンの最初の一年は、誰も干渉してこない、構ってくれないことの開放感を味わった。自分で耳を澄まさないと入ってこない情報。常に自分が何をしたいか、それだけなのだ。まあ、長くすんでいると、そういう自由にもなれてしまうのだが。日本に帰ってきて、まず感じたのは、他人に対する視線。ロンドン時代も、「外人」としての視線は受けていたけれども、久しぶりに東京を歩いていて、日本人ってこんなに見るの?って肩身が狭いような感じがした。彼らにとって異質な「自分」を見ているのかなと思ってたけど。よくよく考えてみると、日本人は無意識的に空間にいるすべての人を把握するのだ、その場の「空気」を読むために。僕も日本にいた時は、あまりにも無意識に同じことをしていたので気づかなかっただけだ。イギリス人(違うけど)として日本に生活すると、干渉を受けている気がするし自分が溶け込めていないことの恐怖を感じてしまう(僕だけかな)。昔、British Councilで英会話を習っていたときに、スコットランド人の先生が日本はストレスフルだ。ストレスフルだ。と日々ぼやいていて疲れきっていてかわいそうだったのを思い出した。今思えば、いつも見られている感覚はキツイかったのだろう。でも、僕は帰国から3ヶ月経ってみて、またそういう視線を気にしなくなってきたようで外でもストレスを感じなくなってきつつあるし、身の回りの異質なものへ視線を飛ばしてはじめているのかもしれない。
ありきたりだけど。他人の「自分」も尊重しながら「自分」らしく暮らしていくことが出来るならば、幸せな暮らしだということなのではないだろうか。それを守るための社会であり、政治でありさえすればさぞ暮らしやすいことだろう。日本人の若者には「主張」が求められているそうだ。それは変化の予兆であってチャンスかもしれないのだけど、日本に育つ限り無いはずの「自分」なんて主張させられてかわいそうだなと思う。自分のやりたいことを見つけて、自分の判断で生活することの責任を負わせてくれるほど、日本社会は円熟していないからだ。イギリス人は自分の存在を周囲に認めさせる為に「主張」する。子供の頃から、「個人」として尊重されて教育されるようなベースがある。日本人がその場に合わせて「主張」する姿よりも、中国人が自分の利益の為だけに「主張」をしている姿のほうが国際的だと思う。協調性のある「自分」なんて存在しないのだから。日本の本格的な変化は最底辺の人々が権利を主張を始めることでしか起こりえないと思う。それは、主張しなければ生きていけない世の中へ変わるということかもしれないが。
だから、といっても、まとまってないけど。。。
日本人って技術も能力もあって、あんなに働いてるのにどうして貧しいんだろうか、そこがおかしい。イギリスは格差社会だ、日本よりそのクラスから抜け出せない。がんばれば幸せになれるという幻想を消し去って、イギリス人のように仕事を適当にがんばって余暇を旅行なり趣味なりに費やして仕事から離れることで救われる部分もあるだろう。
問題なんて世界中に溢れているし、自分の幸せに自信が持てる人なんていないとは思うけれど、これからの日本ではどうしたら豊かになれるのであろうか。僕には、日本人に突き放されたメディア(=アート)で変えていくことしか、今更いい年になってしまったから考えられない。ぼくは、日本人とってアートて楽しくもないし意味もないと思う。これは事実だと思う。だからより一層、制作者は社会との接点を求めていかねばならない。これは社会に迎合しろと言っているのではない、世界に認めさせるようなすごいもんを日本国内ででもつくってほしい。日本というアート後進国にレベルに合わせたアートもある。Arte Povera, Flux, 反芸術といった60年代のムーブメントは、恥ずかしい事だけど今の日本で完全に機能しそうであるから、それらに制作の軸を求めるのもいいと思う。まあ、急がなくとも、底辺のくらしが豊かになれば、状況も変わってくると思うのだが。
2009年9月28日月曜日
パクリ
アートにはパクリは無い。
積極的な意味でのappropriation(盗用)はある。批判的な意味で行われる。
極端な話、見た目もサイズもまったく一緒の作品が存在しても
コンテクストが違うなら、別の作品。パクリでもなんでもない。
まったく違う文化圏にいても、自分らしさを突き詰めた作品であっても他人の作品に結果的に似てしまうこともある。ほとんどのアイディアには先駆者がいるし、やりつくされた感はある。
もうすでに当然似たものが存在すると思ったほうがいい、だから事前に似た作品について調べる必要はあるし、referenceとして、その作品との自分の作品との違いや類似点について考える必要がある。
ぼくが、言いたいのは、デザインやクラフト(工芸)にはパクリがある。
真似できないような超絶技巧出でない限りは、同じものや似たコピーをつくることが出来てしまう。
それは、製品であり、物だからだ。
でもアートにはパクりは無い。なぜならアート=コンテクストだからだ。コンテクストは真似できない。作品の「見た目」がアートなのではない。だから、見た目をパクラレタ!俺のアイディアだ!と言っている奴は、アートを分かっていない。単純なアイディアなら、先駆者が世界中にいる。でも、まったく同じことはしていないはずだ。他人の作品のコンテクストは誰にも真似できないのだから。コンセプト以前に、作家の性別、年齢、国籍、学歴などもコンテクストである。作家の背景で作品の意味が変わってくる。そういった読み解き方をされないように作家の存在を表に出さないようなコンセプトの作品もあるくらいだ。最近では、作品とは観客の経験だ、その場で生成された人同士つながりだという作品も多い。まあ、そういうコンテクストなのだが。サイトスペシフィックやインタラクティブな経験など、作品の意味を流動させるシステムなのである、もはや模倣とは無縁である。
じゃあ、仮に見た目だけじゃなくて、コンテクストをパクられたらどうしよう?
では、パクられた同じコンテクストで同じ作品がつくれるだろうか?
必ず違う結論(作品)に到達するはずだ、その違いこそ「作家性」だといえるかもしれない。そしてコンテクストは作家の「自分性」から逃れられない。コンテクストを盗んだところで結局自分の作品に生かせるならいいけど、最高のほめ言葉「自分らしい作品」へとコンテクストを整形することは出来ないのではないだろうか。
そういうわけで、どんどん自分らしい作品をつくるがいいし、見た目をぱくられたくらいで目くじら立てる必要はないってことを言いたい。だって、そのぱくったアイディアでつくっても、君には勝てない。え?上手にぱくられたら困る?それは、その人より先にいい作品をつくるしかないんじゃないかなあ。
まあ、同じ先生の生徒が、同じような絵を描くとか、エゴン・シーレの画集を見せたらクラス中がエゴン・シーレだらけになった。芸大に合格した生徒の絵を予備校生が真似るなんてことはよく聞くけれど、自信を持って自分らしいものを作っていきたいものですね。
積極的な意味でのappropriation(盗用)はある。批判的な意味で行われる。
極端な話、見た目もサイズもまったく一緒の作品が存在しても
コンテクストが違うなら、別の作品。パクリでもなんでもない。
まったく違う文化圏にいても、自分らしさを突き詰めた作品であっても他人の作品に結果的に似てしまうこともある。ほとんどのアイディアには先駆者がいるし、やりつくされた感はある。
もうすでに当然似たものが存在すると思ったほうがいい、だから事前に似た作品について調べる必要はあるし、referenceとして、その作品との自分の作品との違いや類似点について考える必要がある。
ぼくが、言いたいのは、デザインやクラフト(工芸)にはパクリがある。
真似できないような超絶技巧出でない限りは、同じものや似たコピーをつくることが出来てしまう。
それは、製品であり、物だからだ。
でもアートにはパクりは無い。なぜならアート=コンテクストだからだ。コンテクストは真似できない。作品の「見た目」がアートなのではない。だから、見た目をパクラレタ!俺のアイディアだ!と言っている奴は、アートを分かっていない。単純なアイディアなら、先駆者が世界中にいる。でも、まったく同じことはしていないはずだ。他人の作品のコンテクストは誰にも真似できないのだから。コンセプト以前に、作家の性別、年齢、国籍、学歴などもコンテクストである。作家の背景で作品の意味が変わってくる。そういった読み解き方をされないように作家の存在を表に出さないようなコンセプトの作品もあるくらいだ。最近では、作品とは観客の経験だ、その場で生成された人同士つながりだという作品も多い。まあ、そういうコンテクストなのだが。サイトスペシフィックやインタラクティブな経験など、作品の意味を流動させるシステムなのである、もはや模倣とは無縁である。
じゃあ、仮に見た目だけじゃなくて、コンテクストをパクられたらどうしよう?
では、パクられた同じコンテクストで同じ作品がつくれるだろうか?
必ず違う結論(作品)に到達するはずだ、その違いこそ「作家性」だといえるかもしれない。そしてコンテクストは作家の「自分性」から逃れられない。コンテクストを盗んだところで結局自分の作品に生かせるならいいけど、最高のほめ言葉「自分らしい作品」へとコンテクストを整形することは出来ないのではないだろうか。
そういうわけで、どんどん自分らしい作品をつくるがいいし、見た目をぱくられたくらいで目くじら立てる必要はないってことを言いたい。だって、そのぱくったアイディアでつくっても、君には勝てない。え?上手にぱくられたら困る?それは、その人より先にいい作品をつくるしかないんじゃないかなあ。
まあ、同じ先生の生徒が、同じような絵を描くとか、エゴン・シーレの画集を見せたらクラス中がエゴン・シーレだらけになった。芸大に合格した生徒の絵を予備校生が真似るなんてことはよく聞くけれど、自信を持って自分らしいものを作っていきたいものですね。
Artがない話
今回は日本育ちのアーティストへけんかをふっかけるような内容です。
うんと、言いにくいですが、
日本にはアートはありません。歴史上も
(この辺は、文明開化、殖産興業、フェノロサ、岡倉天心とかを調べて見てください)。
技術重視の古典的で自律的なアートでも、哲学がないと、Artじゃない。黎明期の日本洋画壇の苦悩の根源には、ヨーロッパのアート哲学を一朝一夕には会得できなかったことがあるわけですが、どれほど改善されたのでしょうか。そして、時代は移ろい、現代アートは観客(意味を分かってくれる人または対立する人)がいて成立するようになりました。存在理由として社会との関わりも必要になりました。アートは一回死んで、社会と人々と交わり始めたのです。
アートってかっこいいことでもオシャレなことでもない。
日本の若い人にとって、アートっておしゃれみたいな捉え方もあると思います。
イギリスも、そういう側面もあるよでもでもアーティストは冷静に糞まみれさ。そういう意味で高尚さ。おしゃれな人もいていいけど、ホームレスと間違われるような人でもいい。
おかまでも、ゲイでも、レズビアンでも、差別主義者でも、犯罪者でもいい。
Artをちゃんとやってるならば、いつだって Coolさ。
あと作家がだれかなんてどうでもいい。
作品が気に入れば、もしくは作品がとても気に入らなくても忘れられなければ、
あなたにとっていい作品だ。作家なんてカンケーないぜ。だって、本人でも嫌いな絵も作品もあるんだぜ。自分の好きな一枚を見つけよう。
好きなアーティストなんて見つけるな。作家の個人情報なんて気にしないで、作品をちゃんと見よう。作家で作品を見ているようでは、やっとモダニズムの気配です。
50年遅れてる。
日本のアートが認知されたのは事実だけど、
日本由来の固有種として発見された新種のシカみたいなもんだ。
東南アジアの田舎で少数民族が作っている民芸みたいなもんだ。文化人類学的には。
万博のジャポニズムブームなみの内容の無さだし表層、まさにスーパーフラット。。。
言いたいことなんてない!という開き直りさえ感じる。
はっきりいって、コンテクストの開発は海外経験組が引っ張っている。
指摘されるプレゼン力の弱さだけど、どう説明すれば外人が納得するのか理解するかを理解することが必要なので、海外で個人主義ベースの論理的思考を学ぶ必要があるのだと思う。だからといって、凱旋帰国した日本人アーティストを巡回してもなあ。
ヨーロッパと日本の一番の違いは、観客だとよく言われる。一方的なコミュニケーションにさらされても「そういうものとして」受け入れてしまう日本人気質に問題がありそう。これが、馬鹿アーティストをのさばらせる原因になっていると思う。あなたがおかしいと思ったら、おかしい。専門的な知識やアートの歴史を知らなくっても、自分目線の鑑賞は出来るはず。
あ、そうだ日本人がみんな外人みたいにわからずやで個人的になればいいんじゃないでしょうか。とりあえず他人を見るの止めてみよう、空気読むのやめよう。自分はどう思うのかを追求しよう。どんどん自分勝手になっていけば、「個人」が見えてくるはずだ。何をやってもいいんだって空気が必要だ。だからって、理由無く人を傷つけたり自由は履き違えないで欲しい。
自分を大切にアートと向かい合ってみる。そうすれば、身の回りのアートに気づくのではないでしょうか。こういう観客には、半端な作品では通用しないはず。
2009年9月19日土曜日
花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち - vol.5 大巻伸嗣 -
現在、熊本市現代美術館(CAMK)で開催中の花・風景展 モネと現代日本のアーティストたち:大巻伸嗣、蜷川実花、名知聡子 を見てきました。
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。
蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
読みやすいように、vol. 1,2,3,4,5と分けて書きます。
今回は、vol.5として大巻伸嗣の今回の展示について。
蜷川の展示スペースから狭い廊下を抜ければ、あわく白光する空間に咲き乱れる花模様に踏み入れることになる。自身の陰を見失いゆっくりと踏みしめれば足元の花と、それらの花が形作るサークルの中心に柱が立ち上がる。
参加者が白いフェルトで出来たフロアを歩き回ることによって、花の形にかたどられた顔料の形が崩れにじむ。人の参加によって変化していく。このインスタレーションは観客が参加することによって変容していくタイプのアート。
作家は、ヘリで阿蘇の空から取材して得た「色」を意識して、熊本らしい色が選択されている。その場に合わせてつくる、特に開催場所(空間も含む)に相応して作品を変化させることやその場を意識してその場でしか作りえない作品を作るやり方をSite Specific(Site Specify)というが、今回の展示では熊本の子供にステンシルに参加してもらったり、使う色に熊本を意識することによって「ローカライズ」と呼ぶに相応しい適応を見せている。彼の、ステンシルのシリーズの熊本バージョンといったところだろうか。
vol.1 展評
vol.2 石元泰博
vol.3 名知聡子
vol.4 蜷川実花
vol.5 大巻伸嗣
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